235.春の夜の夢


 あるはずのない酒の匂い。


 いるはずのないドレスの美女。


 あまりにも現実離れした状況に、タフマンは――


「ああ、なんだ夢か」


 と、結論を出した。


「そ……そうですわ! これは夢ですの!」


 そして、それに全力で乗っかるヤヴカ=チースイナ。


 霧化し全力で逃げる手もあったが、それだと吸血種であることが確定してしまう。しかも目の前で美女が霧散したら、ギョッとして完全に目を覚ますだろう。


 吸血種の存在が自治区民に露見するのはヤバい! 夢ということでゴリ押して誤魔化せるなら、それに越したことはない……!


 引きつった愛想笑いを浮かべるヤヴカだったが、タフマンは見向きもせず、その手の酒瓶を凝視していた。


 たら……と口の端から垂れるよだれ。


「こちら、上物の蒸留酒ですの。一献いかが」


 自慢の美貌を完全スルーされて若干プライドが傷つくヤヴカだったが、それどころではないので、トクトクと盃に酒を注いで手渡す。まあ、冷静に考えたら顔は覚えられない方がいいのだが、それはそれとして。


 ちなみに上物と言いつつ、どんな酒なのかは詳しく知らない。ただ、配下に度数の高い酒を所望したら「お嬢様、これは上物ですよ」と渡されたので、そう認識しているだけだ。


 吸血種は血以外の飲食は必要なく、ヤヴカも飲食は嗜まない。たまに、血の渇きを誤魔化すため飲み食いする者がいるが、あくまで趣味の域だった。


「おっほ、こいつはありがてえや。こんなべっぴんさんに酒まで……」


 念願の酒を手に入れて、初めてヤヴカの顔を認識し、頬をほころばせるタフマン。しかし、やはり意識の大半は、盃に揺れる透明な液体へ割かれているようだった。


 月明かりに揺れる蒸留酒を愛しげに見つめてから、グイッと煽る。


「……ぷはっ! うっ、うまい……ッ! なんて美味いんだ……!」


 感動に打ち震えるタフマン。


 その隙に小声で呪文を唱えるヤヴカ。


「……いや待て、この香り……まさかアーリエン・ビ――」


 ふと我に返ったように、空になった盃へ目を落とすタフマンだったが。



 ふぅーっ、とヤヴカに眠りの霧を吹きかけられ、とろんとした目つきになり、そのままベッドに倒れ込んだ。



 ……そして、すぅすぅと穏やかな寝息を立て始める。



「危ないところでしたわ……」


 額の汗を拭うヤヴカ。吸血種は暑さも寒さも平気で、普通は汗もかかないが、冷や汗のたぐいは出る。それが今だった。


 念の為、もう一度眠りの霧を吹きかけてから、タフマンの様子を観察する。


「…………ぐぅ」


 爆睡していた。


「誤魔化せましたわよね……?」


 これがただの夢だと。


「これは夢ですわ、ただの夢……絶世の美女と一緒にお酒を飲む楽しい夢……」


 意味があるかどうかはわからないが、言い聞かせるように、耳元でささやきかけておいた。頼むからこんな感じの夢を見て混同してほしい……! と祈りながら。


「はぁ……」


 溜息ひとつ、タフマンが取り落した盃を拾い上げるヤヴカ。ハンカチで、タフマンが口をつけたあたりを念入りに磨き上げた。


 ついでに、そのまま酒まみれのハンカチで、せっせと首筋も拭き清める。


 なんで、たかが人間ひとりの血をちょっと飲むためだけに、こんなに苦労してるんですの……と思わず遠い目をしてしまった。


 気を取り直し、ピッと爪でタフマンの首筋に小さな傷を付ける。血流を操り、スムーズに血を抜き取っていった。


 そして盃を3分の2ほど満たしてから、止める。血を糸のように操り、今度は傷口を接着。ギュッと押さえつけると、またたく間にかさぶたと化して、傷は塞がった。


「ふぅ……」


 あとは、本人の治癒力次第だ。よほど弱った人間じゃない限り、明日にはもうほとんど治っているはず。


「…………」


 手の中の盃。赤い液体をゆらゆらと揺らしてから、ヤヴカはグイッと煽った。タフマンに負けず劣らずの飲みっぷり。


「ぷは。酒臭いですわね……」


 顔をしかめる。血に酒精が混ざるには早すぎるので、たぶん、盃に酒が付着していたせいだ。


 なんで定命の者たちは、こんなものをありがたがって呑むんですの……とつくづく疑問に思うヤヴカ。毒も薬も効かず、当然アルコールでは酔いもしない、吸血種ならではの感想だった。


「無駄に疲れましたわ……」


 ヤヴカは心なしかげっそりしていた。身体的な疲労とは無縁な吸血種だが、精神的なものからは逃れられない……


 まったく、この人間のせいで! と忌々しげにベッドを見下ろすヤヴカだったが。


「むにゃ……もう飲めね……」


 タフマンの声に、再びビクッとする羽目になった。


「………………寝言ですの」


 間抜け面でよだれを垂らしながら、眠りこけるタフマン。



 どうやら、楽しい夢を見ているようだった。



 ホッと胸を撫で下ろし、ハンカチなどをポーチにしまったヤヴカは、今一度、目を皿のようにして自分が痕跡を残していないかチェックする。



 ……何も残していない。血の染み、足跡のひとつさえ。



「……良い夢を」



 心の底から、タフマンが良い夢を見続けることを祈り。



 ファサァ……と霧化したヤヴカは、そのままタフマンの家を後にした。



 もうここには二度と近寄るまい……



 仲間たちにも注意喚起しておこう……そう決心しながら。

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