208.異常と変異


「――この愚図がッ!」


 パリーンッと何かの割れるけたたましい音が、ネフラディアの私室から響き渡る。


 部屋の外で掃除していた夜エルフの使用人が、ビクッと身をすくめた。


 ……ドアが開く。頭から刻みタバコの灰をかぶったエメルギアスが、貼り付けたような無表情で、のそりと出てきた。


「――それらしい成果を上げるまで、もう顔を出すな!」


 ネフラディアの喚き声を遮断するように、ドアを乱暴に閉めるエメルギアス。


 頭を振り、タバコの灰を払い落としてから、ジロッとその不機嫌極まりない緑色の瞳で使用人を睨みつけた。


「……!」


 震え上がった夜エルフは、深々と頭を下げる。許しを乞うように。あるいは慈悲を願うように。自分は何も悪くないというのに。


 ――ただでさえ、使用人たちは、いつも機嫌の悪いネフラディアの下でいらぬ苦労をしているのだ。なのに息子にまで八つ当たりされたらたまったもんじゃない――


 自分は何も見ていない。お願いだから堪忍してほしい。怯えを滲ませながらプルプルと震える使用人に、ますます不機嫌そうに頬を痙攣させたエメルギアスは、しかし何も手出しすることなく視線を逸らした。


 代わりに、ごつんと岩壁を殴る。以前、力任せに殴ってヒビを入れてしまい、修繕が必要になってネチネチと嫌味を言われたため、控えめな威力だった。


 そのまま肩を怒らせつつ、足早に歩き去るエメルギアス。



 ――散々な言われようだった。



 運悪く、母の機嫌が最も悪いところへ報告に来てしまったらしい。6歳の弟に並ばれて悔しくないのか、並ばれるどころか抜かされる勢いじゃないか、そんな体たらくで恥ずかしくないのか、もっと真面目にやれ――しまいには、灰皿を投げつけられ、成果を上げるまで顔を出すなとまで言われてしまった。


「……フン」


 鼻を鳴らす。エメルギアスだって、好きで顔を出していたワケじゃない。


 あからさまに避けていたら、もっと面倒なことになるから、嫌々定期的に顔を見せに来ていただけ。しばらく会わずに済むなら、むしろ助かるぐらいだ。


 ……だからといって、気分がいいわけではないが。


(クソッ)


 ネフラディアの区画を出て、魔王城の柱をガツンと蹴りつけた。自分はもちろん、母まで最低最悪の気分に叩き落とした原因。それは――


(何なんだ、アイツは!?)


 ジルバギアス=レイジュ。


 6歳になったばかりの、末の弟。


(異常だろ!! どう考えても……ッッ!)


 先ほどの、食事会のあとの父とのやり取り――すべてが、あの弟のありとあらゆる言動が、おかしかった。


 あの知性も、知識も、弁舌も。魔王を感心させ、唸らせる交渉力も。


 ――本来、6歳といえば、玩具の槍で戦士ごっこをしているような年齢だぞ!?


(なのになぜ父上は、当然のような顔で受け入れているんだ!?)


 いくら魔界で長い時を過ごしたからといって……いくら知識の悪魔の薫陶を受けたからといって……


(あんな……!!)


 認めがたい。何なのだ、アイツは! おかしいだろう!


 その上、たった6歳であの魔力。


(……ふざけるな!)


 できることなら、大声で叫びだしたかった。


(オレが侯爵まで上げるのに、どれだけ苦労したと思っている……!?)


 近日中に、ジルバギアスも侯爵に叙されるという。――アイツが、自分と同格に。改めてその事実を思うと、めまいがしてきそうだった。


 エメルギアスはこれまで、優秀な兄姉3人のせいで何かと苦労が絶えなかった。母はもちろん、周囲まで必ず自分と比較してくるからだ。


 文武両道の長男アイオギアス。


 武闘派女傑の長女ルビーフィア。


 そして型破りな次男ダイアギアス。


 エメルギアスは……彼ら彼女ら3人とは違った。普通だった。もちろん、そんじょそこらの魔族よりは優秀だが、裏を返せば、凡百の魔族より優れているだけ。抜きん出た何かがあるわけではなかった。


 ――悪魔と初めて契約して、魔界から戻って。


 それが【嫉妬】の権能だと知ったときの母の落胆の表情は、今でもありありと思い出せる。嫉妬とは、自分より優れた何かを前提とする権能だった。自らが周囲に羨まれるような、覇者の資格を持たないと自白したに等しい――


 だけども、エメルギアスも必死だった。武芸の鍛錬を積み、兄姉たちに追いつこうと努力は欠かさなかった。アイオギアスの完璧さが、ルビーフィアの豪胆さが、ダイアギアスの破天荒さが、羨ましかった。妬ましかった。


 そしてその醜い感情のすべてが、自分に力を与えてくれた。契約した直後は、メキメキと力が育った。従騎士から子爵へ上がるのはあっという間だった。


 しかし、それからは伸び悩んだ。どれだけ追いつこうとしても、兄姉たちも鍛錬を続けている。背中がどんどん遠ざかっていく。差が開いていく。


 こんなにも頑張っているのに、追いつけない。ましてや追い抜くことなんて……



 ……イザニス族が、アイオギアスのヴェルナス族に従属し。



 派閥入りしたのを契機に、エメルギアスの魔力はほとんど伸びなくなった。



 羨み、妬み続ける感情が、もはや擦り切れてしまったかもしれない。あるいはその感情を、意図的に制御しすぎたこともあるだろう。もはや、すべてが義務的だった。兄姉たちを妬み続けるのも、鍛錬を続けるのも、強さを求めるのも――


 ――その先に何があるのか、自分でもわからなくなってしまった。


 満たされない。ただ空虚さだけが胸を蝕む。昔は、もっと何かに衝き動かされていたように思う。でもそれが何だったのか、エメルギアスには、もうわからない。兄姉たちには追いつけそうにない。そう思ってしまった。


 もう、ほとんど諦めていた――



 が。



 あの、弟。



 ジルバギアス。



(アイツにだけは……!!)


 負けたくない。そう思った。兄姉たちに追いつけないのは、仕方がないと思えた。自分より年上だし、恵まれた『何か』を持っている。


 しかし、弟に――それも6歳のガキに、追い抜かされるとなると話が別だ。


(認められるか……そんなこと……!)


 魔力ではほぼ同格。それに加えて――あの知性。ふざけるな、アイツはいったい、どれだけ素質に恵まれたというのだ!? 


 これからジルバギアスが急速に、凡百の魔族と化していくとは到底思えなかった。


 むしろ、これからもどんどん伸びていくだろう。


 この調子では――数年も経てば、あっという間に――


「……くッ!」


 ドンッ、と壁を叩いた。近くを歩いていた獣人の使用人がビクッとしたが、もはやそれを気にかける余裕さえなかった。


 険しい顔で、虚空を睨むエメルギアス。


(認められねえ……そんなことは……ッッ!!)


 思い出す――先ほどの――父の、魔王の顔を。


 異常な末の息子を、しかし度量広く受け入れ。


 その弁論と献策に舌を巻き、素直に感心し。


 認めた上で、嬉しそうな、誇らしげな表情をしていた。



 自分には――



 ただの一度も――



 向けてくれなかったような顔を――



「ぐぅぅ……ッッ!」


 エメルギアスは胸を押さえる。ギリギリと手に力が入りすぎて、貴族服の生地が引き千切れ、ボタンが弾け飛んだ。


 苦しい。心臓が捻じ切れて、はらわたが煮えくり返るようだった。


 怒りにも似た、だがもっと粘着質な、ドロドロとしたこの感情は――久しく忘れていた、本物の――


(オレが……あんな、ガキに……ッッ!)


 壁によりかかり、額に汗を滲ませながら、エメルギアスは歯を食いしばる。



 認めがたい。



 あまりに、認めがたいことだった。



 いい歳した自分が、あんな生まれたてのひよっこ魔族に――



(妬ましい……ッッ!)



 狂おしく、嫉妬しているなどと……!!




 メキッ……と何かが軋む音がする。




 エメルギアスの奥底から。




 それは、彼の根幹をなす『何か』が、無理やり押し広げられる音だった。




 ゆっくりと――しかし確実に。




 そして、歪に。

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