207.燃える情動


 魔王城、外縁上層部。


 城下町の夜景を眺めながら、ゆったりと歩く魔族の女がいた。


 ――プラティフィア=レイジュ。


 いつもの優美なドレス姿ではなく、動きやすい乗馬服のような出で立ちだ。というのも、彼女は仕事上がりでこれから自室に戻るところだった。


(今日は、平和だったわね……急患もなかった)


 彼女の仕事。


 それは魔王城における最上級の癒者ヒーラーだ。


 魔王の妻であり、大公妃という最高爵位を持つプラティフィアだが、だからといって普段から何もせず遊んで暮らしているわけではない。


 戦うしか能がない凡百の魔族と違い、彼女には特殊技能――【転置呪】がある。


 魔王城の治療室で、後進の指導に当たりつつ、並の癒者では歯が立たない上位魔族の急患に備えるのが彼女の任務だ。


 実戦経験が豊富なプラティフィアは、聖属性の傷からある程度の呪いまで、幅広く対応できる。かつ、大公妃の名に恥じぬ強大な魔力を誇るため、それだけで、国内で有数の癒者と言っても過言ではないのだ。


 唯一、彼女が治療できないのは、魔力が桁違いに強い魔王くらいのものだろう。


 魔王の比類なき魔法抵抗が災いし、プラティフィアがどれだけ魔力を込めようと、転置呪まじないはすべて弾かれてしまうのだ。


「…………」


 ふと、足を止めて、やるせない気持ちで夜空を眺めてから、再び歩き出す。


 敬愛する魔王の身に万が一のことがあっても、何の役にも立てない自分に、虚しさを覚える瞬間はある。


 初代魔王の治療がかなわず、レイジュ族が非難を浴びて苦汁を舐めさせられた過去を知るだけに、なおさらだ。


 できることなら、魔王あのひとには何事もなく天寿を全うしてもらいたいが――


「……疲れてるのかしら」


 柄でもない。それに縁起でもない。


 プラティフィアは益体もない考えを振り払った。



 ――魔王は無理だが、魔王子ならば治療可能だったりする。



 事実、プラティフィアは、前線から負傷して戻った第1魔王子アイオギアスを治療したこともある。魔力量ではアイオギアスの方が格上だが、本人が【名乗り】を使わず、抵抗もしなければ、転置呪を通すことはできるのだ。


 果たして国内に、アイオギアスを治療可能な転置呪使いが何人いるだろうか。


(あのときは、ジルバギアスが生まれて間もない頃だったわね……)


 懐かしく思う。産後に復帰して早々の大仕事だった。


 転置呪さえ使えれば、命に別状のある傷ではなかったが、聖属性を綺麗に押し流すのに手こずった覚えがある。


(――将来的には、敵対するかもとは思ったけれど)


 それでも治療の手は抜かなかった。


 他ならぬ魔王の命により、すべての魔族は職務上で意図的に手抜きすることを固く禁じられているからだ。ひとたび手抜きを許容してしまえば、醜い派閥争いで魔王軍がまともに機能しなくなる。


 だから、コルヴト族は敵対部族の領地でもまともな工事をするし、ヴェルナス族は食品を腐らせることなくきちんと冷蔵するし、イザニス族は誰に対しても伝令の任を全うし、レイジュ族は治療に全力を尽くす。



 裏を返せば――



 任務中、職務中でなければ。



 常識の範囲内で、存分に喧嘩していい。



 ……魔族としての、常識の範囲内で。



「あら、プラティフィアじゃない。久しぶりね」


 居住区に入ろうかというところで、とある女と鉢合わせた。


 それは、エメラルドの首飾りをつけ、色鮮やかできらびやかな、しかしどこか毒々しい緑色のドレスに身を包んだ魔族だった。


 長く伸ばして結った緑の髪を右肩の前に垂らし、扇子を開いては閉じてパチパチと鳴らしている。黒々とした、狡猾で虚無をたたえた瞳。


 ――ネフラディア=イザニス。


 第4魔王子エメルギアスの母だ。爵位は、プラティフィアと同格の大公妃。


 ……なのだが、レイジュ族きっての女傑でバリバリの武闘派でもあり、大公妃となったあとも鍛錬を欠かさないプラティフィアと、どちらかと言えば搦手が得意で術者タイプのネフラディアとでは、かなり地力に差があった。


 の不意の遭遇に、付近にいた獣人や夜エルフの使用人たちが、巻き込まれてはかなわぬとばかりに、そそくさとその場を離れていく。


「あら。ネフラディアじゃない」


 一瞥して答えたプラティフィアは。


「それじゃあ、ごきげんよう」


 お前に用はない、とばかりに立ち去ろうとした。


 まったく歯牙にもかけない態度。それが気に食わなかったか、ネフラディアは眉根を寄せてから、ニタリと意地の悪い笑みを貼り付けた。


「遅くなったけど、レイジュ族の戦勝おめでとう。ずいぶんと早く王都を攻め落としたそうじゃない」


 ばさっと扇子を広げて、口元の笑みを覆い隠す。


「代わりに、若手から中堅がごっそり抜けてしまったと聞いたけど。大変ねぇ」


 性悪な毒蛇が、牙をちらつかせる。プラティフィアは面倒くさそうに足を止めた。


 ネフラディアが突っかかってきた理由は明らかだ。デフテロス王国の半分を制圧したのはイザニス族が主力の軍団だったのに、冬の到来を理由に軍団の入れ替えがなされ、レイジュ族が王都エヴァロティという『美味しいところ』をかっさらっていく形になったからだろう。


 このまま無視して立ち去りたいのは山々だが、言われっぱなしでは沽券に関わる。


「戦場では、イザニス族の伝令はやはり頼りになるわね。今回の戦でも、素晴らしい働きぶりだったと聞いているわ」


 そのゾッとするような冷たい美貌に、これまた冷ややかな笑みを貼り付けて、プラティフィアは応じた。


「それでも、今回は我らが一族が王都を担当できて良かったと思うの。あなたの一族が王都を攻めていたら、癒者が不足して大変だったでしょうから」


 ――お前らイザニス族がエヴァロティを攻めていれば、ウチの比じゃないくらい、大損害を出していただろうよ。


「あらぁ、心外ね。入り組んだ市街戦はむしろ我が一族の得意とするところよ」


 その返しは想定内だったのか、ネフラディアの笑みは小揺るぎもしない。


聖大樹連合森エルフも随分と戦力を割いていたみたいだし……は、レイジュ族のみなさんには少し荷が重かったのではなくて?」


 ――長らく冷遇されて大規模な戦場に出る機会がなかったから、お前らレイジュ族もなまってたんだろ。


「厳しい戦場だったのは確かね。イザニス族の伝令たちにも被害が出てしまった……治療がかなわない者が多かったそうで、申し訳ないばかりだわ」


 ――そう言うイザニス族の戦士も、即死で治療不能な者がほとんどだったわ。


「……あなたの息子さんも大変だったそうじゃない、聞いたわよ。子飼いの家来たちが身を挺して危機を救ったとか……忠義に厚い者に恵まれたわね、羨ましいわぁ」


 敢えて全滅したことには触れず、褒め称えるネフラディア。


「ええ、本当に。仇討ちはできたから、彼らもきっと報われるわ。あなたの息子さんもそうだけど、やはり魔王子の初陣には試練が付き物なのかもしれないわね?」


 プラティフィアも笑顔で応戦する。初陣で被害を被ったのは相手方も同じ――


「幸い、無事に試練も乗り越えて、陛下も武功を認めてくださったわ。近日中には、侯爵に叙されることになったの。、ね」


 これ以上なく、プラティフィアは誇らしげな顔で――


「あなたの息子さんの、次の槍働きの機会が楽しみだわ。とうとう公爵に叙されるのかしら。それとも――一段飛ばしで、一気に大公にまで?」



 くすくすくす、と笑うプラティフィアは絶対の自信を滲ませていた。



 我が子ならば、やがて必ずその次元に至る、と。



 比類なき才覚を確信している顔――



「…………っ」


 ネフラディアも負けじと言い返そうとして、しかし、言葉が出なかった。我が子を思い描き、プラティフィアの息子と比較して――


 何をどう言うべきか、わからなくなってしまったから。


「……ふふ。それじゃあ、ごきげんよう」


 優越感たっぷりに笑ってから、プラティフィアは去っていく。


「…………」


 じっとりとその背中を睨み、曲がり角の向こうに消えるのを見送ってから、ネフラディアもまた静かに歩き出した。……ほのかに、毒々しい魔力を漂わせながら。




 自室に引っ込んで、他者の目がなくなってから、扇子をベッドに叩きつける。


「忌々しい……ッッ」


 何が、とは言わなかったが。


 不機嫌そのものでソファにどっかと腰掛け、愛用の煙管パイプを口に咥えて魔法で火を付ける。


 胸いっぱいに吸い込んで、プフゥーッと盛大に吐き出した。


「…………」


 少しは気分がマシになった。虚ろな顔で、紫煙をくゆらせるネフラディア。


 その目は鬱々と、壁際に飾られた、悪趣味な純金製の魔王ゴルドギアス像を見つめている――


「……奥方様」


 やがて、側仕えが部屋の扉をノックした。


「なに」

「若様が、ご報告に上がられました……」


 遠慮がちな声。


 若様。言うまでもなく、ネフラディアの子のことだった。


「……通して」


 再び不機嫌そうに顔をしかめたネフラディアは、言葉少なに。



 まもなく、問題の息子が顔を見せた。



 ――第4魔王子、エメルギアス=イザニス。



「母上、報告が」


 貼り付けたような無表情で、エメルギアスは部屋に入るなりそう言った。


「陛下とのお食事は楽しかった?」


 皮肉げな口調で、ネフラディアは我が子に問う。


「……ええ。まあ」


 少し沈黙してから、エメルギアスは無愛想に答えた。


「そう。いいご身分だこと」

「…………」

「それで? 報告とは」


 もはや、石像じみた虚無の表情を見せていたエメルギアスが、ここで、思わずといった様子で苦々しげに顔を歪めた。



「……父上が、エヴァロティを、人族の自治区にするという方針を打ち出され――」



 絞り出すように。



「――そしてその代官として、ジルバギアスが任命されました」






 メキッ、とネフラディアの手の中、愛用のパイプがへし折れた。
















 ……そして、火のついた刻みタバコが、ドレスから露出した太ももに、パラパラとふりかかった。






っつァ!」

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