145.神よ赦し給え


 ――プラティに向ける感情が、『綺麗』だと評され。


 あろうことか、俺は咄嗟に、それを否定することができなかった。無論、表立ってする必要はない。だけど、胸の内でさえ。


 俺は……。


『何を今更ヘコんどるんじゃ。お主があの女にほだされておることなど、わかりきっておったろうに』


 屋敷に戻ってから、部屋で忸怩たる思いに駆られていると、アンテがことさら意地悪な口調でそう言った。


 ベッドに腰掛ける俺の隣、幻のように、魔神は現れる。


『てっきり自覚してやっておるのかと思うたわ』

「……何をだよ」

『仲の良い親子関係に決まっておろう』


 極彩色の瞳が、真近から俺を覗き込んだ。


 仲が良い? ……笑わせんなよ。そりゃあ、外面は取り繕ってたけどよ。


 確かにプラティは、魔族にしちゃ物分りが良い方だし、俺がやりたいように色々とやらせてくれている。そのことについては……感謝しているさ。


 だが、それでも、アイツは魔族だ。しかも魔王国内で人族をバンバン消費しているレイジュ族の重鎮だ。


 そんなヤツ相手に好意を抱くなんて、お前……


 許されねえよ。


 それに何より、俺のおふくろは! 世界にひとりしかいねえんだ!


 あんな気取った美人じゃねえ、もっと朗らかで、にこやかで、素朴で――


 でも芯が強くて、夜エルフどもの矢を何本も背に受けながら、俺を抱えて一晩走り抜いて、守ってくれるような人なんだ……!!


 俺はおふくろの顔を思い浮かべようとして――




 愕然とした。




 思い出せねえ。




「は……?」


 ぼんやりと……印象と、輪郭ぐらいしか……髪型は? 目の色は? 笑うとどんな表情だった……?


「あ……あ、ああ……!!」


 嘘だ。嘘だろ。なんでだよ。


 なんで忘れちまうんだよ!! 生まれ変わったときは、もうちょっとはっきり覚えてたじゃねえか!


 俺は歯を食いしばり、虚空を睨み、必死で思い出そうとした。


 だが……記憶を掘り返そうとするほどに、むしろ曖昧になっていくような……


『何も不思議なことではない』


 俺を憐れむように見守りながら、アンテは小さく溜息をついた。


『我と出会った時点で、お主の魂は、ほとんど原型もなくスカスカじゃった。そんな状態で前世への思い入れが残っておるだけでも、奇跡的よ』


 わけではない――とアンテは告げる。


『もともと、お主の記憶は限りなく無色透明に近い、どこまでも風化した絵画のようなものじゃった。そこへ、今のジルバギアスとしての色鮮やかな生と、圧倒的な経験が描き込まれていくうちに――相対的にその薄さが際立ち、段々と見えなくなっていっておるだけのこと……』


 俺はその言葉に恐怖した。


 じゃあ……どんなに思い出そうとしても。


 思い返して記憶に留めようと頑張っても、いずれは――


『――さらに薄れていく。……そう表現するしかないのぅ』


 今の、俺の色鮮やかな記憶が。


 ありし日の思い出を、容赦なく塗り潰していく――


 そっと、幻影の手が俺の頬に触れた。


『じゃが……どれだけ記憶が薄れようと、お主に前世があったことは変わらん。お主がアレクサンドルであり、人族の勇者であったことも、な』


 憐憫と慈愛に満ちた笑みを浮かべ、俺の頬を撫でるアンテ。


 ……そう、だな。


 もう、何もかも思い出せなくなっちまったとしても。


 全て嘘っぱちだったことにはならないんだ。それが……いちばん大切なことだ。


『その上で言うが……お主が今生の母として、あの女プラティを慕う。大いに結構なことではないか』

「は?」


 あっけらかんとした口調に、思わずとぼけた声が出る。


『人族の勇者として、魔族に絆されるなど言語道断という気持ちはわかる。じゃが、あの女が今のお主の庇護者であり、良き支援者であることに変わりはない。腹の底で憎悪を燃やし続けるより、開き直って良好な関係を築く方がじゃろ?』


 くふふ、と笑ったアンテは、表情を引き締めて、こう付け足した。


『特に――親族に、感情を見抜く能力の持ち主がいるともなれば、の』


 ……確かに。あれには本当に肝を冷やした。


 俺の、今のプラティに向ける、ある種の感謝の念のおかげで――ああ、認めるさ、こうなったらもう――ゴリラシアの目を欺けたとも言える。


『そうじゃ。これは必要なことなのじゃ。だからこそ今後とも、良き親子としてあり続けるがよい。それに――』



 忘れたか? と。



 アンテは俺に囁いた。



『お主が、あの女への思い入れを強めれば強めるほどに――』



 手にかけたときのも、大きくなるのじゃぞ?



 ……ぞわっ、と背筋に悪寒が走る。



 今や、魔神の憐憫と慈愛の笑みは。



 輪郭だけはそのままに、おぞましい色を帯びていた。



『極上の美味であろうなぁ……!! 【親殺し】、あらゆる文化に共通する最大級の禁忌。今のお主なら、いったいどれほどの力が得られるか見当もつかんわ……!』



 ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……と地の底から響くような笑い声。



 魔神が、俺を抱きしめる。まとわりついてくる。蛇のように絡みつき、熱い吐息が俺の頬をくすぐる。



『――思い出せ。お主の目的は何じゃ?』



 魔王を倒し、魔王国を傾け、人類を救うこと――



『であれば、魔王を倒せるほどに、強くなることがお主の責務じゃ。そしてそれは……!!』



 ゆえに、と魔神はわらった。



『――我が赦す。存分に愛し、慈しむがよい』



 極彩色の、混沌の瞳が。



 俺の魂をとらえて離さない。



『お主は、思い悩む必要はない。ただ存分に――あがき、苦しむがよい。



 言葉の酷薄さとは裏腹に、頭を撫でつける手はどこまでも優しく。



 いつしか、魔神は消えていた。



 アンテは俺の魂でたゆたっている。



 俺は小さく息を吐いて、姿勢を正した。



 うだうだ思い悩む気持ちは、きれいに消え去っていた。



 ただ、どこまでも熱く冷え切った想いに、心の臓が引き千切れそうになるだけで。



 ――今こそ認めよう。



 壁に立てかけた聖剣アダマスを見つめながら、胸の内でつぶやいた。



 俺は――今の俺は。



 きっとプラティを、母として愛している。

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