130.一触即激発
「があああ――ッ」
鼻血を噴いて宙を舞うゲルマディオス伯爵を、族長一族は唖然として見送った。
そのままきれいな放物線を描いて、宴会場の長テーブルに落下。ドガシャァッと耳障りな音が響き渡り、酒を酌み交わしていた魔族たちが何事かと振り返る。垂れ幕の向こうで陽気な音色を奏でていた楽団も、あからさまな騒動の気配にピタッと演奏の手を止めた。
「おおっと、これは失礼」
静まり返った会場に、皮肉な声が響く。
他でもない、魔王子ジルバギアスだ。
拳に付着した血をナプキンで拭いつつ、雛壇から悠然とゲルマディオスを見下ろしている。
「武技に自信がおありとのことで、この程度はいなされるかと思っていたが。まさか直撃するなどとは思ってもみなかったぞ」
「ぬぅぅ……!」
ロン毛に絡まった食べ残しを鬱陶しそうに振り払い、ゲルマディオスが憤然と立ち上がるも、ジルバギアスは意に介さず言葉を続けた。
「――真の不届き者であれば、今ごろ命はなかっただろう。運が良かったな」
サッと首を掻き切る仕草。その気になれば命を奪うのも簡単だった、と。
もはや嘲りの色を隠しもしない、あからさまな挑発。
「くゥッ……!」
咄嗟に、ゲルマディオスの手が携帯式の魔法の槍に伸びる。自分から先に煽ったとはいえ、年下にここまで
「おっ、やるか?」
それを見て、慌てるどころかさらに笑みを濃くするジルバギアス。応えるように、左手を、腰の古びた剣の柄に置く。
「卿は、槍の腕前
欠片も信じていなさそうな口調で。
「腹ごなしにちょうどいい。ご教授願おうか? ゲルマディオス伯爵」
余裕綽々。ジルバギアスは己の勝利を微塵も疑わない顔だった。
「…………」
ゲルマディオスの目も据わりつつある。顔面を殴り飛ばされ、煽られ、ここで身を退くようならば末代までの笑い者だ。
しかも、ジルバギアスは先手を打って【名乗り】の魔法を使用した。
もはやただの喧嘩の域を超えている。
このままでは果たし合いに発展しかねない――
【名乗り】で強化されたジルバギアスの魔力は今や、末席で顔を引きつらせるエイジヴァルト子爵を軽々と超え、伯爵級と言って差し支えないほど膨れ上がっている。
ゲルマディオス伯爵と同格――
いや、ともすれば格上とさえ――
それほどの実力者同士がこのまま衝突すれば、周囲にどれほど被害が出るか、まるで予想がつかない。
「
族長ジジーヴァルトが制止しようとしたところで、
「――ジルバギアス」
よく通る落ち着いた声が、問題児の名を呼んだ。
プラティフィア大公妃。
ほう、と誰かが安堵の息を吐く。そうだ、彼女しかいない。あらゆる意味で魔王子ジルバギアスの上位者たる大公妃の他に、事態の収拾がつけられる者はいない――!
そして、その場の全員の期待を一身に背負ったプラティフィアは。
お世辞にも上品とは言えない笑みを、扇子で覆い隠しながら、一言。
「殺しちゃダメよ」
――!?
「心得ております」
母が母なら、息子も息子だ。目を剥く同族など気にも留めずに、振り向きさえせずに答える。奇しくもその獰猛な笑みは、母親のそれと酷似していた――
ジルバギアスが、しゃらりと腰の剣を抜き放つ。
何の変哲もない、古びた剣。
だが――どこか空恐ろしくなるような、冷え切った気配を帯びている。
王子が装飾のように身に着けていた人骨が、まるで意思を持つ蛇のようにくねり、姿を変え――またたく間に剣と融合、長大な槍を形作った。
「……!」
周囲は、そして相対するゲルマディオスは悟る。堂に入った構え、刃先にまで行き渡った魔力、鳴動する火山がごとき荒々しい存在感。
王子の剣槍は伊達でも酔狂でもなく、研ぎ澄まされ洗練された、一線級の戦闘術であると。
「俺は【名乗り】を使ったからな。卿も心置きなく血統魔法を使うといい」
ひゅぅん、と刃が風をまとう心地よい音を響かせ、ジルバギアスが構える。
「
一瞬、ゲルマディオスがぴたりと動きを止めて、全身からドス黒い闇の魔力を噴き出した。
ジルバギアスの言に、看過し得ぬ嘲りの色を見たからだ。
「……ならば、とくとご覧じろ……!」
怒りのあまり顔色を青黒く変え、歯ぎしりしながらベルトの魔法の槍を抜いた。
展開。
「――【
ぶわっと一陣の黒い風が渦巻き、ゲルマディオスを包み込む。
闇の糸で織り上げたような魔力の外套が、ばさりとひるがえった。
ゲルマディオスの母方、オンブル族の血統魔法だ。闇の神々の加護を得られる強力な魔除けのまじないで、その闇の外套は主人を守り、呪詛の類を跳ね除ける。
つまり、ゲルマディオスに生半可な呪いは通用しない。
ここからは純然な槍勝負――
それを知ってか知らずか、ジルバギアスは「ははァ!」と戦意をたぎらせている。吹き荒れる暴力的な気配に、思わず背後の族長一族が軽く身を引くほど――
唯一、扇子をひらひらさせながら見守るプラティフィアだけが、泰然と。
「…………」
得物を構え、睨み合うふたり。
ゲルマディオスの周辺の魔族たちが、そろそろと距離を取っていく。巻き込まれてはたまらぬとばかりに。
そして、誰かが不用意に食器に触れ、ナイフが床に落ちてキィン! と澄んだ音を響かせた。
それを皮切りに、動く。
雛壇から飛び降り雷光のように迫るジルバギアスを、黒の外套をひるがせたゲルマディオスが迎え撃つ。
剛力と魔力が込められた剣槍が、魔法の槍に叩きつけられ――
耳を聾する轟音が響き渡った。
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