109.聖犬の一日
真っ昼間。
カーテンの隙間から差し込む陽光に目を覚ます。
「……んゎふ」
ベッドの上、リリアナはもぞもぞと寝返りを打った。
いつも、だいたいこのくらいの時間に目を覚ますのだ。
隣を見れば、
「…………」
しばらく、その寝顔を見つめるリリアナ。
(――また くるしそうな おかおしてる)
起こさないようにそっと近づいて、ぺろぺろと
リリアナは、自分が舐めてあげれば、ヒトが元気になることを知っている。
「んん……」
くすぐったそうに顔を背けて、少し表情を和らげる若い魔族の少年。
「わふ」
満足気にうなずいたリリアナは、再びコテンとベッドに寝転んだ。
起きるにはまだ早い。いつものように、二度寝することにした。
――そして、夕方。
「おはよう、リリアナ」
「わん!」
朝起きて一番に、
だけど、あまり細かいことは気にしない。犬なので。
ほっぺたをぐにぐにされて、頭頂部から後頭部、背中から腰、腹に至るまでをまんべんなくナデナデされる。
尻尾をぶんぶんと振っている――つもりだったが、実際には生えてないので、腰をフリフリするだけにとどまっている。
「わぅ! わぉぅ!」
起床後の触れ合いが終わったら、
(――ごはん ごはん!)
リリアナは手足が短いので、
なので、現状にはそれほど不満を抱かない。
「待て」
「わん!」
「……よし! いいぞ」
偉いリリアナは、ちゃんと待てができる。
はむはむ。
(――おいし!)
口だけでも食べられる、温野菜の盛り合わせ。別の器からぺろぺろと水も飲むし、日によっては豆乳やスープがついてくることもある。
「くすくす……」
「相変わらずブザマね」
「あら、こっちを見たわ」
ささやくような声がする。
(――あおじろいひとたち)
見れば部屋の片隅で、こちらを見てほくそ笑んでいるヒトたちがいる。青白い肌に白っぽい髪、赤い瞳、長い耳――目が合うと、判を押したようにニチャリと笑った。
自分を見ながら何か話しているようだが、リリアナは理解しない。犬なので。
(――あのひとたち こわい)
笑顔だけど、笑っていない。リリアナは、彼女らの姿を見ると、なんとなく身体がすくんでしまう。
痛いことや嫌なことをしてくるんじゃないか、意地悪をしてくるんじゃないか、と――そんな気がしてならないのだ。
理由は、わからない。
考えたら、何か、思い出せそうな気もするけど。
(――まあ いっか)
リリアナはそれ以上、考えない。犬なので。
それよりも目の前のごはんに集中する。
(――おいし! しあわせ)
口いっぱいに、栄養たっぷりな温野菜をもしゃもしゃ頬張るのが至福だった。
そして何よりも楽しみなのは、食事の最後に、
「はい、あーん」
「わう、わう!」
今日はりんごだった。一口サイズに切り分けられたものを、丁寧にひとつひとつ口元に運んでくれる。しゃきしゃきとした歯応え、甘酸っぱさ、優しい眼差し、穏やかな微笑み。
(――おいしー! しあわせ しあわせ)
食べ終わったら、
優しくて、ナデナデしてくれて、ごはんも食べさせてくれて、絶対にイヤなことも痛いこともしない。自分を守ってくれる
ごはんのあとは、静かに過ごすことが多い。
ホントはいつでもナデナデしてほしいし、四六時中くっついていたいけど。
今の
仮に自分に構ってくれなくても、そばにいてくれるだけでいい。
(――あんしん しあわせ)
ぽかぽかと温かい気持ち。こうして、ただ自由に息をしていられるだけでも、幸せな気分だ。何にも怯えずに安心していられるので、だんだんと眠くなってきて、うつらうつらし始める。
「ご主人さま、リリアナをお風呂に連れて行こうかと」
「おう、頼むよ」
と、聞き慣れた高めな声に、パッと意識が覚醒した。
(――おふろ!)
見れば白いモフモフなヒトが、手招きしていた。
「リリアナー、行くにゃー」
「ぅわん!」
ソファから飛び降りて、
(――がるーにゃ すき!)
リリアナの好きなガルーニャだ。いつもしっかりしていて、とても優しく、まるで姉のような存在に感じている。
「あっ、裾を引きずってるにゃ、ちょっと待つにゃ」
かがみ込んで、リリアナが身にまとう
リリアナは大人しく、じっとして待つ。賢いので。
「よし! 行くにゃー」
「わぅん!」
ガルーニャの後ろに、トコトコとついていく。
リリアナはお風呂が好きだ。温かくてポカポカして気持ちいいから。
ただ、今日はいつものように大浴場には直行せず、少し寄り道をした。
「レイラー、そろそろ休み時間にゃ?」
「あ、うん。今ちょうど終わったところだよ」
メイド服を着た細身の少女が、アイロンを脇に置いて、「ふぅ」と額を拭っていた。
(れいら! すき)
こちらもリリアナの好きなヒトだ。……たぶん、ヒトだ。時々すっごく大きくなる不思議なヒトでもある。
優しくて穏やかだけど、ちょっとおどおどしたところがあって、どこか放っておけない感じがするので、リリアナは妹のように思っている。
「リリアナをお風呂に入れに行くにゃ。一緒にどうかにゃ?」
「行くー。ちょっと待っててね」
洗濯カゴを抱えて、さらに部屋の奥に運んでいってから、レイラも合流した。
大浴場へ向かう――
「レイラ、もう飛べるようになったし、読み書きだって上達してるし、立派な側仕え見習いなんだから、アイロンがけはしなくていいと思うんだけどにゃ」
「う、うーん。でもせっかくの得意分野だし……。周りのみんなが何かしてるのに、自分だけしてないと、落ち着かなくて」
「リリアナを見習うにゃ。いつも食っちゃ寝してるにゃ」
「う、うーん……リリアナはちょっと特殊というか……」
脱衣場で脱ぎながら、ふたりがそんな会話をしているが、リリアナは理解しない。犬なので。自分の名前が出て「わう?」と首をかしげるくらいのものだ。
(――おふろ! おふろ!)
そして入浴。
「リリアナ、じっとするにゃ!」
「わうー! くぅーん!」
お風呂は好きだが、リリアナはシャンプーが嫌いだ。目に入ると痛いので。
早く湯船に浸かりたいこともあり、隙あらば逃げようとするが、ガルーニャはものすごく力が強く、リリアナは文字通り手も足も出ない。いつもいいように洗われてしまう。
ただ、それさえ乗り越えてしまえば天国だ。
「わふぅ……」
「にゃー……」
湯船にぷかぷか浮かぶのは気持ちいい。ガルーニャもリリアナと同じく、大の字になって浮かぶのが好きなようだ。レイラは、ちょっと端っこの方で、肩の力を抜いて顔半分までぶくぶく沈むのがお気に入りらしい。
しっかりと温まって上がり、ガルーニャとレイラに髪や身体を拭いてもらって。
部屋に戻ると夜食の時間。
また温野菜の盛り合わせをお腹いっぱい食べて、果物を
(――しあわせ……)
ただ、ここからあとは、リリアナは嫌いな時間だった。
「さて」
リリアナはその顔を見るたびに、悲しく、胸が張り裂けそうな気分になる――
練兵場。
「さあ、今日も気合十分ね」
動きやすい衣に身を包んだ、角を生やした美しいヒトが、槍を構える。
(――あのひと きらい こわい)
プラティフィアという名前らしいが、リリアナはよく覚えていない。長いし、好きでもないので。
一度、
「今日こそ、母上を地面に沈めて差し上げますよ」
「あら、言うようになったじゃない。楽しみね」
獰猛な笑みを浮かべ、
なぜなのかは理解できない、犬なので。
だけど、
「うぅー……」
リリアナが飛び出さないよう、ガルーニャが抱きかかえている。歯を食いしばって見守るガルーニャもまた、どこか辛そうなことに、リリアナは気づいていた。
一歩下がって見守るレイラもそうだ。みんな辛そうなのに、どうして止めないんだろう。それだけが悲しくてたまらない――
「ぐ、ぅ……」
そして
「ぅわん、うわん!!」
リリアナは全力で
とにかく、彼の傷ついているところを一生懸命ペロペロする。そうすれば
「はは……いつもありがとな、リリアナ」
そう言って――まるで、いつもみたいに微笑む
(――なんで わらえるの)
どうしてそんな顔ができるの。
つらくないの? くるしくないの――?
「くぅーん……」
リリアナは情けない声で鳴くことしかできない。犬なので。
そうしているうちにまた引き離されて、また
毎日、しあわせに過ごしているリリアナだけど、この時間だけは本当に嫌いだ。
永遠にも思える、辛い時間がようやく過ぎ去って。
また軽くひと風呂あびて、ごはんを食べて、部屋でのんびりして。
空が白み始めるころ、ベッドに潜り込んで、眠る時間がやってくる。
「ご主人さま、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ガルーニャやレイラといった、お付きの者たちがぞろぞろと退出していって。
リリアナと
「あー……ふぅー。今日もくたびれたな」
肩の力を完全に抜いて、首をコキコキ鳴らした
「さて、寝るかぁ」
「わふ」
ぴったりと
(――しあわせ)
「おやすみ、リリアナ」
「わう」
寝る前の読書では、もう船を漕いでいた。体力の限界、疲れ果てていたのだろう、
「…………」
対するリリアナは、起きたあともソファでうつらうつらしていたこともあり、あんまり眠くない。
なので、じっくりと至近距離で、
「ん……ぐ……」
しかし最初は穏やかだった
(――また くるしそうな おかお)
リリアナは、ぺろっと
「んん……ア、……クレ……ァ……」
ギュッ、とリリアナを抱きしめる腕に、痛いほどの力が込められる。
(――くるしそう なかないで)
リリアナもまた悲しげに、顔を歪めて。
そっと――
「――――」
自分が持っている、温かい何かを分け与えて。
「…………んぅ……」
穏やかな寝顔。
(――よかった)
リリアナはホッとして、微笑んだ。
(――すき だいすきよ)
(――だいすき あれく)
リリアナもまた、温もりに包まれて、夢の世界にいざなわれていく。
大好きなヒトの腕の中で。
大好きな人の、夢を見る。
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