101.接敵、激震
――森の中、樹上に潜む者がいた。
猫系の獣人だ。
樹木に紛れ込むような深緑と茶色の衣装を身にまとい、気配を殺して耳を澄ませ、周囲に目を凝らしている。
風がそよぎ、葉擦れの音が立つたびに、頭頂部の耳がピクピクと動いていた。
魔王軍の本陣周辺に配された見張りのひとり。長時間の警戒任務に、しかし気が緩んでいる様子は一切なかった。
――再び、風がそよぐ。
ピクッ、と目ざとくそちらを警戒する見張り。森の暗がりを見透かそうとするかのように、縦長の瞳孔が丸く拡大し――
その背後。
と んっ
軽い、音とも呼べぬような音とともに、後頭部へ掌底が叩き込まれる。
ぷっ、と耳と鼻から血を噴き出し、ぐるんと白目を剥く見張り。その身体から力が抜け、樹上から脱落する。
「――っと」
そしてそれを空中で抱え、静かに着地するは、賢狼族の老獣人。
拳聖、『老師』ドガジン。
木陰に見張りの死体をそっと横たえ、すんすんと空気を嗅ぎ取る。
とんっ、と地を蹴って樹上へ、さらに枝を踊るように渡り、緑の葉のカーテンを、風のようにすり抜け――
――いた。
遮光ローブを羽織り、枝に腰掛けて警戒にあたる夜エルフ。
単なる偶然か、あるいは音もなく忍び寄る死を直感で悟ったか、ふと顔を上げて、空中のドガジンに気づく。
「なっ」
片手をナイフへ、もう片方の手を首元の笛へ――
た んっ
伸ばすより先に、コンパクトな打撃が額を打つ。
目、耳、鼻から血を噴き出して仰け反る夜エルフを抱え、そっと着地。
(気づかれたか。いやはや、まだまだ未熟)
胸中でつぶやきながらも、再び臭いを嗅ぐドガジン。
どうやら、粗方片付けたらしい。木陰に死体を隠し、風のように森を駆けていく。勇者たちと合流するために――
――『老師』ドガジンは、数多の戦場を渡り歩いた古強者だ。
だが、実は、拳聖としては新参だったりする。開眼したのは、ほんの数年前だ。
拳聖としての才能、あるいは適性に乏しかった、とも言えるかもしれない。
普通の獣人なら、ドガジンほどの年齢になる前に、己の適性のなさを嘆いて諦めるか腐るかしていただろう。
だが、ドガジンは諦めなかった。若くして拳聖に開眼する者たちを尻目に、揶揄されようとも真摯に腕を磨き続け、ついに境地へ至った。
その不屈の精神、根性、そして執念を讃え、いつしか『老師』の二つ名で呼ばれるようになった。
もともと、物の理に厳しく接されながら、戦場を生き抜いてきた実力の持ち主だ。拳聖に覚醒してから益々腕に磨きがかかり、老いて衰えるどころか、その技はもはや神がかりの域に達しつつある――
「片付けてきたぞい」
勇者たちに、小声で報告。同じ術者に隠蔽の魔法をかけられた者同士は、多少気配が薄くなる程度で済むので、臭いをたどれば合流は容易だった。
犬や狼の獣人が味方であることに、同盟の者たちは何度感謝したかわからない。
「敵本陣の様子は?」
「寝静まっている」
勇者の問いに、もうひとり先行していた犬獣人が答えた。
「周囲は片付けたが、本陣の櫓や魔族の歩哨は手つかずだ」
――どうする? と。
「……魔王子の居場所に、見当はつくか」
「はっきりとはわからない。だが、やたらと立派で、警備の厳しい天幕は見かけた」
「何か、旗や目印のようなものは」
今度はエルフ魔導師が問う。
「黒一色の旗と、緑の生地に、金糸の刺繍が施された旗があった」
「十中八九、イザニス族の旗印だ。エメルギアスの天幕である可能性が濃厚だな」
「……よし。そちらを急襲する」
勇者はニヤリと笑ってみせた。
「派手にやろう。そして――必ず、みんなのもとへ帰ろう」
そして拳を突き出す。
全員が――エルフの魔導師さえ――拳を突き合わせて、不敵に笑う。
「行くぞ」
抜剣。
一丸となって駆ける。
警戒の目をことごとく潰された木陰を走り、外回りに本陣の奥側へ――
「あれか」
ひしめく天幕の中に、ひときわ大きく、緑色の旗がはためくものが。
木立から、200歩ほどの距離。
遠い――しかも周囲には、遮光ローブをまとって弓を構える夜エルフや、槍を手にした魔族の戦士の姿もある。
彼らにとっては深夜だが、残念ながら、王子の警備とあって気が緩んでいる様子は全くなかった。
「熱心なことだ」
「なぁにオレたちほどじゃねえ」
「違いない。……じゃ、ご挨拶と行くか」
苦笑して、勇者はエルフ魔導師にうなずく。
「【光の神々よ ご照覧あれ】」
エルフ魔導師もまた、杖を構える。
「【精霊たちよ 我らに加護を】」
隠蔽の魔法が――
「【
――破られる。
「闇の輩に死を!」
一斉に、駆け出した。
「ッ敵襲!」
「見張りは何を!?」
木立から飛び出してきた勇者御一行に、夜エルフのひとりが首元の笛に手を伸ばし残りが弓を構え、魔族の戦士たちが目を剥く。
「ピィ――」
警笛が吹き鳴らされようとしたところで、犬獣人の拳聖が、眼前にひょいと石ころを放り投げた。
「シッ」
拳を叩き込む。
ぱぁんッと空気の爆ぜる音、必殺の魔弾と化した石ころが、水蒸気の尾を引いて風を切り裂く。目を見開く夜エルフの顔を、警笛もろとも吹き飛ばした。
「なっ――」
「よくも!」
残る夜エルフたちが矢を放つ。即応の一撃とは思えぬ正確無比な射撃。
だが――
みなを庇うように、老師ドガジンが前へ躍り出る。
軽やかに、舞うように、くるりと弧を描いて。
矢の雨を巻き込むように、手を添え、足を添え――
「――お返し致す」
ぐにゃりと不自然に軌道を捻じ曲げた矢が、正確無比な狙いもそのままに、射手へと
「!?」
自らの矢を回避できた者はごくわずかだった。首を射抜かれて、ごぽごぽと血を吐き、倒れ伏していく射手たち。どうにか致命傷を避けた射手が、警笛を吹き鳴らす。
ピィ――ッッと甲高い音が、辺り一帯に響き渡った。
空気がざわめく。休息していた魔族の戦士たちも目覚めるだろう――
「おのれ!」
「【ひれ伏せ下等種ども!!】」
そして槍を手に迫る警備の魔族たち。ひとりが呪詛を浴びせかけてきたが、
「【悪しき呪いの言葉は我らを避けて通る】」
エルフ魔導師の魔除けにより、勇者たちを上滑りしていく。
「【燃え尽きよ!】」
さらに別の魔族の戦士が、槍からドラゴンのブレスのような炎を放ったが。
「【
勇者の剣も銀色に燃え上がり、轟音を響かせながら炎の噴流となって迎え撃つ。
魔族の炎と、勇者の聖炎。勢いは魔族側に分があるように見えたが、銀色の聖属性が獰猛に、闇の輩の火に喰らいつく。
激しい爆発を起こして、対消滅。
そして、それを突き破るように――
「――参る」
ぎらりと刃を輝かせた剣聖たちが、斬りかかった。
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