99.撤退戦線
砦の内部は、ある意味、死体だらけの外よりも酷い有様だった。
所狭しと通路に並べられた負傷兵たち。まさに足の踏み場もない。老師とバルバラは細心の注意を払いながら歩く必要があった。みな、苦痛のうめきをこらえながら、治療順が回ってくるのを待ちわびている――
人族の神官やエルフ族の魔導師たちが駆けずり回り、必死で祈りを捧げているが、彼らも疲労の色が濃く、怪我人に対して奇跡の使い手が明らかに不足していた。
「姉御……」
と、足元からかすれ声。
顔半分と腹部が血まみれの包帯に覆われ、血の気の引いた男が力なくこちらを見上げていた。昔馴染みの剣士だ。
「……おや、アンタまだくたばってなかったのかい」
バルバラは敢えて、いつもと変わらぬ快活な調子で声をかけた。「そりゃないですぜ姉御……」と苦笑する男。
「ちょっと見ないうちに、ずいぶん男前っぷりを上げたね」
「へへ……姉御ほどじゃねェや……」
「ああ? 何だってェ?」
かがみ込んで、無事な方の頬を小突いてやると、「勘弁してくだせえ、傷に響くんでさぁ」などと白々しく泣き言を言う。
「…………」
男の利き腕の肘から先がなかった。もげた腕が近くに置いていないということは、戦場で失われたのか。
欠損を癒せる治癒師はそう多くない。そしていつ、そんな高度な治療を受けられるかもわからない。
次の戦いでは、この男は戦力にならないだろう――つまり、今は治療を後回しにされる可能性が高く。
「俺もボチボチお役御免ですかねぇ……」
半ば諦めたような口調でつぶやく男――
……いけない、とバルバラは思った。
こういう目をした奴は――すぐに死ぬ。
「弱気なこと言ってんじゃないよ!」
ビシッと容赦なくデコピンを打ち込んで一喝。男が「あだァ!」と悲鳴を上げた。
「アンタにはまだ、ジョッキ10杯分は貸しがあるんだからね。逝くなら酒場で借りを返してから逝きな!」
「へ、へへっ……こいつぁ手厳しいや……」
あんまりにもあんまりな言われように、もう笑うしかないようだった。
「いざとなったら、アタシがおぶって一緒に逃げてやるよ。……だからもうちょっとシャキッとしな」
「ありがてえ」
細く息を吐いた男は、無事な片目をつぶる。
「んじゃまぁ……肩を借りるくらいで済むように、養生しまさぁ」
「そうしな。あ、これも貸しひとつだからね」
「ひぇー、へへっ……帰ったらたらふくおごりますよ……」
ニヤリと笑って、体力の回復に専念し始める男。
ぽん、とその肩を叩いてから、バルバラは立ち上がって、やり取りを見守っていた老獣人に目礼し再び歩き出した。
(……強がってたな)
口ではああ言ったが、男はボロボロだった。
気を抜いたら、いつおっ
こういうとき、剣しか能がない自分は無力だ。
考えても詮無きことだが、どうしてもそう思わずにはいられない。
「…………」
賢狼族の老獣人は、そんなバルバラをちらりと気にかけたが、何も言わなかった。
いや、言えなかった。
おそらく彼もまた、同じ思いを抱いていただろうから――
†††
人族において、女の戦士はけっこう珍しい。
勇者や神官には女もたくさんいるが、基本的に魔力の弱い人族は身体能力を底上げできず、素の腕力で戦わねばならない。
だから、兵士や剣士は男が大半を占める。女で戦場に出るとすれば、よほど才能に恵まれているか、のっぴきならない事情があるか。
――バルバラは、その両方だった。
鋭い眼光、邪魔にならぬよう短く整えた黒髪、頬には十字の切り傷。いや、頬だけでなく全身のあちこちに傷跡が刻まれ、彼女がどれだけの修羅場をくぐり抜けてきたか一目瞭然だった。
女剣士バルバラ。
またの呼び名を、剣聖『一角獣』のバルバラ。
30手前の若さで、剣聖として開眼している類まれなる才能の持ち主だ。先祖伝来の一本角の兜と、敵の間を跳ね回り、分厚い鉄板さえぶち抜く突きで敵を屠っていく姿から、その名がついた。
確かな実力とクソ度胸、そしてざっくばらんな人柄から、周囲にも好かれ『姉御』と慕われている。
……だが、そんなバルバラが、実は貴族の出身と聞くと、みながみな仰天して信じようとはしない。
バルバラ=ダ=ローザ。
弱小とはいえ貴族、本来ならばそこらの平民より魔力が強い生まれだったが、バルバラは魔法がからっきしだった。
両親には残念がられたが、すでに優秀な長男長女がいたので、良くも悪くも無関心にバルバラは育てられた。
だからだろう。貴族の女子でありながら、教養などそっちのけで、護身用の剣術に打ち込めたのは。
魔法が使えないことにコンプレックスを抱いていたバルバラだったが、剣には天賦の才があった。
15歳になる頃には、家庭教師など相手にならないほど剣が上達した。貴族の女子とは思えぬほど体も鍛えた。女らしさを捨てていく娘に、見かねた母親がやめさせようと、『身の程を教える』ため家の騎士と勝負させたが、バルバラはなんと勝ってしまった。
いくら相手が手加減していたとはいえ、十代の娘が歴戦騎士に一本取ったのだ。父が「それも一興」などと面白がって許可を出したことで、ますます剣の道にのめりこんだ。
――そして魔王軍が祖国に攻め入り、状況が変わった。
出征した父と長男が戦死。止まらぬ魔王軍の侵攻。戦いはからっきしな長女の代わりに、バルバラが手勢を率いて参戦することになった。
剣には打ち込んだが、指揮官としての教育など受けていなかった。かといって、お飾りのお姫様扱いする余裕も、もはや軍にはなく。
バルバラも最前線で切り結んだ。
そして獣人やオーガたちと死闘を繰り広げ、そのさなかで物の理を超越した。20歳を過ぎてまもなくのことだった。
どんなに早くても30歳で開眼すると言われる剣聖で、その若さで、しかも女の身で剣を極めたのは紛れもない天才だったが。
バルバラがいくら獅子奮迅の活躍を見せようと、所詮は一介の剣士。形勢を逆転させるほどの力はない。軍は負け続け、撤退に撤退を重ね、やがて祖国はすり潰されて滅亡した。
どうにか一族と一部の領民を隣国――つまりここ、デフテロス王国へ逃がすことはできたが、亡命して左団扇で暮らすわけにもいかず。
そうして戦場働きを続け、魔王軍と戦い、何度も死にかけ、そのたびに歯を食いしばって生き延びて――現在に至る。
今では、デフテロス王国もまた、魔王軍にすり潰されつつあった……
「……来たか」
砦の地下の会議室に入ると、老師とバルバラ以外は大方揃っているようだった。
傷だらけの魔法の鎧に身を包んだ勇者。目の下に濃いくまを浮かべた女神官。長い耳が片方欠けているが、魔力の節約のためか、最低限の止血で放置しているエルフの魔導師。
そして獣人族や人族の戦士たち――みな、拳聖あるいは剣聖だった。
「……これで、全員か? ドガジン殿」
剣聖のひとりが、「他にはいないのか?」とばかりに老師を見た。
「これで、全員じゃよ」
賢狼族の拳聖『老師』ドガジンは、瞑目してうなずく。
「…………」
会議室に重々しい沈黙が降りてきた。バルバラは唇を噛む。……顔見知りの戦士が何人も欠けていたからだ。バルバラを凌ぐほどの、歴戦の戦士たちが――
そのとき会議室の扉が開いて、スープの鍋を抱えたおばちゃんが入ってきた。
「朝ごはん、できましたよ」
――魔王軍の猛攻を受けながらも、厨房は働いていたらしい。具だくさんのスープの香りに、全員が空腹を思い出した。
「おお、ありがたい」
「まずは、食べようか。腹が減っては戦いにもならない」
暗い空気をごまかすように、嬉々として皿に取り分けて、皆でスープをすすった。
本当に、具だくさんなスープだった。
……まるで、食料庫にあるものを、できる限り処分してしまおうとでもしているかのように。
「……食べながら話そう。俺にひとつ提案がある」
勇者がスープを飲み込んで、据わった目で全員を見渡した。
「ウチの神官が、魔族の戦士に『祝福』をかけた」
クマの濃い女神官が、「今でも位置は把握できてます」と小さく付け加える。
「どうやら俺たちが相手をしている方面軍の指揮官、第4魔王子エメルギアスの側近らしい……連中の本陣の位置が、割れた」
――にわかに、会議室の空気が引き締まる。
「このまま、砦にこもっていても、援軍の見込みはない。今夜か明日の朝にはすり潰されるだけだろう。かといってこれみよがしに撤退すれば、追撃でこっぴどくやられるのが目に見えている」
スープを飲み干して、勇者は言う。
「……だから、このあとすぐに、隠蔽の魔法を使った少数精鋭による魔王軍本陣への切り込みを敢行する」
覚悟を決めた顔で。
「狙うはもちろん、第4魔王子エメルギアスの首だ」
――バルバラは、知らず識らずに剣の柄を強く握りしめていた。
「……我こそはという者は、力を貸してほしい」
誰も、すぐには答えなかった。
だがその目を見れば、互いに、何を考えているかは明らかだった。
何を覚悟したかは、明らかだった。
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