58.母と、子と


 ――魔王城、居住区、とある一室。


 魔族のものにしては、豪奢な装飾が施された部屋だった。緑色のタペストリーには金糸で刺繍された部族の文様。天井からは水晶と金銀をふんだんに用いたドワーフ製のシャンデリアが吊り下げられており、人族の芸術家が手掛けた一族の肖像画や風景画が飾られている。壁際には、初代魔王ラオウギアスの黒曜石の彫像と、純金製の現魔王ゴルドギアスの像まで鎮座していた。


 そしてエメラルドの首飾りを下げ、きらびやかな、それでいて露出の激しいドレスに身を包んだ魔族の女が、ハイエルフの革張りのソファに腰掛けている。


 長く伸ばして結った緑の髪を右肩の前に垂らし、プカプカと煙管パイプで紫煙をくゆらせる女。その瞳は狡猾な毒蛇のように黒々とした色で――あらゆる光を吸い取って逃さない、虚無の穴のようにも見えた。


「それで、」


 フゥーッと煙を吐き出しながら、女は口を開いた。


「おめおめと何もせずに引き下がって帰ってきたワケ」

「…………」


 女の眼前。第4魔王子エメルギアスは、直立不動の姿勢で無言のまま頷いた。


「……アナタ、本当にツイてないわね。産まれたときからそうだった」


 エメルギアスから視線を外し、ゴルドギアスの像を眺めながら女は独り言のように言う。


「きっと、そういう星の下に産まれたんでしょうね、アナタは。大した才もなく、運もなく。……その弟、5歳でしょう? まだ赤子じゃないの。出し抜かれて悔しくはないの? もっと他にやりようがあったのではなくて?」


 ネチネチとした口調でなじられても、エメルギアスは黙して答えない。


 これが尋常な相手であれば早々に激昂していただろうが、『この人物』には、強く出られない。



 なぜならば、彼女こそエメルギアスの母・ネフラディアその人だからだ。



「だいたい動きが遅いのよ、アナタ。間違いが発覚した時点で、即座に目的地に向かっていれば、先を越されずに済んだでしょうに」


 はぁ、と溜息混じりに、息子に煙を吐きかけるネフラディア。彼女は、息子と会うときは、体に悪いと魔族の間で敬遠されがちな煙草を必ず吸う。


「そんなことだから、いつまでも他の王子たちに遅れを取るのよ。わかる? 単純な才覚の問題だけじゃないの。アナタの性根の問題なの」

「…………」

「聞いてるの?」

「……はい」


 エメルギアスは短く首肯した。その顔は能面のような無表情だ。エメルギアスは、弁解や言い訳をしない。魔族としてみっともないことだし――ネフラディア相手にはしても無駄だからだ。


「毎度ながら、期待はずれな子だこと。もうすっかり慣れたわ」


 チッ、と舌打ちしたネフラディアは、煙管を吸いながら、つまらなさそうに視線を逸らす。



 この親子の関係は、端的に言って、最悪だった。



 無論、最初からこうだったわけではない。第4魔王子エメルギアスは、母ネフラディアと、一族の期待を一身に背負って誕生した。


 しかし、生まれからしてケチがついた。ネフラディアが産気づいたとき、魔王ゴルドギアスが長らく前線に出払っていたため、名付けが遅れてしばらくの間、名無しで過ごす羽目になった。


 ようやく名付けが終わって誕生祝いを催したら、天気が大荒れになって台無しに。仕方なく延期して開催すれば、前線での同盟の大攻勢に重なってしまい、一族の重鎮を含む多くの戦士が討ち死にして、いまいち盛り上がらず。


 一事が万事、その調子で、エメルギアスは何かと恵まれなかった。


 運にも――そして才覚にも。


 魔族全体で見れば決して惰弱ではないのだが、上の兄姉たち、アイオギアス、ルビーフィア、ダイアギアスが傑物揃いだったため、どうしても見劣りしてしまう。


 それでもエメルギアスは努力した。母と、一族の皆の期待に応えるために。


 エメルギアスの出身、イザニス族は、魔族にしては珍しく、優れた文官や戦術家を輩出する一族だ。同盟圏への謀略にも積極的であり、夜エルフたちとの関係も深い。


 エメルギアスはしっかりと、一族の才覚を受け継いでいた。優れた指揮官であり、戦術家だった。成人前の初陣では見事に都市を攻略してみせた。


 だが最後の最後で、死物狂いで突撃してきた勇者たちと交戦し、重傷を負ってしばらくの療養を余儀なくされた。


 本来ならば、殺されていてもおかしくないほど手強い相手だった。生き残ったことを褒められて然るべき状況だった。


 しかし他の派閥はそうは見なさなかった。他の魔族の戦士たちを押しのけて、無理やりねじ込んだ出陣だったこともある。『初陣で重傷を負うような鈍くさい王子』とせせら笑われ、エメルギアスの評判はますます悪くなった。


 重ねて言うが、エメルギアスは決して無能ではない。


 それでも一族の皆が期待していたのは、優れた指揮官ではなく、イザニス族に足りないとされる武勇を、魔王ゴルドギアスより受け継いだ覇者だったのだ。


 何より、母ネフラディアが満足していなかった。


 息子は覇王の器ではない、と。



 ……だから、見切りをつけて、ネフラディアは再び魔王と床を共にした。



 そして、子ができにくい魔族としては運のいいことに、ほどなくして新たな生命を宿した。



『これで一安心ね。次はもっと優れた子だったらいいのだけど』


 ある日、母が側仕えの者と話しているのを、エメルギアスは耳にしてしまった。


 ……恐怖した。こんなに頑張ってるのに。苦しい思いに耐えているのに。いつまで経っても期待に応えられないどころか、このままでは愛さえ失ってしまう。弟か妹に奪われてしまう――



 ……だから、エメルギアスは。



 母に毒を盛った。ナイトエルフたちから入手した、堕胎の毒を。



 その目論見は、半分成功し、半分失敗した。ネフラディアは流産したが、エメルギアスの仕業であることも露見してしまったからだ。


 さらに悪いことに、毒のせいで、ネフラディアは二度と子を産めない体になってしまった。


 弟か妹に、母の寵愛を奪われる恐れはなくなったが――もともと軋みを上げていたふたりの関係は、それで完全に崩壊してしまった。


 もう子どもが産まれないならば、仕方がない。一族の者たちも見切りをつけ、次期魔王を輩出するのは諦めて、アイオギアス派閥でやっていくことになった。


 一族から魔王を! という分不相応な夢から覚めて、ようやく現実に立ち返ったと言ってもいい。


 だが、それでエメルギアスの待遇がより良くなったかと問われれば――



「……もういいわ。行きなさい」


 そして現在に至る。


 冷ややかな声で、エメルギアスに退出を促すネフラディア。


「次はせいぜい、目の前にぶら下げられた餌くらいは、逃さず食らいつくことね」

「…………」


 エメルギアスは目礼して、母の部屋を辞する。


「……私にはもう、あなたしかいないんだから」


 投げかけられる、皮肉げな一言。


「……はい、母上」


 小さく答えたエメルギアスは、バタン、と扉が閉じる音を背に、独り薄暗い回廊を行く。


 今は、周りに誰もいない。


 鬱陶しい一族の者も、こちらの顔色を窺うばかりの手下も。


「……クソ」


 エメルギアスは顔を歪め、ごちん、と石の壁を殴った。




          †††




 ――獣人たちのカコー村を発って翌々日。


 俺は何事もなく、魔王城に帰還した。馬車での旅はなかなか快適だったが、自室の寝床も恋しくなってきたな。


 前世は野宿なんて当たり前だったんだけど、王子様として育てられるうちに、すっかり甘ちゃんになっちまった気がする。


 次は馬車中泊じゃなくて、俺もテントで野宿してみるかな……


「では、私は為すべきことを為します」


 すっかり回復したソフィアは、書類を手にのしのしと去っていった。


 すげえ覇気だ――あいつ知識の魔神より、事務手続きの魔神でも目指した方が向いてるんじゃねえか。


『悪魔や魔神が、何か決定的な出来事で自らの性質を転じてしまう――極めて稀じゃが、ないわけでもないぞ』


 アンテが注釈を入れた。


 マジかよ。じゃあアンテ、お前も何かの拍子に禁忌の魔神から清楚の魔神になったりするのか?


『世界が終わるか、始まるかほどの大事があれば、あるいはあり得るかもしれんの』


 実質あり得ないじゃねーか。知ってたけど。



 ――などと胸の内で無駄口を叩きながら、居住区、母プラティの部屋を訪ねる。



「母上、ただいま帰還しました」

「おかえり、ジルバギアス。……いったいどうしたの?」


 俺の魔力が膨れ上がっていることに気づき、プラティは目を丸くした。


「その……色々とありまして」

「……今回の演習で、何か得るものがあればいい、くらいに考えていたのだけれど。あなたはいつも、わたしの期待の上を行くのね」


 感心するように頷いて、歩み寄ってきたプラティが、そっと俺を抱きしめた。相変わらず良い香水つけてんなぁ。


「とにかく、あなたが無事に戻ってきてくれてよかったわ」


 万感の思いを滲ませる言葉。何だかんだ、心配していたらしい。


 ……このあと俺の話で卒倒しなければいいんだが。


「それで、何があったの?」


 優雅にソファに腰掛け、ひらひらと扇子を扇ぎながらプラティ。


「……えっと、護衛の者たちからも説明があると思うのですが、想定外の事態が発生しまして」


 ホントに、アレを想定外と呼ばずして何を呼ぶって感じだよな。


「ホブゴブリンの役人の手違いで、書類にミスがあり、俺たちは別の目的地に向かってしまったんです」

「……それは災難だったわね」

「はい。着いた先には、同じように脱走ゴブリン兵が住み着いている砦があり、それだけなら良かったんですが……も住み着いてまして」


 俺はパンパンと手を叩いた。


 部屋の扉が開き、護衛のレイジュ族の戦士たちが入ってくる。えっちらほっちらと運ぶ板の上には、冷凍保存していた、ホワイトドラゴンの――


「……は?」


 プラティが、あんぐりと口を開いた。


「ご覧の通り、ホワイトドラゴンと鉢合わせしました。出会い頭にブレスを浴びせかけられて酷い目に遭いましたが、どうにかこれを討ち取りました。身内に死者は出ておりませんのでご安心ください」




 ――ぽろりと、プラティの手から扇子がこぼれ落ちた。

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