5.魔族としての教養
「奥方様~! ジルバギアス様がぜんぜんお勉強しません!」
告げ口された。
どうも、ふんぞり返る魔族の母の前で、小さな骨の椅子に座らされているジルバギアスです。
勉強せずに探検ばっかりやってたら、とうとう本格的に説教される羽目になった。
この椅子、魔族には『自省の座』と呼ばれるもので、死ぬほど座り心地が悪く――というかケツが痛い――子供を叱るときや部下を叱責するときに使われるらしい。
子供の俺でもちょうどいいくらいの、本当に小さな椅子だ。大の大人が(しかもプライドの高い魔族が)これに座らされるのは、相当な屈辱だろうな。
純粋に嫌がらせかよ。
「ジルバギアス」
ぱちん、と扇子を閉じて母が口を開く。
「……はい、母上」
未だにこの魔族を母と呼ぶことに抵抗がある。俺のおふくろはただひとりだから。
おおよそ子供に向けるものとは思えないような、酷薄な青の瞳が俺を捉えた。
ゾッとするような冷たい美貌の魔族、それが俺の母、"プラティフィア"だ。
愛称は"プラティ"、外見に似合わぬ可愛らしいものだが、目上の親族と魔王にしか呼ばせないらしい。
……あの魔王が「プラティ」とか呼んで乳繰り合うのか? コイツと? ちょっと想像がつかないな。プラティ本人が仲良しアピールのために言ってるだけじゃないかと俺は睨んでいる。
「あなたが強くなりたがっているのは知っているわ。それは好ましいことよ」
俺の内心をよそに、プラティはとつとつと語り出す。
「勉強嫌いなのも、まあいいでしょう。誰もあなたが学者になることなんて望んでないんだから……」
プラティはソファから身を乗り出し、こちらを覗き込んだ。
「『あなたは、魔王になるのよジルバギアス』」
その瞳が、どろりと情念に濁る。
空気が重みを増したかのようだ。プラティはこうやって、たびたび俺にこの言葉を浴びせかけてくる。それこそ、俺が赤ん坊の頃から。まるで刷り込むように。
「…………」
そうしてプラティはジッと俺の反応を伺っていた。
……何度でも言うが、俺は魔王をぶっ殺したいだけで、決して魔王になりたいわけじゃない。……そんな目で見つめられても反応に困るだけなんだよなぁ。
半ば困惑気味に、むっつりとした顔で黙り込む俺に、プラティはやがて呆れたように溜息をついてソファに身を預けた。
「まったく、我が子ながら……我の強さは大したものね。あなたもそう思わない? ソフィア」
「ええ、奥方様。……トンデモなく頑固な方だと思います、色んな意味で」
ソフィアもうんざりしたように頷いている。
「ねえジルバギアス。そんなに勉強が嫌いなの?」
「キライです」
好きか嫌いかで問われれば悩む余地はない。
「……まあ、わたしも、小さい頃は嫌いだったから気持ちはわかるんだけど」
子育てに悩む母親のような顔で、眉間をもみほぐすプラティ。
「真面目な話、最低限の読み書きくらいはできないと将来困るのよ。魔王になる云々の前に、部下の報告書さえ読めないわけだし。何より、周りに馬鹿にされるわ。……ええ、他の王子の母親どもがなんて言い出すことか……」
美貌が憎悪に歪む。
「第1王子のアイオギアスは、3歳の頃には読み書きと計算をほとんどマスターしたそうよ。ヤツの母親はずっとそれを鼻にかけてるの。あなたにはそれよりも早く習得してもらわないと、わたしが、困るのよ……ッッ!!」
話すうちにどんどん機嫌が悪くなっていき、とても人様にはお見せできないような表情になるプラティ。その手にギリギリと力がこもり、扇子が耐えきれずにバキッとへし折れる。
母親同士のマウント合戦も絡むのか……と何とも言えない気分になる俺だったが、ここで、ちょっとした自分の思い違いに気づく。
『俺』は、自分が最低限の読み書きも、計算もできることも知っている。
だが、『こいつら』は、俺がガチの文盲で、しかも指の本数以上は数えられないと思ってる。
……それは確かにまずい、というか危機感を抱くのも無理はない。
読み書きの勉強なんて時間の無駄だと思っていたが、魔王城で今の俺が立ち入れる区域はだいたい見て回ったし、ちょっとくらい勉強する姿勢を見せた方がいいかもしれない。
ただ、今まで散々嫌がってたのに、急に素直になっても魔族的に不自然だろうし、どうしたものかな……
などと考えていると。
「そうだ、いいことを思いついたわ」
同じく頭を悩ませていたプラティが、ポンとソファの肘掛けを叩いた。
「ソフィア」
「はい、奥方様」
「ジルバギアスが勉強を嫌がったら、実力行使を許すわ」
プラティの言葉に、ソフィアは喜色満面で飛び上がった。
「やったぁ! ということは、次にクソ生意気なことを言ったら、我慢せず顔面ブチのめしていいんですね!?」
俺は思わずソフィアを二度見した。困り顔で俺のわがままに付き合いながら、実は内心キレかけてたのか!? 俺もクソガキの自覚はあったけど!!
「ふむ、そうね……」
考え込むプラティ。いや、そこは即答しろよ。悩む余地があるかよ。
我、王子ぞ? お付きの者が顔面ブチのめしたらダメだろ。
「それはまだダメね」
まだ……?
「治療が必要な怪我は避けなさい。戦場の痛みを知るには、この子はまだ幼すぎる。痛みに怯えて惰弱になられたら困るもの」
「どれくらいならいいんですか?」
「青あざくらいならよしとしましょう」
「わーい!」
諸手を挙げて喜ぶソフィア。
犬歯を剥き出しにした笑みは――まさしく悪魔のそれだった。
「とは言え。ただの喧嘩じゃ意味がないし、勝負にならないわ。それに、満身創痍で勉強に身が入らなくなったら本末転倒よ。というわけでルールを定めましょう」
ぱさっ、と扇子を開こうとして、それが破壊されていることに気づくプラティ。
すかさず部屋の隅にいた
「ジルバギアス。そんなに勉強が嫌なら、ソフィアと勝負しなさい」
傲岸な笑みを扇子で覆い隠しながら、プラティは告げる。
「徒手格闘で、あなたが1発でもソフィアに当てられたら、あなたの勝ち。その日は自由にしていいわ。逆にソフィアに3回……いや、5回。地面に転がされたらあなたの負けよ。大人しく1時間は勉強なさい。そして休憩を挟んで、もう勉強したくなかったら、また勝負するの」
……その条件だと、だいぶん……
「それだとジルバギアス様が有利じゃないですかー、奥方様?」
「あら、あなたの実力を考慮してのことだけど」
まあ、いくら俺が人族の5歳児くらいの体格とはいえ、子供と考えりゃそれくらいハンデは必要だよな。ソフィアも小柄だけど、大人の範疇に入る背丈だし。
「ジルバギアス。わたしたち魔族は『力こそ全て』よ。自分の好きなように振る舞いたいなら、力づくで抗いなさい」
ああ、忌々しいほど魔族らしい物言いだ。
「この経験が、あなたをさらに強くするでしょう……ソフィア、今日のお勉強は?」
「まだです、奥方様!!」
ソフィアもいい笑顔しとるわ。
「……ソフィアって戦えるのか?」
素朴な疑問。悪魔は見た目で判断できない。それは確かなのだが、俺が勇者時代に戦った悪魔どもと比べて、ソフィアは……どう考えても肉弾戦向きではない。
「いやですねーお坊ちゃま。私は知識の悪魔ですよ? 私が魔族の皆々様から、最初に学んだのは何だと思います?」
ソフィアは爽やかな笑みで答えた。
「格闘から槍術まで、ぜーんぶ学ばせていただきましたとも! そしてそれらを完璧に再現できると自負しております!」
爽やかさが、獰猛さで塗り潰されていく。
「なので……お坊ちゃまの『教育』には差し支えないかと」
ははは、言ってくれるじゃねえか。
中級悪魔風情がよォ……。
「さて、お坊ちゃま。今日は大人しくお勉強しますか?」
……正直に言えば。
先ほど、思い違いに気づいた時点で、面倒事を避けるために素直に勉強する感じでいいかな、とは思ってたんだ。
だが、この流れで大人しく従う魔族は――いねえよなぁ。
「いやだ」
俺は立ち上がりながら、ハッキリと答えた。
「そうですか。では」
ソフィアは楽しくて仕方がないといった具合に笑う。
「お勉強の時間ですよ、お坊ちゃま」
黒と赤の執事服がひらめく。
一切の躊躇なく、ソフィアの拳が俺に叩き込まれた。
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