3.夢と絶望、悪夢と希望


『アレクー! お父さんが蜂の巣を取ってきたんだって!』


 幼馴染のクレアは大興奮で、顔を紅潮させていた。


『ハチミツの壺、しまってるところ見たんだぁ!』


 悪い笑みを浮かべて、彼女は言う。


『ね! こっそり食べちゃおうよ!』

『えっ、大事なハチミツを!?』


 俺――まだクソガキだった頃の俺――はびっくりして聞き返す。


『そんなこと、していいの!?』

『ダメに決まってるじゃない! だから"良い"のよ!』


 幼くして、禁断の蜜の味を知る女。それがクレアだった。彼女はとんでもなく活発で、怖いもの知らずで、俺はいつも振り回されてばかりいた。彼女のせいで痛い目を見たのも一度や二度ではない。


 ――でも、楽しかった。彼女に引っ張られて、村中を駆けずり回った日々。


 すべてが懐かしい。


 平和な故郷の村も、クレアと一緒にたらふく舐めたハチミツの甘さも。


 高値で売れるはずのハチミツがなくなってしまい、カンカンに怒っていたクレアの親父さん。大目玉を食らって泣きべそをかいていたクレア。同じく共犯として親父にゲンコツを落とされた俺。


 叱られてからはしばらく大人しくしていたが、数日も経てば、またぞろ二人してイタズラで村を騒がせていた。


 そしてそんな俺たちを、みんな温かく見守ってくれていたんだ――


『ね! アカバネ草の煮汁って毛が抜けるんだって! 村長の頭に塗ってやろうよ!』

『まずいって! ヘタしたら殺されるよ! それはさすがにヤバい!』

『バカね! ヤバいから面白いんじゃない!!』

『そんなムチャクチャな!』


 なんだかんだと言いながら、クレアの薬草探しに付き合う幼い俺。



 ――ああ。いつの間にか大人の俺は、それを木陰から眺めていた。この楽しくて、幸せな光景が、夢にすぎないことを俺は知っている。



 その、結末も。



 穏やかな世界は突如として、闇と炎に塗り潰された。


『魔物の群れだーッ!』


 あの夜、誰かの叫び声と、異様な音に俺たちは目を覚ました。地響きと――さざなみのように遠くから押し寄せる鳴き声。それは徐々に大きくなる。慌てて外に飛び出ると、真っ暗な山に、まるで鬼火のように無数の明かりが揺れていた。


 それは松明だった。なんの前触れもなく、国境の山を超えて、魔王軍が押し寄せてきたのだ。ゴブリンとオーガ、残虐なナイトエルフの猟兵たち、そしてそれらを統括する魔族の戦士――


 幼い俺は、そんなことを知るよしもなかった。ただ、何か恐ろしいことが起きている。それだけはわかった。


『逃げろ!』


 大人たちは必死だった。持てるものだけを持って、村から逃げ出す。だが俺たちは遅すぎた。いや、魔王軍が速すぎたのか。


 闇の軍勢の濁流に、村はたちまち蹂躙された。


『うわああ! やめろーッ!!』


 家財を持ち出そうとしていた村長は、オーガに喰い殺され。


『助けてくれ! この子だけは!!』


 パン屋のセドリックは我が子をかばってナイトエルフの矢に倒れ。


『いやああ! お父さぁぁん!!』


 かばわれたクレアは、親父さんの亡骸にすがりついて泣いていた。


『助けて! 誰かぁぁぁ!』


 俺が最後に見たのは、クレアがナイトエルフに髪を掴まれて引きずり倒されるところだった。そのままゴブリンたちに群がられ――


『誰か――』


 手を伸ばし、ぐしゃぐしゃに泣き濡れた彼女と――目があった気がした。


『クレアーッ!』

『見ちゃダメよ!!』


 助けに行こうとする俺を、おふくろが無理やり抱えて逃げた。親父は、俺とおふくろを逃がすために囮となって飛び出した。


『ここは通さん! 通さんぞーッ!』

『ハッハッハ、ひ弱な人族が何を生意気な! 死ね!』


 親父の断末魔の叫びが、夜空に木霊する。鮮やかな緑色の髪の魔族が、高笑いしながら槍を掲げている。その先端には串刺しにされた何か丸いものが、人の頭のようなものが、燃え盛る家々の炎に照らされて――


『――――ッッ』


 声にならなかった。あまりの衝撃、怒り、絶望に涙を流すことしかできなかった。そしてそれは、『俺』も同じだ。夢だとわかっていても、身動きひとつ取れない。まるで当時の無力感を今一度味わえと言わんばかりに――


 大人の俺ならば。勇者の俺ならば。


 ゴブリンなんて何匹いたって変わらない。残らず蹴散らしてくれる。


 オーガだってついでに皆殺しだ。


 ナイトエルフごときは相手にもならない。


 並の魔族なら俺ひとりで対等にやりあえる。


 つまりだ。俺ならこの村を救える! なのに――


『おやじー! クレアー!』


 幼い俺は、ただ泣きじゃくることしかできず、おふくろに運ばれていく。


 風切り音。ドスドスッ、と鈍い音がして俺を抱きかかえるおふくろが「うっ」と呻く。しかし何事もなかったかのように走り続ける。自分も苦しいだろうに、あやすように俺の頭を撫でながら。


『大丈夫……大丈夫だからね……』


 ――奇跡的に、俺たちは逃げ延びた。魔王軍はそれ以上追撃しなかったからだ。


 代わりに、魔族の嘲笑まじりの声が響いた。


『さあ逃げろゴミ虫ども! そして貴様らの主に伝えろ! 我らはここで待ち受けている、いつでも相手になるとな!!』


 そう、俺たちは逃げ延びたのではない。逃されたのだ。


 さらなる犠牲者を呼び込むための使者として――


 俺たちは、その役割を果たした。


『この子を……頼みます……』


 夜通し駆けて隣街にたどり着いたおふくろは、そう言って事切れた。


 おふくろの背中には、ナイトエルフどもが放った黒羽の矢が何本も刺さっていた。屈強な兵士だって、できやしない。矢傷を負いながら子供を抱えて一晩走り続けるなんて。


 結局、無事に生き延びたのは俺だけだった。――少なくとも俺が知る限りでは。


 魔王軍侵攻の生き証人として、さらに大きな街に護送された俺はその後、教会の孤児院に引き取られた。つい先日まで、険しい山脈の向こう側の魔王国も、戦争も、遠い他人事のように感じていたのに。全部変わってしまった。終わってしまった。


 それからは、死に物狂いで体を鍛えるようになった。


 ――ぶち殺してやる。


 魔王国の奴らを。それだけが俺の望みだった。兵士になることにした。奴らの目にものを見せてやる。その一心で。


 国が派遣した討伐軍は、呆気なく返り討ちにあったらしい。俺が鍛錬している間にも軍は負け続け、情勢はどんどん悪くなる一方だった。


 そしてとうとう兵士に志願しようとしたところ、俺は成人の儀で聖属性を発現し、聖教国へ送られて勇者見習いとなった。


 それからは――さらなる訓練の日々だ。しかし、俺がもたもたしている間に祖国は滅んだ。どうにか聖魔法の扱いを身につけてからは、即座に前線に投入され先輩勇者たちと肩を並べて戦った。魔王国との戦いは一進一退。いや、一進二、三退ってところか。勝どきを上げるより、惨めに敗走することの方が多かった。


 いつ死んでもおかしくはなかった。だが俺は生きながらえた。憎き魔王軍を血祭りに上げるために、一分一秒でも長く戦おうと全力を尽くした結果だ。


『――闇のともがらに死を!!』


 足りなかった。どれだけ血を流しても、村のみんなは、親父はおふくろは、クレアは帰ってこない。


『助けて――』


 涙ながらに伸ばされたあの手を、忘れられない。



「…………」



 目を覚ました。


 大理石の部屋。肌触りの良い毛皮をふんだんに折り重ねた、豪奢なベッドに俺は身を横たえている。


 手を見た。


 青みがかった肌。


 ――魔族の色。


「おはようございます、お坊ちゃま」


 声。ベッドの傍らに、片眼鏡をかけて執事服に身を包んだ赤肌の少女がフワフワ浮かんでいた。悪夢から目が覚めたかと思えば、今度はクソみたいな現実がやってきた。今や俺は魔族の王子で、毎朝悪魔の執事が起こしにやってくる――


 目覚めとしては最悪に近い。だが。


 耐えろ。この状況に耐え続けろ。


 そうすれば、俺は、きっと――魔王軍に致命的な打撃を与えられる。


「……おはよう、ソフィア」


 俺は無理に笑みを浮かべて、悪魔に挨拶した。


 早いもので、俺が魔族に転生してから2年が経とうとしていた。


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