第三夜 ささやく(お題:直観)

 僕の名前は、一ノ瀬和樹。本家でも何でもない、とある一ノ瀬家の第三子で次男・現在二十二歳で大学四年生だ。

 いつの頃からか、僕は五歳年上の兄に疑念を持っていた。


 そもそも長男である兄・大輔は、『サバイバル能力を磨きたい』というよく分からない理由で、全寮制で中高一貫のちょっと変わった学園に入学したという、変わった人ではあった。そんな兄をおっとり系の両親と第一子である姉は、「男の子はやりたい事があった方がいいね」とのんびり見守り、その状況は現在にまで至っている。

 兄がくだんの学園に入学を決めた当時、まだ七歳だった僕は、「サバイバルってかっこいい」と単純に思っただけだった。けれども、『サバイバル』の何たるかを理解して来ると今度は、「サバイバル能力を磨く為の進学ってナニ?」と疑問で一杯になった。たまに帰省する兄に素直に訊ね、熱烈に説明してもらっても全く分からなかったが、今の年齢に達して少しだけ理解出来た事もある。

 つまり、当時の兄の主張は───二十一世紀になっても、世界から紛争や貧困は無くならない。世界中の国が手を取り合って、お互いにフォローし合えば、経済発展も目覚ましい物になることは子供にも理解出来るのに、そうなる気配はない。だから世界経済も安定しない。その上、毎年畳み掛けるように天災が起こっていて、いつ自分が渦中の人になるか、誰にも予想出来ない。だから、長男である俺が生き残る為の能力を磨いて、家族みんなを守る───と、まあ、そういうことだったらしい。

 実に、長男らしい発想だと思う。だが、小学校卒業時・十二歳で考える事ではない。しかもその挙句の果て、『サバイバル能力を磨く』という結論を出す辺り、やはりかなり変人の部類なのだろう。考え方は体育会系寄り、行動は猪突猛進型に分類される人種である。

 こんな言い方をしたが、誤解しないで欲しい。当時も今も、僕は兄が好きだ。僕には出来ない発想と行動力を持つ兄を頼もしく思っているし、尊敬もしている。変わり者だと思っているのも、確かだが……。


 そんな兄が、少しずつ変化して来たのはいつからだっただろう?

 ある意味で究極の現実主義。野球のピッチャーに例えると、ストレートの剛速球一本勝負だった兄は、いつの間にか変化球ピッチャーになっていた。いや、剛速球は相変わらずなのだが、時折らしくない変化球が混ざるというか……。それがいつ頃からだったか───はっきりとはしないが、くだんの学園に通っていた間のことなのは間違いなかった。

 その兄が、近日、盆でも正月でもないのに久しぶりの帰省をする。


 兄・大輔が帰って来る予定の日は、日中は猛暑日、夕方からちょっとしたゲリラ豪雨が降ったものの気温は下がらず、陽が落ちても気温は三〇℃以上・湿度が八五%以上と不快指数が高く、エアコンの効いている部屋以外はすべての場所がサウナ状態の過酷な日だった。トイレに入っていてさえ、止めどなく滝のような汗が流れ続ける。

 予定では、家族全員で夕食を共にする事になっていたが、事前に兄から連絡があり、仕事で少し遅くなるので先に食事を済ませて欲しいと連絡があった。加えて、とにかく両親をエアコンの効いた部屋に留め置き、目を離さないで欲しいとの伝言も……。

 兄が変わったと思うのは、こういう時だ。

 危機管理能力が高いのは確かなのだが、本来このような細かい気遣いが出来る人間ではなかった。そもそも、これは危機管理能力に属する依頼なのだろうか?

 そして、ようやく兄が到着した時、我が家は大パニック状態に陥っていたのである。


 息を切らして兄・大輔が玄関に飛び込んで来た時、正直にいって僕はほっとした。

「兄貴、父さんと母さんが───」

───。姉貴はどこだ? 親父とお袋は?」

 『やっぱり』? 『判っている』?

 それは一体、どういうことなのだろう?

 だが、今はそれどころではない。

「母さんは廊下で転んで動けないから、姉さんはそっちに。父さんがリビングで倒れて、それで……」

「俺が親父の方に行く。和樹、姉貴にこれを」

 そう言って兄が僕に差し出したのは、コンビニなどで見る白いビニール袋。中には、五〇〇mlの水が二本・経口補水液が一本入っていた。

「少しずつでいいから、飲ませてくれ。比率は水二:補水液一だ。俺が行くまでお袋を動かすな。渡したら和樹は、冷蔵庫の氷をありったけ使って、ビニール袋に握り拳ぐらいの氷嚢ひょうのうを作って、俺と姉貴の所に持ってこい。急げっ!」

 言うが早いか、兄はリビングに駆け込んで行く。

 僕は、自分では何も考えることが出来ないまま、兄の指示を伝える為だけに姉の所に向かった。


 一時間後───僕達三兄弟は、救急外来のある病院の暗い廊下で、自動販売機の飲み物を手に、一種の虚脱状態に陥っていた。特に僕は、短時間で起きた数々の場面転換に全く脳味噌が付いて来てなく、一落ち着きした今になって「何が起こったんだろう?」と考えている始末だ。

 結論からいうと、父が倒れたのは熱中症による失神で、幸い倒れた時に大きな怪我はしなかったので、経過観察と脱水症状緩和の為に今夜は点滴入院になった。母もやはり父と同じく、本人に自覚がなかったものの軽い熱中症になっており、転んだ時に立てなかったのは脱水とパニックが合わさってのことだったらしい。母の脱水症状は父ほど酷くはないが、転倒骨折の疑いもある為、こちらも一晩検査入院である。

 両親の突然の異変、滅多に帰らない兄の帰宅、救急車を呼んで、僕らは兄の車で移動して───一落ち着きしても、すぐには動きたくない程に疲れた。

「大輔、あなた何か知っていたの?」

 口火を切ったのは、姉だった。

「何かって?」

「反応も準備も、随分早かったじゃない。経口補水液まで持って」

 確かに、それは僕も思った。

「偶然だよ、偶然。このところ暑いから、途中で寄ったドラッグストアで何となく買っただけ。何か勘でも働いたんじゃないか?」

「勘って───玄関から上がる前から指示を飛ばして、的確だし、必要な物も持っているし……見ていたんじゃないでしょうね?」

「見るって、どうやって? 考え過ぎだよ、姉貴。野性の直観ってヤツだろう? ほら、そろそろ帰ろう。いつまでも居ると病院にも迷惑だ。明日はまた来なきゃならないんだから」

「誰が野生なのよ」

「誰が野生だって」

 ほぼ同時に突っ込んだ僕達に、兄は吹き出した。「兄弟だなぁ」とか何とか言いながら。そして、姉をエスコートしながら歩き出し───僕は見てしまった。ついでに聞いてしまった。

 兄としては、声に出したつもりなど無かったのだろう呟き。

「───が、ささやくからさ」

 何が?

 何が、何をささやくって?

 そして、姉と肩を並べ、先を歩く兄の左肩の上───というか、肩とうなじの間ぐらいのところに、ぼんやりと浮かぶ小さな朱色の塊が……。

 それは、掌より小さな動物のように見えた。

 僕の兄は、一体………?

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