第8話 近藤のエゴイズム
騒がしい居酒屋の中で勝は楽しそうに尋ねてくる。
「どうだったんだ?デート」
僕は楽しかったとだけ答えた。
ビールを飲むのは久しぶりだった。苦くて、薄くて、こんなんだっけと思った。
勝はそんなビールを勢いよく仰いだ。
「梅澤さん楽しそうにしてた?」
梅澤さんの顔をフラッシュバックさせられる。消したい記憶が一緒についてきたが、楽しそうにしてたとは思う。肩に乗せられた梅澤さんの手が蘇った。
「うん、楽しそうにしてたよ。」
肩に手を置きながら、勝がビールを飲むのを眺めていた。脳裏では梅澤さんのとの動物園の映像がちらついて見えた。
「そうか!それはよかった!」
と他人事なのに、まるで自分のことのように喜んでいた。
勝はビールを2杯も飲んでいた。僕はまだ半分しか減っていなかった。
机の端でピアノを弾くふりをしていると、勝は僕に意味深に聞いてきた。
「梅澤さんのこと、どう思う?」
僕はこの前に起こった出来事を嫌でも思い出した。
発端は一人でデスクでぼうっとしている時だった。仕事も終わって、さあ家に帰ろうとしていたとき作曲について考えを巡らせてしまった。それが、終わるところを知らなかった。
17時から始まって、19時になった。夏が始まったが、19時にもなれば外は暗くなっていた。窓から部屋の灯りや、車のライトが目立つ。
カチカチと秒針が時を噛んでいるのを見ながら、鈍く腰を浮かしかけると隣の人が顔を出した。
「あれ?まだ、帰ってなかったの?」
隣の人はもう帰り支度の済んだ姿をしていた。しかし、顔を出した方向はエレベーターの方向ではなかった。
「ああ、うん。えっと……君、はどうしたの」
君か。と小さく微笑んだ。隣の人は部屋に入ってくると僕の隣に来て、ぐっと腕を引っ張った。
「ねぇ、飲みに行こうよ」
僕は普段、飲みに行こうとは思わなかった。梅澤さんとの食事同様、居酒屋を選ばないようにしていた。あまりにも面倒臭い。酔った人間を介抱するのは、勝だけで十分だった。
「あんまり気が進まない顔」
ずるずると連れて行かれた。抵抗はしたが、そのまま店に入れられた。
座敷に座った隣の人は笑いながら僕の顔を形容した。メニューを突きながら、何する〜と言っている。
大衆居酒屋は賑やかだった。知らない場所に、知らないお店。意外と照明は眩しい感じ。影は茶色く映る。
「何食べる?てきとうに頼んでいい?」
僕は照明に照らされた客の揺れる影を見ながら、頷いた。目が新鮮な気分だった。
店員を呼んで、ほいほいと彼女はメニューをめくっていく。指をさして声を出して、またそれを繰り返す。注文を聞き終えた店員が去っていくと、彼女はお冷やで遊んだ。
「ねぇ、最近梅澤さんと仲良いけど、もしかして、告白されたの〜?」
馬鹿な話を馬鹿げた口調で尋ねてくる彼女を僕はあからさまな嫌悪であしらった。
「そんなわけないだろ。考えすぎだよ。」
「じゃ、なんで近づいていくわけよ。梅澤さん、堅物だよ?入社してから、告白が止まらない、止まらない。愛想よくしてるけど、あんまり自分で突っ込んで行かないんだよ?しかも、入らせないし。近藤くんにだけはおかしいよー」
彼女は一人台詞を言ったきり、僕の返す言葉を聞くわけでもなくお冷を口に運んだ。
聞き流してはいたが、梅澤さんにそんなことが起こっていたなんて知らなかった。
「あ、知らなかった顔してる。」
彼女は楽しそうに笑った。僕は苛立ちを覚える。
「うるさいなぁ、興味ないんだから。」
「梅澤さんのこと興味ないの?あんな良い子、なかなかいないよ」
楽しそうに僕をおちょくるように首を振っていた。腹の立つ口調で、顔だった。こいつは僕に何をして欲しいのか計りかねていた。机を叩きたい衝動に駆られた。迷惑になるので、それは我慢した。だが、口で応報することに決めた。
「『良い子』だったら、もう先約がいるんでは?」
冷ややかな目線とともにお送りすると、一瞬間があいて、彼女は笑った。
「確かに。近藤くんが取りに行くとは思いにくい」
口を手で覆いながら、笑っていた。
彼女が言った台詞がミリでも僕の心を逆撫でした。
怒ってはいないが、自分を見透かされているかのような台詞を言われると腹が立つ。
「君さ、なんで、そんなに僕のことそうやって言うのさ」
お冷を口にしながら、影が目につく。店員が料理を運んできた。それよりも前に、ハイボールのグラスがドンと前に置かれる。そして、料理が一通り持ってくると伝票を置いて去って行った。
「『君』じゃなくて、
「なんで」
「近藤くんとは友達でいたいの。良いでしょ?」
「下の名前で呼んだら、距離が近い感じでは?」
「んー、別に良いじゃん。」
鈴鹿は割り箸を割って、食べ始めた。
「私はピエロが好きなの」意味のわからない独り言を残し、口を動かしている。
唐揚げ、枝豆、焼き鳥に、筑前煮。それから、豚汁……
「食べすぎでは?」
「……そうなの?」
錫歌は躊躇わず端を進めている。僕は呆気に足られながら、割り箸を割って豚汁に口をつけた。
出汁と味噌が良い匂いだった。豚はいい具合に油が乗っており、噛めば柔らかく旨みが出た。
「そういや、今日、砂川くんと梅澤さん食事行ったみたいだよ」
料理がそろそろ無くなろうとしたところで錫歌は言った。2杯目のハイボールを口に運びながら、僕は勝と梅澤さんの歩くところを想像してみる。
「そうなんだ。」
「それだけ?」
「それだけだよ。何を期待してるんだよ」
錫歌は笑って、箸を置いて。身を乗り出した。
「いや、梅澤さん、近藤くんのこと好きそうだなーって思って。」
「は?」
誰かに好かれることは悪い気はしないけど、僕はそういうのは苦手だ。
「興味ないよ」
そっぽ向いて言うと、錫歌も少し暗い顔をして元に居座った。
もじもじと足を動かして、掻いて、頬杖をついた。口にハイボールをつけると、ごめんなさいと呟いた。
「そんな気はなかったの。ただ、お似合いかな、って」
錫歌は察したように箸を持ってまた口を動かし始めた。控えめに動いて、チラリと僕の様子を伺っている。
僕はそっぽ向いた顔を戻して、何事もないように微笑んでみせる。
「いや、その、そんな深刻な話じゃないから。」
ただ。この先の言葉は口にできなかった。
「ただ?」
「そういうこと、あんまりしてこなかったからさ。わかんないんだよ」
乾いた笑いを残す。誤魔化すようにハイボールを口にする。チラチラと動く影は、さっきよりも少なくなっていた。
人影に紛れるように夜が深くなっていた。目線は合わない。錫歌は静かに最後の一切れを食べ終わると手を合わせた。おしぼりで口を拭くと、赤い痕跡が残っているのが見えた。
「ごめんね、無理矢理付き合わせて」
引き攣って笑う錫歌を僕は奇妙に眺めていた。
「謝ることないよ」
「いやでも」
「それは、僕のせいだよ」
僕は後ろ髪を掻いて、お茶を濁した。笑って取り繕うことさえも馬鹿みたいに思えて、ずっと思っていることを口にする。下を向きながら独り言のように呟く。
「人に好かれるのは、苦手なんだ。僕は、兄が好きだった。事情は今は言えないけど、死んだんだ。僕が中学のとき。兄は唯一僕を認めてくれる存在だった…」
僕は視線を錫歌に合わせる。
「僕は、唯一認めてくれる存在を失って、ショックを受けたんだ。誰も、僕のことなんか気にしてないし。それに、作った音楽も聴いてくれないしね。」
錫歌は目を離さずに頷いた。
「だからか知らないけど、兄が死んでから、周りに期待しないし、自分にも期待し無くなった。何事にも興味なんか無くなって、親は心配してたけどそれすらも鬱陶しくなった。
そしたら、自分なんか別に他人には必要ないと考え出した。それから、人の好意というものを信じられなくなった。当時大学生だった。彼女だった人は健気にしてた。最初は無愛想な人と思ってたらしいんだけど、好き?って尋ねられた時、好きという言葉が言えなかった。好きという言葉が猛烈に嫌と思ったんだ。
返さないのもアレだから、頷いて答えたらしょんぼりしてた。そのあと数日して別れたんだ。知り合いから聞いたんだ、素直に好きとも言ってくれない。きっと興味ないんだ。って。
それから、僕は自分の中で兄に対する好意が愛に近いものだと知った。恋とかそうじゃなくて、それぐらい本当に信頼してたんだと思う。だから、僕を信頼する前とか、僕を分かったつもりになってる人間に対して軽く好意を向けるのを嫌だったんだ。後に裏切られたり、破局したりしたら嫌だからだよ。もう、あんな虚無感を味わいたくないからなんだ。」
話が終わったところで水に口をつけて喉に流し込むと、自分がとても喉が渇いていることを自覚する。
錫歌は口を強く結んで、じっとを僕を見ていた。
「ご、ごめん。こんなこと言う気はなかった。ただ、梅澤さんにはなくは好意はない。向けたところでどうせ僕なんか選ばれないよ。ただ、遊ばれてるだけだよ」
「そんなことないよ」
強く結んでいた口からは、とても強く口調が現れた。
「そんなことないよ!梅澤さんは、楽しそうに喋ってたよ。近藤くんのこと。ていうか、興味ない人にあんなに仲良くしようとしないでしょ」
僕の口は動かなかった。
「でも、どうして信じられないの?」
僕は考える。
「……信じたくない」
「……そう」
錫歌はあっさりと熱い眼差しを冷やすと、伝票を手に取って眺めていた。
「……クズだよね」
「いや、そうは思わない。」
「……なんで」
「だって、音楽作ってるんでしょ?そんなもんだよ、作品作ってる人なんて。真剣に作ってればそうなるよね。私も音楽作るもん。私だって、そうなってるよ。」
錫歌は呆れたように手をひらひらさせて笑った。でも、それは人を嘲笑うよりも仲間を見つけた安心感のようなものがあった。
「よかった、会社に同じ人がいて」
「……錫歌、錫歌さんも作るの?音楽」
「私は音楽じゃない、絵を描いてる」
ニヤッと笑って、スマホを見せてきた。
それは、とても綺麗な絵だった。
「これは、どこ?」
風景画だった。僕は名所もあんまり知らないし、外国の綺麗なスポットも知らない。けど、そうであっても見覚えのない場所だった。
「どこでもない。私が作った。」
「すごいね。綺麗。光の移り変わりが綺麗。」
「そんなところ褒めてくれたの近藤くんが初めてだよ。」
彼女は嬉しそうに笑った。口を控え目に抑えている。目尻が下がっていた。
「近藤くんの音楽は?よかったら聞かせてくれない?」
僕はスマホを取り出そうと、ポケットに手をかけた。
「おい、琢己」
勝の声で我に帰った。
「どうした。俺、もう食っちまったぞ。それで、梅澤さんのことはどうなんだ」
不敵な笑みを作って勝は身を乗り出していた。恰幅のいい勝の体はこの前錫歌とは違って、妙な圧迫感があった。
僕は後ろに背中をのけぞらせながら、弁明気味にいった。
「どうって。別に、そんなに思ってないよ。今は、仲良くしてもらってる同僚の人って感じかな」
勝は若干に眉を顰めて、肩を縮こまらせた。そして、つまらなさそうに、なんだよ、と呟いた。
何がつまらないのかはわからない。なんだよと言った真意もわからない。ただ、裏で勝が何か企んでいることだけは分かった。
「なぁ、三人で海に行かねぇか。夏休みに」
僕は安堵ともに、言語化できない靄が胸中に残った。
「いいよ。」
僕は曖昧に頷いた。
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