活餌ゴテェ ナマズ研究所編

武州人也

ゴテェの運命

 新しい飼い主さんは、ぼくたちにとても優しい。


 新しい飼い主さんは、毎日十分な量のエサを与えてくれる。前の飼い主さんはけちんぼなのか、エサを少ししかくれなくて、いつもお腹ぺこぺこだった。しかも、そのエサもだんだん少なくなっていった。その時と比べると、今はすごく恵まれている。それに、今の飼い主さんのくれるエサを食べていると、前よりも体の調子がいい気がする。きっと、バランスの良いエサをくれているのだ。


 新しい飼い主さんは、ちゃんと体を洗ってくれる。正直水はあんまり好きじゃないけど、汚れて体がかゆくなるよりはよっぽどいい。前の飼い主さんのところにいたときは、なかなか体を洗ってもらえず、かゆくてかゆくてたまらなかった。今はもうきれいさっぱり、かゆくもないし、毛皮もつやつや、肌荒れとはおさらばだ。


 新しい飼い主さんは、トイレの後始末をしてくれる。前の飼い主さんもしてくれないわけではなかったけれど、すぐにはしてくれなかったから、ぼくたちはひどい臭いのするところでずっと暮らしていかなきゃいけなかった。ぼくたちの周りをハエがぶんぶん飛び回っていたのも、今は昔だ。


 そんなある時、のんびりあくびをしていると、いつものようにぼくたちの所に飼い主さんがやってきた。餌をくれるのかと思いきや、ぼくのところにやってきて、首のところをつかんで持ち上げた。そんな持ち方ってないよ……いつになく乱暴な扱われ方をして、ぼくは不安な気持ちになった。

 飼い主さんはオスメスでいうとメスの方らしい。いつもぼくたちに優しくしてくれる飼い主さんだけど、今、ぼくを見つめる飼い主さんは、何ともいえない表情をしていた。笑っているでも、怒っているでもない。悲しんでいるというのも違う。

 

 飼い主さんは、ぼくの首ねっこをつかみながら、どこかへ歩いていく。どこに連れていかれるのか……お風呂に連れていくときは皆一緒だから、一匹だけでというのはありえない。これから行く先は、多分ぼくが行ったことのないところだ。正直、不安でしょうがない。


 窓の外からは、ざぁざぁと雨の降りしきる音が聞こえる。時折稲光が走り、雷鳴がごろごろ聞こえてくるものだから、ぼくはびくっと体を震わせてしまった。でも、そんなぼくの様子を、飼い主さんはまったく気にしていないようだった。


***


 白衣姿の女――神山は、ゴテェの養殖ケージを開けると、一匹のゴテェの首を掴んでケージから出した。

 ゴテェは抗議の意を示してか、時折手足をじたばたさせていたが、何分力のないゴテェが多少暴れたところでどうにもならない。


 ゴテェを掴んでいる神山が向かった先の部屋には、プールのように床を掘り下げた形で、巨大な水槽が備えつけられていた。

 幅八メートル、奥行き六メートルはあろうかという水槽。そこには、黒っぽい背に白い腹、口の周りから伸びる長いひげを持つ、全長二メートル超の大きなナマズが泳いでいた。アマゾンの巨大ナマズ、ピライーバである。

 ピライーバは神山の気配に気づいてか、彼女の方に寄ってきて、その大きな口をぱくぱく開閉させている。きっと、彼女が来ると餌をくれるのだということを学習しているのだろう。


「分かった分かった。今やるよ」


 ピライーバに語りかけるように言うと、神山は掴んでいたゴテェを乱暴に水槽内へと放り投げた。ぼちゃんという音が、水槽部屋に響き渡った。


***


 この南多摩ナマズ研究所にピライーバがやってきたのは、もう十年も前のことである。

 神山はピライーバの世話をしていた研究員が退職したのと入れ替わる形でこの研究所の研究員となったのであるが、この新人研究員神山が任されたのがピライーバの世話であった。神山とこの巨大ナマズの付き合いは、今年で三年になる。

 ピライーバは食欲旺盛で、口に入るものは何でも食べようとする習性を持つ。餌食いがいいのは悪いことではないが、そのせいで他の魚と混泳させることは難しく、大きな水槽にただ一匹しか入れられていない。この研究所には神山が世話しているピライーバの他にもう一匹、最近迎えた稚魚がいるが、サイズが違いすぎて共食いの危険があるため同居はさせられない。折を見て繁殖に漕ぎつけたいが、まだ時間がかかりそうだ。


 そのピライーバの餌として、研究所内ではゴテェが養殖されていた。ゴテェはその丸っこくて愛くるしい見た目から愛玩動物として流通しているが、一方で多産かつ性質が温和なため、活餌としても養殖されている。

 神山はピライーバの餌となるゴテェの世話も任された。とはいえ、ゴテェの繁殖スピードよりも、ピライーバによるゴテェの消費スピードの方がずっと速い。そのため、頻繁に活餌のゴテェを買い足す必要があった。


 そうして神山が巨大ナマズと過ごしていたある時、小学生以来の友人である柴原が、神山にスマホのメッセージアプリで連絡を寄越してきた。


「伯母さんの経営していたペットショップが廃業してしまった。もしよければ、何か引き取ってほしい」


 そのようなメッセージを送られた神山は、旧友の伯母が経営していたという件のショップに赴いた。

 店舗の中は小綺麗であったが、陳列された生体を見ていると、それらの扱いに大分差があるな、という印象を神山は抱いた。十万以上の高級な生体はよく手入れされているが、そうでない生体の扱いは雑で、不潔な個体もいた。特に首元の傷から蛆が湧いていたコーンスネークを見た時などは、思わず顔をしかめてしまった。

 神山は所長に連絡し、研究所の経費で人工飼料、ウキガエル、ヨーロッパイエコオロギ、ジャイアントミルワーム、それから小赤などの餌を購入した。手で持って帰れる分は神山が研究所まで持っていき、持ち切れない分は後日研究所宛てに郵送してくれることとなった。それから餌だけでなく、繁殖させたナマズの稚魚を入れるための水槽も購入した。これもまた、まとめて郵送してくれるようだ。購入したものは全て捨て値同然の価格で、研究所としては大助かりである。


「他にはもう何もいらない?」

「そうだな……」


 柴原に問いかけられた神山は、周囲を見渡してみた。すると、神山の目に、格子がベージュ色をしている大きなケージが留まった。

 ケージの中にいたのは、すし詰め状態になったゴテェであった。大きさはどれも二十から三十センチメートルで、ラットの大人とほぼ同じくらいである。ケージの下には「活餌用ゴテェ」とマジックで書かれた段ボールが貼られていた。

 ケージの近くで耳を澄ませてみると、ゴテェ……ゴテェ……と、名前の由来になった声が聞こえた。しかしその鳴き声はか細く、明らかに元気がない。普通、ゴテェはまん丸な体型をしているのだが、彼らはどれもやせ細ってしまっており、どのような扱いをされてきたかが分かる。ナマズ研究所で神山が世話をしているゴテェはもっと肉がついていてふくよかだし、毛艶もこんなに悪くない。


「あれをもらおうか」

「活餌ゴテェ? そんなの食べる生き物いるの?」

「ああ、でっかいのがな……ピライーバって知ってるか?」

「あたしは動物詳しくないんだよね……ピラニアとは違うの?」

「ピライーバってのは南米に住んでる巨大なナマズのことさ。大きいやつは全長三メートルになる。ピラはブラジルの先住民族の言葉で魚を意味するから、南米の魚にはよくピラ何とかって名前で呼ばれてるやつがいる。ピラルクとかな」

「へぇ……それにしても彩菜あやなちゃんがナマズのお世話かぁ……あの動物嫌いでハムスターにさえビビッてたのがねぇ……」

「おいおい、そんな昔の話はよしてくれよ」


 彩菜というのは、神山の下の名前である。昔は臆病で動物嫌い、虫や爬虫類のみならず哺乳類が相手でも怖がっていた。そんな彼女が大人になって巨大なナマズの世話をしていることが、旧友である柴原にはおかしく思えるらしい。

 

 そうして後日、ケージごと活餌ゴテェが送られてきた。送られてきたゴテェはオスメス合わせて五匹ずつ。大きさは餌で見た時と同じラットサイズであるが、フルアダルト、つまり成長しきったゴテェは体長五十センチメートルほどになる。送られてきたケージは幅一メートル奥行き六十センチメートルほどで、十匹も飼育しては手狭になってしまう。かといって、元々研究所で養殖しているゴテェのケージに入れては、新参者の痩せたゴテェがいじめに遭いかねない。ゴテェは同種同士で攻撃し合うことは殆どないものの、痩せて弱った個体を見た他のゴテェが手頃な餌とみなして捕食しようとする可能性がある。

 そこで神山は使っていないガラス水槽の上部に金網の蓋を取りつけて、五匹をそちらに移した。ゴテェの飼育ケージが増えてしまい、世話が面倒になってしまったが、ピライーバの食欲を考えればゴテェが増えるよりもピライーバが食べてしまう速度の方がよほど速いであろう。


 最初に神山が着手したのは、迎えたゴテェの栄養状態の改善であった。大事なピライーバの口に入るものであるから、やせ細ったままの状態ではだめだ。まずはゴテェにカロリー豊富な人工飼料を与えて肉をつけさせつつ、人工飼料にカルシウムパウダーをまぶして栄養を添加した。このカルシウムはゴテェの体を通してピライーバに摂取させるのだから重要だ。

 それからケージ内の掃除も頻繁に行った。ゴテェは気に入った場所にしか排泄をしないため、床を汚しまくるわけではないのだが、それでもこの大きさの哺乳類を飼っていれば毎日糞尿を垂れ流すわけで、これを取り除かないわけにはいかない。

 加えて、ケージから出して体を洗ってやることもした。ダニやらシラミやらが湧いて、元からいたゴテェに移っては困るからである。


 そうしてようやく、迎えたゴテェは丸々と太り、毛艶も目に見えてよくなった。これで餌として使えるだろう……そう思って、神山は一匹のオスのゴテェをつまみ出し、ピライーバの泳ぐ水槽へと投げ込んだのであった。


***

 

 急に水の中に放り込まれたぼくは、何とか息をしようと水面から顔を出した。幸い、ぼくの体は水に浮いてくれた。

 けれども……ぼくはその時、とっても怖いものを見てしまった。見たこともない大きな生き物が、水の中にいたのだ。

 それはゆらり、と近づいてくると、大きな口を開けてぼくに襲いかかってきた。このままじゃ、丸のみされちゃう! ぼくは必死に足をばたつかせて、水の中から出ようと壁際まで泳いだ。でも壁はツルツルしていて上に登れない。大きな生き物はすぐ後ろに迫ってきていて、大きな口をがばっと開けた。

 大きな口は、ぼくの左足をくわえた。けれどもそれはすぐにすっぽ抜けてしまったて、ぼくは逃げることができた。どうやら、この大きな生き物には歯がないようだ。もし歯があったら、ぼくの足は食いちぎられてしまっただろう。

 飼い主さん……助けて! じゃないとぼくはあの怖い生き物に食べられちゃうよ! 壁を登れないぼくは、両手を振って飼い主さんに助けを求めた。その手を差し伸べて、助けてほしい……けれども飼い主さんは、笑うでも怒るでも悲しむでもなく、ただじーっとぼくの方を見ているだけだった。

 ぼくが助かるには、飼い主さんが手を伸ばして、ぼくの手をとって引っぱりあげてくれるより他はない。けれども、飼い主さんにそのつもりはないようだった。このままぼくが食べられるのを、だまって見ているだけらしい。あの優しかった飼い主さんがどうして……

 ぼくの目からは、涙があふれ出てきた。それと同時に、声をあげて泣いてしまった。けれども、大きく開けたぼくの口に、水がいっぱい流れ込んできて、ごぼっとむせ返ってしまった。

 気づけば、ぼくの体は大きな生き物の口に吸い込まれていた。そのままずるっずるっと、ぼくの体は大きな生き物の中に引き込まれていく。水がどんどん口や鼻の中に入ってきて、息ができない。苦しい。やめて。出して。ここから出たい。息をしたい。苦しい。助けて。食べないで。やめ……


***


 目の前で繰り広げられた捕食劇を、神山は無表情のままじっとしゃがんで眺めていた。ちゃぷん、という音がして、ピライーバは底の方に潜っていった。外では相変わらず、ざぁざぁと強い雨が降っている。

 

 ゴテェは可愛らしい生き物だ。彼らは人によく懐き、抱っこすると顔をうずめてすりすりと甘えてきて、疑うことを知らなさそうな純真な目を向けてくる。毛皮はふわふわもふもふで、とても良い触り心地だ。

 けれども神山は、そんなゴテェが捕食される様を見ても、全く心を動かされなかった。彼女は淡々と、機械的作業のように、自らが手塩にかけたゴテェをピライーバの腹に収めたのであった。いくら可愛らしい生き物でも、餌は餌だ。

 そう、あれらの苦労は全てピライーバのためであって、ゴテェのためではなかったのである。


「……さて」


 そろそろレポートをまとめなきゃいけない……神山は立ち上がって、水槽部屋を後にした。

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