第8話

 問われた声音は、男の声だった。


 声に驚いて振り返ってしまい、ガタガタと着地出来なかった卓と椅子が、無残にも地に落ちる。


 生け垣の前にやはり男が立っていた。


 瞬時に服装を確認すれば、着崩してはいるが従者等ではないことが見て分かる。




 (誰か嘘だと言ってちょうだい……)




 くだけた服装だがこの髪色を見間違うはずもない。


 アリアンナより高い視線にある瞳の色を見ても想像するに恐ろしい予想は当たっている。


 こんなに間近に対面したのは初めてだが、一度会ったら忘れぬ風格と隙のない体躯が遠い噂で聞いた通りだ。


 だが、どちらか分からない。


 確か今このタルギス王国には黒髪の男は三人いる。その内若い者は二人……




 「お嬢様~、いかがなさいました~?」


 上から、今の音を心配したサーシャの声が響く。


 手摺から顔だけ出して、人を確認して声にならない悲鳴と共に部屋に引っ込んだ。




 (分かるわ!出来れば私も部屋に入りたい!!)




 黒髪の男は声のした上へ一度は顔を上げるも、またアリアンナへ目線を戻す。


 アリアンナといえば身動き出来ずに対峙していた。




 「もう一度問う。そなた、今何をしていた?」




 (本っ当にピンチと時って、声出ませんのね!)


 鼓動がはやり、言葉に詰まる。


 とにかく、カーテシーで誤魔化……否、時間稼ぎをしなくては!




 アリアンナが返事をしないが最高礼をとったのを見ると、男はゆっくり歩を進めながら距離を詰めて来た。


 産まれて一九年、アリアンナ・キャセラックとして生きてきて、こんな絶対絶命の大ピンチに見舞われるとは思いも寄らず、それも、全く対処が出来ないなんて事が起こっている。




 (サーシャの言う通りにしておけば!)


 悔やんでも悔やみきれないとは、このことだ。


 腰を落とし、頭を下げてしまっているので目線の先に男の膝から下しか、伺い知ることが出来ない。




 (……止まった。多分、この方の間合いなのね)




 大股二歩分はあろうか、すぐには届かない位置に男が止まる。


 アリアンナより高い背丈だけではない鍛え上げられているであろう体は、十分な重さを伴うはずであるがここまで歩いてくる足音はない。


 それだけでも相当な手練れとみえる。




 「……キャセラックか……」


 呟きに、アリアンナの肩が震える。




 (箱ぉっ!)




 先に下ろしておいた茶器の入った箱にも、もれなくキャセラック家の紋章が刻まれている。


 自分が招いたピンチに、父の愛情が後押しするとは!


 精神的冷汗が頬を滝のように伝うような感覚が押し寄せる。


 とりあえず返事というか、挨拶を返す為に息を吸い込んだ、その瞬間、アリアンナと男の間に上から水柱と共に新たに男が割って入った。


 「殿下!」


 現れた男は、アリアンナの弟、ジィルトだった。


 殿下と聞いて(やっぱり!)と思うが、色々後の祭りであることは、それはもう眩暈がする程分かっている。


 「ジィルトか」


 「申し訳ございません。姉が何かご迷惑をお掛け致しましたか?」


 「いや。……姉君はどうやら口が訊きけぬらしい」




 (ん?今、笑わなかった?!)




 「……は?」


 「まぁ、いい」


 そう言うと、殿下と呼ばれた男は元来た垣根の方に踵を返した。


 「お送り致します」


 「いや。構わなくていい」


 「…では後程」


 「あぁ」


 立ち去る背中にジィルトが声を掛けると、完全に姿を消した垣根から返事が返った。






 「……あーねーうーえー」


 完全に男の気配がなくなるまで見届けた途端、振り返りジィルトが恨みの声を上げる。


 「ほほ……ほ……」


 取り繕って精一杯微笑む。




 (最近、この笑い方、得意になってきたわね……)




 「何をされてるんですか」


 「……何も。お茶をしようとしていただけよ」


 そう、これは事実だわ。


 「何もせず、ただお茶をしようとしていたなら、なぜ小卓と椅子がそこに落ちているのですか?」


 えぇ、それも事実だわ。


 「……外でのお茶を用意しようとしていただけよ」


 これはもう、現在進行形の事実なのよ。


 「……それはもうただのお茶ではないですよね」


 いいえ、違うわ。


 「私にとってはただのお茶よ」


 何よ。その溜息……私の方がしたいじゃない!


 「……とにかく。家じゃないのですから、使うなとは言いませんが、時と場所と使い方を考えて下さい」


 全面的にジィルトが言っていることが正しいのは理解出来るので、反論も出来ない。


 「……以後、最善を尽くすと誓うわ」


 神妙に反省を込めて返事を返す。


 ジィルトはもう一度嘆息すると、詰襟を少し緩める。


 「因みに、今の方がデルヴォーク殿下ですよ」


 「……あの黒獅子とか言われてる?」


 「……姉上。とかではございません。正真正銘、黒獅子殿下です」


 だから。溜息をやめて欲しいわ。


 「王都伝説かと思っていたわ」




 見事にアリアンナの予想は的中したが、答えを聞けば更に状況は悪化したかに思える。


 まさか国の権威、実質二位に当たるとは。


 ジィルト相手に軽口をききつつ、内心の動揺を悟られないようにする。




 「年初めの祝賀パーティーにも毎年いるじゃ……」


 「あら。見える位置に私が行くと思って?」


 「……」




 食い気味にアリアンナから返事を返され、会話を諦めたジィルトは言葉を切る。


 確かに夜会自体にあまり出席しない姉だが、思い起こせば王家の挨拶や貴族の挨拶回りなど上手く両親から逃げている。というか、姿を消す。


 本当に夜会の最初の大事なところにしか居たためしがない。


 体調が悪くなったとかもあれば、ただ帰宅している時もあった。


 ……仮病だったのかと考えれば合点がいく。




 「そうですね。この後、王への謁見もありますし、くれぐれも失敗などされませんよう」


 送る言葉に嘆息を添える。



 ジィルト、年々表情が乏しくなるわね。というか、背景にブリザードが見えてよ?まだ、水しか使えないハズなのに……ところで、この子何か用があったのかしら。




 「ねぇ、何か用があったのではなくて?」


 「……今。お伝えしました」


 「謁見の事?そんな大舞台で失敗するほど錆びついてはいないわよ。私の猫の毛皮は、獅子にも匹敵する……」


 「たった今失敗なされたように思いますが。その毛皮とやらも被っていて結構ですが、相手は黒獅子だということをお忘れなきよう」


 今度はジィルトから食い気味に肯定をされる。


 「……確かに」




 弟に対し完璧な淑女の微笑みを浮かべたアリアンナだったが、はたと気付けば敵も獅子なら相討ちは覚悟しなければならぬのかとまた新たに静かな焦りを覚えた。

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