みんなの異常と自分の普通

「おっはよう! 瀬戸君」


 次の週の朝、自転車を停めていた和喜は、車から降りた美加と出会った。そのまま二人は横に並んで歩き出す。


「いつも車で来てるの?」

「……まあね、親が事故とか危ないから、って言ってて。仕方なくね。

 いつまで手のかかる子供だと思われてるんだろって思うけど」

 嫌そうに言ってるけど、受験勉強のためには役立っているのかな、と和喜は想像する。


「あ、そうだ、忘れてた」

「?」

 ちょっと待ってね、と美加は言う。肩に掛けている大きなエナメルのスクールバッグのチャックを開けて、緑色の弁当の包みを取り出した。


「昨日はありがとう! ほんとに助かったよ!

 ……はい、これ」

「うん、どういたしまして」

 受け取った空の弁当箱を通学のリュックサックにしまっていると、美加が笑いを堪えていた。


「どうかした?」

「いや、何でもないんだけどさ、『どういたしまして』ってめっちゃ丁寧じゃんって思って」

「そう、かな?」

「そそ。――ご馳走様でした! ……ね?」

「……確かに、実際言われるとむず痒いというかなんというか」

「ちょっと恥ずいね」

 美味しかったと言われて和喜が安心していると、美加が昨日のことについて言及してきた。


「……昨日のさ。『味は保障する』って言ってたけど、さ」

「う、うん……」

 咄嗟に言われて少し鼓動が速くなる。

 もしかして、ずっと前のことも覚えているのではないか、と無意識のうちに期待する。


「宣言通り、凄く美味しかったよ! やっぱり、料理上手なんだね」

「……ありがとう」

 少し期待していた答えとは違い、和喜は少し肩を落とす。


「やっぱり、おばさんって料理うまいんだね」

「? 何でお母さんが? ……まあ、そうなんだけど……さ」

「どうしたの、そんな落ち込んでて。何か辛いことでもあった?」

 

和喜はバツが悪そうな顔を見せないようにしながら言った。

「あー、弁当作ったのさ、僕なんだよね」

「えっ」

 美加はなにも言えなかった。


「嘘、でしょ?」

「いや、ほんとだって」

 昇降口に差し掛かり、美加は歩みを止めた。


和喜は履いていたスニーカーを下駄箱に入れ、学校指定のシューズに足を通す。

「? 行かないの?」

「あの、ふわふわの卵焼きも?」

「……ん? あ、あぁ、僕が作ったよ」

 一瞬何の話かわからなくて思考が止まったが、弁当の話だとわかり、メニューを思い出す。


「えっ、じゃあ、よく味の染みた煮物も?」

「……あれはおばあちゃんからもらったから、違うかな」

「そっか……ハンバーグは?」

「あれは作ったやつだね。前の日の残りだったからごめん」

「ほんとに全部……なんだね」

「うん、そうだよ」


「――はよー」 

「ぁ、おはよー」

 下級生が談笑しながら歩いてきているのを見て、美加は慌ててシューズに履き替える。


「瀬戸君ってさ、普段料理してるんだね。

 あんまりそんなイメージなかったからさ、びっくりしちゃった」

「…………」

 美加が体勢を整えると、和喜は一人で歩き出した。美加もその後ろをついていく。

 やがて階段に差し掛かり、美加が一段目に足をかけたところで和喜が振り返る。


「去年の家庭科の調理実習、覚えてる?」

 三段上から和喜が問いかける。


「うん、11月のだよね。忘れるわけないよ」

「高峰さんたちの班、めっちゃ盛り上がってたよね」

「それは瀬戸君の班だってそうでしょ」

「そうだったね、クレープ破いてる人だっていたのに、1枚も破かなかったし」

「事実だけどむかつくなぁ」

 そう 言いながらも口角が上がっている美香と、さも当然だと言いたげに表情を変えない和喜。和喜はなお続けて言う。


「僕は、何でもできるってわけじゃないから。だから『せめて一つのことだけは頑張ろう』って、そう決めたんだ」

「それが……料理」

「そう。仮に学校を卒業しても、一生役に立つしね。

 高峰さん、僕は君が羨ましかったんだよ。勉強も、スポーツも、何でもできる君が」


 自嘲するように言い捨てる和喜に、美加は弁解を試みる。

「そんな……あたしは、何でもはできないよ。できないことだっていっぱいあって、嫌なこともそれ以上にあるよ。それに、たった一つの事だったとしても、それに打ち込めて、楽しめて、結果もついてきて……それって、凄くいいことだと思う。

 瀬戸君は、もっと自分を認めてもいいと思うよ。目を背けているだけで、あたしなんかより、もっと凄い特技がいっぱいあるよ」


「そんなことじゃないよ。昔の、特に小学生だったときは特に、他人に誇れるようなものなんて無かったから。何一つ輝けてない僕は、キラキラ輝いてる高峰さんを……みーちゃんをすっとすごいと思い続けて、努力してきた。でも、いくらやっても上手くいかなくて、おいつけなかった。そうして……クラスで男女の区別がはっきりしてきた頃に、都合のいい理由を付け足して逃げたんだ。僕も、みーちゃんのことも」


 和喜の独白は、一呼吸おいてからも続いていく。


「そうすれば、もう傷付かないと思ったんだ。けど、それは違ったんだ。

 みーちゃんは、どれだけ離れていても……いや、離れれば離れるほどに、その凄さが分かっていく。追いつこうとすること自体が無謀だったんだなぁ、と思うほどに。

 だから、こんなことしてても、もう何の意味もないなって。それなら、自分なりに頑張ってみる方が、まだ少しだけましだから」

「そんな、つもりは……」

「太陽の光は、直視することはできないんだ。目が耐えきれなくなってしまうから。

 それと同じで、強い才能は、それに憧れる人でさえも無自覚に傷つける……例えば、僕みたいに。酷い話だよ、本当に。

 ……でも、僕はそのせいで、みーちゃんを遠ざけた。みーちゃんが、どんなに悩んでいることも、知ろうとせずに」


 これからも続くと思われた和喜の自傷ともいうべき独白は、他ならぬ美加自身の手によって遮られた。美加はその目に溢れんばかりの涙をたたえて、今にも決壊しそうな感情のダムを必死に堰き止めている。


「そんなこと……ない! あたしは、かずくんがいるだけで幸せなんだよ! 傷つける気持ちも、無かったし、もちろん遠ざけようともしなかった!! そんなことなんて考えないで、ただずっと一緒にいられれば、笑えてればよかったのに!

 ……それだけで、よかったのに……」


 いつの間にか、二人の呼び方が昔のそれに戻っていることに、二人は気付かなかった。その余裕もないからかも知れない。それか、二人が仲違いした出来事……正確には和喜が一方的に身を引いただけだが……を思い出しているのかもしれない。


「かずくん……あたし、嫌だよ……」


「僕なんかじゃ、みーちゃんの隣に立つ資格なんてないから」


 それは、二人を切り離す言葉たち。再び歴史が繰り返されようとしている。


「いつかまた、その時まで待ってて」


 それから2か月が過ぎたが、『その時』が訪れることはなく、2人が言葉を交わす事もなかった。

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