第26話 月夜に咲く花は(2)



「そんなに上手くはないが」


鍵盤の上に、十本の指先をそっと乗せた。


鎮魂歌レクイエムだ」



——レクイエム……鎮魂歌。



 タン————


タ、タン、タタタ……ン



男性らしく筋張った、長くてきれいな指先が鍵盤の上を踊り、美しい旋律を奏で始める。

時々弾いているのだろう。指先の動きはとてもなめらかで、一音の狂いも無い。


その音は儚く、悲しみに満ちていて……


(どうして、こんなふうに……弾けるの?)


彼の心の中の哀しみが、一音、一音に乗せられ、溢れ落ちる。


恐れ……哀しみ……愛しさ。


紡がれた旋律から、痛いほどに、伝わってくる。


 タ、  タ、  タ、タン……


短調だった曲が、少しずつ、長調へと旋律を変えてゆく。



(これは……敬意だ。失われた命に、敬意を示しているんだ……!)



——奪った命に捧げる、レクイエム。


鍵盤の上で踊る指先。

アイスブルーの瞳に伏せる長いまつ毛が、時折りまたたく。その横顔がとても美しくて……愛おしくて。


 気高く美しく、そして強く

 優しく微笑み、時に少年のように高らかに笑い


己が奪った命に心からの敬意を捧げ、レクイエムを奏でる——。


 この人が

 私の、運命のつがい……!


「うっ………」


愛しさと誇らしさとで、知らない間に涙が溢れ出るのを、両手で鼻と口とを覆って必死でこらえた。


同時にこの上ない悲しみが、津波のように押し寄せる。


 どんなに想い、手を伸ばしても、決して届かない遠い存在——。


 目の前に……こんなに、近くにいるのに。

 私の生涯で、たったひとりの『つがい』なのに。


 この人にとっての私は、ただの侍女のひとりでしかない。


誇らしさで溢れた涙が、たまらないほどの、深い悲しみに変わる。


 タン——————。


そしてカイルの指先が、最後の一音を奏でた。


「ここまでだ」




「……ごめんなさいっ」

「?」

「私……皇太子様に、酷い事を言いました。戦争のこと、皇太子様のお気持ち、何も知らないのに……あんな暴言を」


羽織ったローブの端っこをぎゅっと掴んだ。


「気にするな。お前の言った事は、あながち間違いじゃない」

「お詫びと、ピアノの演奏のお礼に……歌をうたってもいいですか?ちょっとヘタ、ですけど……」

「どれだけ下手でもかまわない。聞かせてくれ」

「そっ、そこまでヘタくそじゃ、ないですけどっ?」


セリーナが拗ねるのを見て、カイルはフッと頬を緩めた。


「誰でも知っている賛美歌なんですけどね」

「どんな歌だ?」


ハミングで少しだけ歌ってみるのを、じっと聴いていたカイルだが。


「待って……」


と、両手のひらを鍵盤に戻し……


 タ—————ン、


再び綺麗な音が紡がれ始めて、セリーナの歌声に、旋律をそっと合わせてくれる。


互いに顔を見合わせれば、自然に笑みがこぼれて。

奏でながら、歌いながら——微笑み合う。


とても心地よい、穏やかな時間が、二人の間に流れてゆく。


(いつまでも、こうしていたい)


夜空に人知れず響く、ピアノの音と澄んだ歌ごえ。



 タン—————。


最後の一音。その幸せな余韻も、遂に途絶える。



「皇太子様」


鍵盤から目を離し、顔を上げるカイル。


「今日は、有難うございます……」



女性と……いや、誰かと二人で、こんなふうに過ごしたのは初めてだった。

他愛のない話が出来る友人はいるが、冷徹で感情が無いなどと畏れられ、心はどこかで孤独だった。


この侍女はとても変わっている。

だが変わり者であるが故に皇太子の自分を臆する事なく、直球の素直さでぶつかってくる。

見た目は確かに変わったが、中身は——何故だか妙に自分を惹きつける——あの侍女のままだ。


「故郷に帰っても、私、今夜のことは……一生、忘れません」


正直な強い意志を感じるのに、どこかとても悲しげで、泣いた後のようにみどりの目をうるませた。

月明かりを背負い、ふわりと微笑むその姿は、月夜に咲く小さくとも可憐な「白い花」——


————綺麗だ。


カイルは愕然とする。

目の前に在るのは、彼が憧れ続け、ずっと求めてきたもの。


 彼女は——…


「至高の領域」




「グフッ……」

「セリーナ?!」


突然に咳き込んで胸を押さえ、とても辛そうにする。


「どうした、大丈夫か?!」


カイルが慌てて椅子を立ち、しゃがみ込んだセリーナの前に片膝をついた。


(息が、苦しい……)


 はあ、はあ、はあ


(先生のお薬が、切れて……)



——今はやめて……!もう少しだけ、お願い……っっ。


「どこか痛むのか?!」


見上げれば、アイスブルーの瞳が心配そうに揺れている。


「平気……です……すぐに、治りますから」



———嘘。


発作が起これば、何日も続く呼吸困難……それに、そもそもの発作の原因になっている相手が目の前にいる。

薬で抑えてはいたものの、カイルと接することで症状がひどくなるのだ。


「待っていろ!すぐに医者を呼んでくる」


立ち上がろうとするカイルの腕を、セリーナがぐっとつかんだ。


「待って……っ、私……」

「?!」



(本当に、キスを……すれば……この苦しさは、治るの……?)



「皇、太子、様」


切れぎれの呼吸のなかで手がしびれ、唇がみるみる紫色に変わっていく。


僅かに唇を開き、震えながら腕を伸ばす。

カイルの頬に両手を当てて、熱を帯びた目で、彼を見つめる——。


「セリーナ、お前…………、ッ?!」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る