第87話 縁(ゆかり)の地へ
空はオレンジ色と群青色が混ざり合い、綺麗なグラデーションを描いている。
林向こうの山の
「カイル……どこに向かっているの?」
すぐに帰るものだと思っていたのに、黒銀の馬はセリーナの家とは逆の方向に走っている。
「家に、帰るのでは……?」
身体を支えてくれている腕の中で、カイルの顔を見上げれば、
「寒くないか? ちょっと距離があるが、寄りたい場所がある」
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第87話 縁(ゆかり)の地へ
カイルの馬は足元に広がる夕闇に惑わされる事なく、力強く、的確に進むべき道を走る。
——ロレーヌの村を出て、三、四十分ほど経ったろうか。
日は既に落ち、視界の先には黒々とした空が広がっている。その一部がぼやっと明るみを帯び、光の中に白い建物の頭頂部が見え始めた。
その場所へと続く一本道を、馬はひたすらに走り続ける。
少し行けば、明るい照明に照らされた複雑なデザインの門扉と、その両脇に立つ二人の衛兵が見えてきた。
颯爽と近づく馬の姿を認めると、彼らは門扉の前に進み出て、持っていた槍で威嚇する。
「何者だ!!」
彼らは——黒銀の馬に跨る銀髪の青年を見て互いに顔を見合わせる。見覚えのあるこの男は、確か……。
「オルデンシア家のカイルだ。通してくれ」
アイスブルーの双眸が、彼らを鋭く見据えている。
衛兵達の目の色が安堵の色に変わるのを、セリーナはハラハラしながら見守っていた。
「こ、……皇太子殿下! 失礼致しました。おいっ、早く門を開けろ! レイバルト様に知らせるんだ」
バタバタと庭の向こうに走り去る衛兵を見送り、壮麗な白いアイアンの門扉をくぐる。馬が足を進めるのは、冬咲きの花々が咲き乱れる美しい庭の中。
鳥の形を模した照明がオフホワイトの石道を柔らかに照らしている。所々に佇む石柱は、歴史を感じさせる質感ながらも艶やかに磨かれ、その美しさが保たれていた。
「ここは……?」
「すぐにわかる」
白亜の城に馬が近づけば、慌てた様子で中から走り出てくる数名の侍従とメイドたち。続いて、小走りで姿を現したのは、白いタキシードを着こなす威厳ある壮年の男性だ。
「これはこれは——、皇太子殿下!」
「レイバルトか! 久しいな。突然押しかけてすまない。アラミスに、折り入って聞きたい事があってな……」
皇太子ともあろう者が護衛も付けず、平民の服を着て——しかも若い女性まで連れている。その様子に驚くも、使用人たちは揃って
「グレンバーン公爵邸に、遠路よくぞおいでくださいました。して……そちらの御方様は?」
カイルは馬を降り、セリーナを抱え降ろしながら揚々と答える。
「わたしの妻だ」
グレンバーン公爵邸。
以前、執事代行として宮廷に出向いていたアラミス・グレンバーン公爵の邸宅であり、カイルの母・皇后陛下の実家である。
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——わたしの妻だ。
こんな風に紹介されるのは初めてで。
セリーナの胸の奥が、心地よく痛む。
「……殿下がデルフィナを迎えられたとは聞き及んでおりましたが、こんなに早くお目にかかれるとは。光栄でございます」
目の前に並んで立つ使用人たちの視線が刺さる。
本人の意向はどうあれ、カイルは皇太子だ。皇太子がセリーナを「妻だ」と言ったとしても、正式な婚礼の儀式を済ませていないのだから、おおやけにはデルフィナと言う位置付けになるのだろう。
「公爵閣下は生憎ご不在ですが、間もなくお戻りになりますので」
美しい庭もさることながら、白亜の宮殿の内部も素晴らしく豪奢で、白と黒を基調とする色合いの中に鈍く光る金の装飾が、程よく華やかさを添えている。
「皇后陛下のご容態が、
カイルはレイバルトと呼ばれる男性と話し込みながら歩き、その後ろをメイドに付き添われたセリーナが歩く。
「セリーナ」
突然振り返ったカイルが耳打ちをする——彼の指先が、気遣うように頬に触れた。
「少しのあいだ一人にするが、待っていてくれるか?」
一抹の不安が胸を叩く。
(……カイル、行かないで。そばにいて?)
いつの間に自分はこんなに寂しがり屋になったのだろう。
知らない場所でカイルのそばを離れることが、不安で心細くて……こんなにも寂しいと感じるなんて。
「デルフィナ様はこちらへ。お部屋にご案内いたします」
(私が、デルフィナ——…)
レイバルトとともに遠ざかるカイルの背中を、名残惜しげに眺めながら。
心細さに加え、カイルのデルフィナとして見られることの責任のようなものが押し寄せて……セリーナの緊張は、ますます高まっていくのだった。
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通されたのは——
女性のための部屋だと、一目でわかるしつらえ。
ホワイトと真鍮を基調とした空間は広々としていて、柔らかそうなカーテンが揺らぐ大きな窓から外に出れば、バルコニーからは美しい庭を見渡せる。
スツールに腰をかけてしばらく待っていると、「失礼いたします」ノックの音がして、三人のメイドが入室してきた。
「公爵様がお戻りになれば、晩餐をご一緒いただく事になるでしょう。今からそのご準備を」
(公爵様との、ば、晩餐……?!私もご一緒するのですかっっ)
「あの……公爵様って、アラミス・グレンバーン公爵様、ですよね……?」
「もちろん、その通りでございます」
赤髪の獅子と呼ばれる公爵の、飄々とした表情が胸をよぎる。
——グレンバーン公爵は、ロレーヌからこんなに近い場所に住んでいたんだ。
ちょっとした衝撃が走ってしまう。そして以前は疑問に感じた公爵の言葉を思い出す。
『だから
碧目種族のことを、ロレーヌの伝承を。
ロレーヌからほど近いところに住む公爵が知っていたならば、納得がいく。
「カイル……いえ、殿下は……?」
「別のお部屋でご準備を」
三人のうち落ち着いた一人を除き、あとの二人は目を輝かせてセリーナを見つめていたが、
「デルフィナ様、ああ……。お目にかかれて光栄でございます! わたくしたちが、全力でお手伝いさせていただきますっ」
「わたくしたちに
——セリーナは、数ヶ月前まで侍女だった。
エルティーナ王女やティアローズ王女の介添えの経験もある。
なので彼女たちが今から何をしようとしているのか、おおよそ予想ができた。案の定、二人の侍女が抱えるタオルと石鹸が目に飛び込んでくる。
「あのっ!私、湯浴みのご介助とか、必要ありませんから……っ」
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