第80話 好き


水場の袂に腰をかけているあいだ、セリーナは目の前を通り過ぎて行く多くの人々を見送った。

狭い村だとはいえ、市場ですれ違うのは見知らぬ人ばかりだ。


宮廷にいる間に忘れていた過去の自分を、エライザに会った事ですっかり思い出してしまった。

自分の事を知っている人は、この中にどのくらいいるのだろう?

自分からは見えていないだけで、エライザが言うようにどこかで陰口を叩かれているのかも知れない。


なんだか急に心細くなり……カイルへの想いが込み上げて、今すぐにでも会いたくなった。だけどまさか泣いてしまうほどに、そのぬくもりを求めていたなんて。


カイルがもしもこのまま、戻って来なかったら……?

小さな不安が時を追うごとに膨らんでゆく。


人の流れの中にその姿を見つけた時は、心からホッとして。

同時に彼がふと見せた微笑みに胸が熱くなって、押さえていた感情がホロホロと溢れ出てしまった。


顔をほとんど隠しているので、涙は見られていないはずだけれど……。


「お帰りなさい、皇太子様っ。良い場所は見つかりそうですか?」

「何軒か話を聞いてきた。明日は下見だ」


肩を抱かれ、ぬくもりに寄り添っていると、心までもがあたたかく、落ち着いてくる。


「明日、一緒に見に行かないか」

「ぇ……ご一緒しても、良いのですか?」


「ああ、勿論」


セリーナが瞳を輝かせるのを見て、カイルは頬を緩める。

先ほどまで、理由はわからないが目に涙を滲ませていた。

彼女は故郷に帰ってからずっと顔を隠し続けている。どこか伺い知れないところで、彼女なりの事情や悩みを抱えているのだろう。


(それを払拭し、堂々と自分をさらけ出せる手助けが、俺にできれば良いのだが)


仮家でも住むところが見つかれば、セリーナに伝えたい、いや、伝えなければならないがある。


(まだ鬱屈を抱えた彼女は、YESと言ってくれるだろうか——?)


仮家、というものにどのくらい住むのか、カイル自身も見当が付かない。アドルフに背中を押されるまま宮廷を出たが——皇帝が、これで納得しているとは到底思えなかった。


「皇太子様! 荷物、持ってくださって有難うございます」

「セリーナ……。皇太子と呼ぶのは、もうやめないか?」



⭐︎

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夕飯の卓上に、トウモロコシが出された。

丸々一本の鞘を前に、カイルが絶句しているのがわかる。


(お母さんったら……! なにも今を出さなくてもっっ)


「皇太子様は、無理せず残してくださいね?!」

「もしかしてお兄ちゃん、食べ方がわからないの?」


セドリックが大口を開けて手本を見せれば、見習ってカイルも鞘にかじり付く。


「この野菜。こんなに美味しいものでしたか」

「お兄ちゃん、顔に………ッ!」


二人揃って口元に粒をたくさん付ける姿に、家族中が笑いに包まれた。


セリーナは相変わらず気が気ではないが……。昨日までそこにあった緊張感が、今はすっかり消えていた。


「そうだ、あなたたち。今年最後の日曜は歳納めのお祭りなの。二人で行って来たら? お隣のマリアが、そこで式を挙げるそうだから。お父さんの腰もまだ本調子じゃないし、私たちの代わりに晴れ姿を見てあげて?」


「え……っ。あのマリアが、結婚?」


歳下の幼馴染の吉報に驚いてしまう。

そういえばセリーナは、宮廷にいる間に二十歳の誕生日を迎えてしまった。神魂を集めるのに必死だった頃で、自分の誕生日なんてすっかり忘れていたのだ。


(エライザが言っていた『お尋ね者』に加えて。とうとう私……新たに『行き遅れ』の肩書きまで、いただいてしまいました)




⭐︎

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⭐︎

 



「良い家族だな」

「そっ、そうでしょう、か……」

「突然現れた得体知れずの男を、皆があたたかく迎え入れてくれている。流石はお前を育ててくださったご両親だ」 


(こんな体たらくに育ってしまって、両親には申し訳ないですけど……)


セリーナが眠る前に寝具を整えるのを、カイルは窓辺に立って眺めている。


カイルの部屋で二人きりになると緊張してしまう。眠る前のカイルは、枷が外れて「男」になるから……。

それに、こんなふうに後ろからジッと見られていたら!


(緊張とドキドキが、止まりませんっ)


昨夜、肩に付けられた所有印が頭の中で疼きだす。

案の定——。さっきまで窓辺に居たはずのカイルの腕が後ろから伸びて来て、両腕をはがいじめにされてしまった。


額に熱っぽい息遣いを感じると、身体の奥がキュンとなる。


「皇太子様……。これでは私、動けません」


ベッドメイキングの手が止められてしまい、困って顔を上げれば口づけをねだられる。


「すぐに、終わりますから……少しだけ、待っててください……」

「皇太子と呼ぶなと言ったはずだ」

「でもっ……何と、お呼びすれば?!」

「名前で呼べばいい。それにもう目上でも何でもないのだから、敬語もやめてもっと気軽に話して欲しい」


(急にそんなことを、言われても……!)


「ど……努力、してみます」


「名前。呼んでみてくれないか」

「ぇ……」


はがいじめの腕が緩んで向かい合わせになれば、今度は熱を込めた眼差しで見つめられる。


「名前で呼ばれる事など、あまり無かったものだから」


言われてみれば、そうなのかも知れない。自分には当たり前の事が、彼にとっては違うのだ。


「いい……ですよっ」


(でもその前に、心の準備が!)


躊躇いがちに、カイルの首根っこを抱え込む。初めての事だから——何となく、面と向かっては恥ずかしすぎた。


「カイル……」


ギュッ。抱きしめる腕に力を込めた。

この体でこのひとは、たくさんの事を受け止めて来たのだ。


帝位を継がねばならない宿命、責務。誰にも弱いところを見せられず、冷徹さの鎧を纏って。

どんなに心細くても、寂しくても——、

全ては『皇太子と言う名』のもとで。


重い荷物を下ろした彼は、今どんな気持ちだろう?


「好きな人に名前で呼ばれるのは、良いものだな」


セリーナの背中を抱える腕にも力が込められる。


あなたの大切なお名前。

私で良ければ、何度でも呼んであげます……。


「カイル、……カイル。好き……大好き」


私もあなたの前だけは、『本当の自分』でいられるから——。


顔は見えないけれど、少し照れたような、小さな言葉がそっと降ってきた。


「……俺も好き」



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