第78話 回想と渇望と(⭐︎)


七日前——宮廷・皇宮。


師走に入ると、宮廷は一年で一番の静けさに包まれる。任期を終えた使用人達が、ごっそりいなくなるからだ。


この時期は、急を要する事態の他は皇室の接見や宮廷行事などは行われず、翌年の始めに新しい使用人を迎えるまでは、長年宮廷に勤め上げているベテランの上級使用人達が細々と仕事を回している。


閑散とした回廊の静けさに、皇太子と執事が歩く衣擦れの音だけが響いていた。

目指すのは中庭のテラス、二人のあいだに会話は無い。


馴染みの三人で摂る昼食も味気がない——と言うのも、ひと月ほど前から三人の中心にいるカイルが、ほとんど言葉を発しなくなってしまったからだ。

この日も望まない食事を時々口に運べば、心ここにあらずと言った感じでボウッと宙を睨んでいる。


「———」


アドルフがそんなカイルをチラリと見遣り、落胆を交えた吐息を鼻で吐いた。


「あ〜、殿下?」

「無駄だ、ロイス。多分聞こえてない、と言うか聞こうとしていない」

「ッ。こんなのがいつまで続くんですかね?!」


ロイスは……カイルの目の前に両手を持って行き、バチン!と打ち合わせる。これには流石に驚いて、


「——ロイスか、どうした?」


「どうした?じゃないですよッ。殿下の方こそ、腑抜けみたいになっちゃって!好きな子と別れて寂しいのはわかりますが、もういい加減もとに戻ってもらわないと」


「腑抜け……?誰の事だ」


アドルフとロイスが顔を見合わせる……なっているのに、本人は無自覚なのか、と。



⭐︎



執務室に戻ったカイルは、ひたすらにペンを走らせる。まるで何かに追われるように——。

書類を卓上に置き、「殿下」アドルフが声を掛けた。


「あれほどの熱意を、簡単に捨てるのですか」


カイルの手が止まる。


「らしくもない命懸けの恋ではなかったのですか。それをあっさりと諦めて引き下がるのですね?」


「お前はどうしろと言うのだ。あの時、俺はどうすれば良かった?!彼女をもしも引き止めていたら……あのまま皇帝の手にかけられていた」


「彼女の命を救えたから、それで良いと?」

「……もう、済んだことだ」


スッと、アドルフの拳がカイルの目の前に差し出される。


「そこに手を出してください」


訝りながらも、言われるまま手のひらを卓上に広げる……アドルフの拳から渡されたものは——。


「これは……神魂カーラ、か?」

「はい、二十粒繋がれています」

「これだけ集めるのには……相当苦労しただろう」

「殿下の手首のサイズだそうです」


神魂に向けられていたカイルの視線が、アドルフに移る。


「どう言うことだ……?」

が『あなたのために作った』」


誰かが——。

カイルの脳裏に浮かぶのは、ただ一人だけ。


「……まさか」


「そのです。あなたは彼女のまで、無駄にするのですか?」


「だが……。俺は彼女を帰してしまった」

「追いかけて行けばいいでしょう?」


予想もつかなかったアドルフの言葉に驚かされる——そんな事、出来るはずが無いだろう?!


「そんな事は出来ないと誰が決めたのですか。彼女と共に死ぬ気だったのなら、皇位なんてものに未練は無いでしょう」


心を見透かすように言葉を続けるアドルフ。

この鹿提案がひどく真直にも思え、カイルはフッと笑って見せた。


「お前と言う男は。とんでもない事を言い出すものだな?」

「殿下——。ロレーヌを訪ねれば、彼女の他にも得られるが、あるかも知れません」



⭐︎



政務はアドルフに一任した。

元々自分の身に何かあれば、全てを彼に譲り渡すと決めていたのだ。


宮廷を発つ日の朝——。


『離れ』の寝台に横たわる皇后は饒舌で、顔色も心なしか良いように見えた。

皇位を放り出し、母と妹を置いていくことに、正直まだ迷いもあった。


「自分を信じて……あなたが選んだ道を、精一杯、生きなさい」


生気を失ってさえも、なお美しく……。

寝台にひざまずき、弱々しく微笑む母の痩せ細った白い手を握る。


「母上……。不甲斐ないあなたの息子の親不孝を、どうかお許しください」



⭐︎

⭐︎

⭐︎



「皇太子、様……?」


見れば、セリーナが心配そうに見上げている。

思案にふけるカイルを案じているのだ。


「平気……ですか?」


底抜けに澄んだ、美しい碧色の瞳が揺れている。

一度は手放してしまった彼女が目の前にいて、自分を案じている——『愛おしい』という感情が、堰を切って溢れ出す。


「でもっ。しばらくここに居てもいいって、お父さんに許してもらえて良かったですね?」


セリーナはふわりと笑い、カイルのために用意した部屋のベッドの寝具を整える。湯浴みを済ませたあとの長い髪は、まだ濡れていた。


「ぁ……っ」


振り返ったセリーナの手首を奪い、迷いなく組み敷いていた。驚く彼女を真上から見遣れば、少し怯えたような瞳に欲情が掻き立てられる。


一呼吸、それを愉しみ、唇を合わせようとするが——セリーナの人差し指がカイルの唇に押し当てられ……止められた。


「ダメ、です……っ。家族が、隣の部屋で寝てますから……!」

「お前に……こんなにいるのに、お預けなのか?」


「両親がいる家ではダメですっっ」


カイルは吐息を呑み込む。

冷静になれば、確かに訪れたばかりのセリーナの実家で、いきなりは無い——。

もしも両親に気づかれれば、節操のない男だとレッテルを貼られ、面目も何も立たないだろう。


「せめてキスぐらいさせてくれ……」


持て余した手で柔い頬に触れれば、仕方がないと言いたげにセリーナが目を閉じる……それが合図だった。


———飢えている。


口付けを重ねただけでは足りずに耳殻を食み、首筋、胸元に……唇を這わせて行けば、熱い吐息混じりの声で「あぁっ、ダメ、です……っ」と叱られる。


「キス以外、何もしてない」

「で、も……っ、これ以上は、もうダメ……!」


仕方なく、夜着を剥いて露わになった肩を強く吸う。赤い印を残したところで湧き上がる感情を堪えた。キスの代わりに、華奢な身体を強く抱きしめる。


「皇太子様……」

「ン?」


「本当は、私も……」


互いの額と額をくっつけると心が落ち着いて、ひどく穏やかな気持ちになるのは何故だろう——。


「私も、あなたにいるので……我慢するの、辛いです」


感情に再び火を付けるセリーナの言葉。

カイルの『心の声』はこうだ。


——もう「憤死」寸前だ!




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る