第69話 命を、ともに




「——わたしの事よりも。殿下と一度について話す必要があると思っていたのです。フォーンの王女を帰してどうするつもりかと思えば、宮廷の使用人をデルフィナとして帝国中に周知させてしまった。こんな無謀な賭けをして……もう後には引けませんよ?」


アドルフの言葉に、カイルは書類の上に走らせていた手を止める。執務室には神々しい朝日が注ぎ、ペンを握る彼の手元を照らしていた。


「お前にとっては使用人でも、俺にはたった一人の女性ひとだ。ほんの僅かな時間だったが、皆の前に二人で立つ事が出来た。手を取り合い、彼女とファーストダンスを踊ることの願いも……叶ったのだ」


ファーストダンス。


それは婚礼の儀を済ませた二人が、最初に踊るダンスの事だ。

アドルフは眉をひそめる。結婚したわけでもないのに、カイルは何故そんなふうに呼んだのだろう?


「しかし帝国に何の益も齎らさない者を皇帝陛下が認める筈がありません。彼女を陛下に差し出せば、彼女は恐らく——」


カイルは静かにペンを置き、アドルフを見上げた。口元に僅かな笑みさえ浮かべながら……。


「その日が、彼女と俺のになる」


———ッ!?


アドルフは息を呑む。まさか言葉がカイルの……皇太子の口から出るとは思いもしなかった。帝国とともに、帝国の為だけに誓いを立て、生きてきた彼の口から。


——何故、そこまで?


「本気……ですか」


カイルは朗らかな笑みを浮かべたままだ——…


「ああ。その時はシャニュイ公爵家が帝国の覇権を取り、お前が俺の代わりに帝位を継いでくれ」


俺のだと思って。


(冗談……ッ!)


「——だが安心しろ。今のはあくまでも『例え話』だ。皇帝に黙殺される事がわかっていて、彼女をみすみす差し出すと思うか?」


穏やかだった表情から笑みが消え、今度は挑むようにアドルフを睨む。


「俺に話があるようだが、今更何を聞けと言うんだ。お前はもう俺の味方ではないからな……!」

「まるで親友に見捨てられた少年だな……。わたしだって殿下には、幸せになってもらいたいのです」


アドルフは冷や汗を拭う。

『例え話』だと言ったが、あれはだ。もしもセリーナの身に何かあれば、彼は命を捨てる覚悟があるという強い意志を、アドルフに示したのだ。


(だから足を腫らしてまで、彼女との『ダンス』に拘ったのか……?)


昨日という機会を逃せば、もう二度とふたりで踊る事なんて、叶わないかも知れないから——。



生涯に一度きり、最初で最後の……ファーストダンス。



アドルフは襟を正す。自分は君主の命がけの恋心を知ってしまった。

そして自分は、君主を死なせるわけにはいかない……!


何としても、この局面を打破するための糸口を探し出すのだ。


「侍従長は相変わらず口を閉ざしたままですが、セリーナ・ダルキアの事、私の権限で調査を続けていました。そして辿り着いた幾つかのがあります。殿下にとってのが、思いもよらないところに有るかも知れないのです」


「勝算……だと?」


アドルフが、カイルの耳元に口を寄せる。

窓の外は冷たい風が吹き始めた。執務室から見下ろす木々の葉が、僅かにいろを染めている。



「——は、確かなのか?」

「私とて、何の勝算もない戦に加担などしません」


「もしも、だとしたら」


「はい。先ずはを起こしたに会い、真実を知る事です」







「ティアローズ様、見つけましたよっっ!」


がばっ!と開けたカーテンの後ろから、照れ臭そうに顔を出す第二皇女・ティアローズ。今日は銀色の御髪おぐしを頭の後ろでまとめている。


「セリーナったら今日は鋭いのねっ。そうだ、見て!!この髪……」


「ふふっ。素敵ですよ!」

「今朝ハンナに頼んで、セリーナと同じのにしてもらったの。うまく、出来てるかしら……?」


「はいっ。私たち、お揃いですね」


ふたりは鏡の前で後ろ姿を覗いてみる。長い髪を同じ形にほわんと結わえた頭が二つ並んでいて——お互いに顔を見合わせて、ふふっ!と微笑みあう。


半年近く世話を続けたティアローズを、セリーナは本当の妹のように感じ始めていた。ティアローズもすっかり懐いていて、眠れない夜にはセリーナを寝室に呼び寄せるほどだった。


母親が長く病に伏しているのだ。まだ幼い彼女が寂しさの底にいることを思えば、皇女がいじましく、愛おしささえも感じてしまう。


「セリーナのねっ。お母様のと、とてもよく似ているの」


「え……」

「こっちに来て!」


ティアローズは、部屋に飾られている大きな絵画の前にセリーナを立たせる。


「これを見て。お母様よ?」


ティアローズの部屋で見慣れた、美しい少女が描かれた大きな絵画。これまでじっくり見る事は無かった。

赤い花の園に佇む少女は、十代の幼さを残した面影に、幸せそうな笑顔が溢れんばかりに輝いて——よく見ると、左手の薬指に青白い色の二連のリングが描かれている。


「ねっ、似てるでしょう?お母様のは二重なのだけど……色も形もセリーナのと同じなのよ!」

「この絵の女性は、皇后様なのですね……!」

「お母様は、この指輪はお父様からいただいた、大切なものだって言っていたわ。セリーナもこれを誰かにもらったの?」


「ぁ……はい、いただきものですよ」


あなたのお兄様からです、とは勿論言えない。アリシアだけは知っているが、指輪が皇太子の『誓い』だというのは、誰にも知られてはいけない秘め事だ。


「恋人にもらったのでしょう?!セリーナには恋人がいるのねっ」

「それは……」


(恋人、だなんて。素敵な響きですね……)


「とっても大切な人に、いただいたんです」


絵の中の、皇后の笑顔。

四十一歳の皇帝に見染められた時、皇后は十八歳だった。二十三才も歳が離れた政略結婚。


『悲劇の皇后陛下』と侍女たちの間では噂されているが、この皇后の笑顔は……幾ら宮廷画家が取り繕ったとしても、こんなにも自然で愛らしい表情を、偽りや想像だけで描けるものだろうか?


「左手の薬指は『結婚の誓い』なのでしょう?セリーナは、その恋人と結婚するの?」

「いえっ、これは……。私、結婚なんてしませんよ?」


「でもその人の事、好きなのでしょう?」

「ええ、大好きですよっ」


「だったらダメね……。セリーナはお兄様と結婚すればいいのにって思ったの。そうすればセリーナはずっと皇宮ここに居られるし……。お兄様は将来皇帝になるのっ。とっても優しくていい人よ? 旦那様として悪くないでしょ??」


「ふふっ。侍女の私なんて、皇妃にはなれませんよ?」


幸せな結婚をして、好きな人のお嫁さんになること。

小さい頃からの「夢」だった。宮廷を去って“つがい“と決別すれば、そのささやかな夢さえも叶わない。


「そんなこと誰が決めたの?!セリーナが帰ってしまったら、私のお世話係もデルフィナも、また違う人が来るのでしょう……?」


——また違う人が、来る……。


すっかり消沈して長い睫毛を伏せているティアローズの頭を、そっと抱きしめる。


「この先に誰が来られても……ティアローズ様なら、きっと仲良くなれますよ」


セリーナは再び若き日の皇后の笑顔に目を向ける。

皇后に謁見した日から、もう随分と時が経っている。半年以上前に会った時も、皇后は病に伏していた。


「皇后様は……。お変わりなく居られるのかしら?」

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