第63話 その先にある未来
「カイル様……エルティーナです。いらっしゃいますか?」
——トン、トン、
三度ノックするまでに、獅子の間の扉は開かれた。
エルティーナを見下ろすカイルは既に礼服を脱ぎ、ラフな部屋着に着替えている。
「こんな時間に呼び立ててすみません。どうぞ、中へ」
「はい、………お邪魔、いたします」
エルティーナはガウンの胸元をグッと押さえる。
センスの良い家具が整然と置かれ、きちんと整えられた部屋を意識せずとも見てしまう。部屋の奥にある、豪奢なベッドも——。
これから自分があの場所で皇太子に抱かれるかも知れないと思うと、胸の奥がゾワリと縮んだ。
カイルの背中に続き、案内をされたのは、ガラス張りの窓の向こうに解放されたバルコニー。
こちらもゆったりと広く、二脚の椅子とテーブルが置かれている。
「今夜は星が綺麗です。ここで話しましょう」
テーブルにはクリスタルのピッチャーに入れられた飲み物とグラスが二脚。
カイルは椅子には座らず、バルコニーに寄りかかって夜空を見上げた。
「す……すてきな星空ですね。このお部屋も、素敵です」
この先、夫になる男性の寝所で、こんな夜中に二人きりだなんて。
夜空の星を見ようとしてもちっとも目に入って来ないし、気恥ずかしさと畏敬から来る緊張を押し殺しながら絞り出す言葉はぎこちない。
カイルの隣に立ち、見上げたその横顔は視線を定めず……呆けたようにどこか遠くを見つめている。
「……カイル様?」
エルティーナの呼びかけに、カイルは伏せ目がちだった視線を上げた。
「ああ、何か飲みますか?」
「いえ……。わたくしのことは、どうぞお気遣いなく」
カイルは心ここにあらずと言った感じで——。
ずっと睫毛を伏せているので、心配になってしまう。
「どこか、お体の具合でも……?」
「あ、いや、——すみません」
「謝らないでくださいっ。私にできること、何かありますか?」
見上げれば虚ろな視線を切り替えて、今度は鋭い目をエルティーナに差し向けてくる。
「エルティーナ……君に、尋ねたい事があります」
(この感じは……。宵のお誘いでは、なさそうです、よね?)
胸を締め付けるような緊張が僅かに解かれ、ほっとするものの……尋ねたい事って、何だろう。
「単刀直入に聞きますが、君には
不意を突かれ、ドキリとする。
「君のことを調べさせました。オルデンシアの皇帝の目にとまらなければ、君はグルジア国の王子に嫁いでいたと。それも政略結婚ではなく、互いに望んだ形で」
「そ、それはっ……」
「幸福な婚約していたのに、我が国の皇帝がそれを強引に解消させ、わたしのデルフィナとして宮廷入りさせたのですね?」
「…………」
皇太子はどうして、そんな事をわざわざ調べたりしたのだろう……!?
大切な人の存在をエルティーナに認めさせたところで、今更何になるというのか。
政略結婚を必死で受け入れようとしている相手の心を、遠ざけてしまう事になるかも知れないのに。
「カイル様はそれを知って、どうなさるおつもりですか……。そんな私では、皇太子殿下のデルフィナとして、お役目不足だとでも仰りたいのですか……」
グッと唇を噛み締める。
国のために——この恐ろしい帝国の
愛する人と共に歩む人生を、血の涙を呑んで諦めた。
大好きな人の面影を、今日この時まで必死で消そうとして来たのに。
「わたしにも、大切な人がいます」
カイルのその一言が、エルティーナの意識を
「わたしにとって、生涯に一人きりの
夜風がふたりの頬と髪をかすめていく。
カイルは先ほどと同じ、遠い目をしていた。
「カイル様……」
そんな夢のような話が——通用するのだろうか。
カイルは再び真っ直ぐな強い眼差しをエルティーナに向け、言葉を放った。
「我が国の皇帝に代わり、あなた方への残酷な
「でっ、でも……皇帝陛下のお怒りに触れたら……私達だけでなく、あなただって……!」
カイルはエルティーナの手を取り、彼女の白い手の甲に口づけた。
「わたしを信じてください」
「あっ」
エルティーナの肘がピッチャーを転がし、勢いよく跳ねた水がエルティーナのガウンに飛び散った。
「平気ですか?」
「ご……ごめんなさいっ。お水、かかりませんでしたか?!」
「随分濡れましたね」
「へ、平気です!すぐに脱ぎますからっ……」
濡れそぼるガウンを、焦りの中で勢い良く脱ぎ捨てる。
「…………ッ」
カイルの視線がエルティーナの胸元に注がれて——気がついた。
「きゃあっ!!!」
慌てて目を逸らすカイルと、胸を掻き抱くエルティーナ……微妙な空気感が場に漂う。
「……何も、見てません!」
「カイル様っ、違うんです、私っ、
その言葉を聞いてあからさまに顔を逸らしたカイルが、僅かに頬を染めているではないか。
(よっ、余計な事を言ってしまいました……。これでは私が……今夜
*
自室に戻ったエルティーナは、小さな「箱」を手にしている。
蓋を開ければ宝石が輝きを放つ『婚約の証』が、厳かにその姿を覗かせる。
「また
静かにその箱を閉じ、大切そうに胸に抱く。
『わたしが誓って、皇帝の手から、あなたと、あなたの国をお守りします——…』
恐怖が消えたわけではない。
でも——熱意のこもった力強い皇太子の眼差しを、信じてみたい。
浮かんでは無理に消そうとし続けた
(皇太子殿下……有難うございます)
カイル殿下の大切な人は……
きっと、
カイルとふたりで歩いていても、回廊で頭を下げる
(
別れ際に交わしたカイルの言葉が、心に刺さる。
『互いに
(はい。私も幸せな未来を、信じてみようと思います)
そのために皇太子は——雷鳴が轟く巨大な暗雲の中を突っ切らねばならない。
「殿下、どうかご無事で。その先にある未来に向かって、お互いに進めますように……っ」
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