【幕間】嵐の夜 / カイル視点



黒闇の中を、少年が走っている。

銀色の髪を振り乱し、薄青い瞳を恐怖でいっぱいにして。


走っても走っても闇は続いていて——…

振り返れば黒々とそびえる巨大な塔、足を掬われれば即座に引き込まれてしまう。

遥か向こう側に見える小さな『光』に向かって手を伸ばす。

必死に、精一杯、手がちぎれるほどに手を伸ばす。


けれども『光』はだんだん遠ざかり——…

突然足の感覚が奪われ、絶叫とともに奈落の闇の中に堕ちてゆく。



を見るのは久しぶりだ。

幼い頃は自分の立場を畏れ、悩み苦しみ……何度も同じ悪夢にうなされた。


まだ十歳にも満たなかった自分を皆が「特別」扱いした。

まるで腫れ物に触るように接し、畏れ、誰ひとり心を開く者などいなかった。

 

無理もない、俺が帝国のの後継者だからだ。


怪我や事故を懸念され、皇宮の外に出る事もままならなかった。

八代続いたオルデンシア家——もしも俺の身に何かあればオルデンシア家の歴史は途絶え、後継者を失った帝国の覇権は下位の皇族家に譲り渡すことになる。


物心ついた時から孤独だった。

まだ日が登らないうちに、広すぎる部屋の幼な子には大きすぎるベッドの上で目が覚める——眠れない。

幼心の暗闇には何か得体の知れない存在があるような気がして毎晩のように怯えていた。



——なぜ僕は行っちゃだめなの?僕だって母様と一緒にいたいのにっ


『殿下は妹姫様とは違うのです。帝国の運命と数百万の国民の命を背負って行くご存在なのです』


ある嵐の夜、母の温もりを求めて部屋を抜け出した事がある。

その頃すでに母は温室の先にある離れに妹と共に居住していた。皇宮とは別の場所に母が居る事が当時は不思議だったが、今思えば夫である皇帝を遠ざけての事だろう。


雷鳴の中、心細さと恐怖心に駆られながら濡れそぼる地面を歩けば、足元から水の冷たさとともに底冷えの寒さが立ち上る。


突然閃光に包まれ、豪雨の中ズトン!と大きな音がした。

見遣ればすぐ傍の木が青白い炎に包まれている……落雷だ。


稲妻の余波がビリビリと池のようになった地面を這って来る。震えながら目を向けたその足元に——うごめくがあった。


はもぞもぞと泥の中に穴を作り、小さく丸まった。

見る間に内側から光が沸き立つように輝き出し——は生まれた。

空にくすぶる閃光・轟音と激しい雨の中で、美しい蝶が羽を広げる——気高く堂々と、豪雨と稲妻を恐れる事もなく。


どんなに過酷な環境の中でも、気高く強くあれ。

まるでそう言われているような気がした。


俺は温室という環境を利用して、彼らを育て始めた。

人々から畏れられ忌み嫌っていた自分の能力によって蝶が生まれるあの場所に、心の拠り所を求めるように——。


誰にも見せた事が無かったものを、セリーナには見せたいと思った。

彼女もまた自分と同じで、フレイアという蝶に魅了されているようだったから。


(……それなのに)


喜ばせるつもりが、逆に泣かせてしまった。

彼女の涙の意味はわからない。

良かれと思っての行動が、逆に泣かせてしまうなんて。

冗談のような間抜けさでもいい、彼女には、笑っていて欲しい。


デルフィナを迎えたら——……彼女をまた泣かせてしまうのだろうか?


結婚を拒む事は出来ない。

そしてセリーナは永遠に宮廷に……俺のそばに居るわけではない。


柔らかな羽根が降り積もるように、こうしている間にも愛しさは募って行くというのに。


フォーンの王女は泣いていた。

俺との結婚を嫌がって。


この結婚に意味があるとすれば帝国の勢力の維持と拡大だ。人の心を踏みつけにして築き上げた勢力の上に喜びなんてあるのだろうか。


だが——…


無機質にペンが転がる音、血飛沫と人の肉が焦げるあの厭な匂い。

顔を覆っていた手を額に動かし、乱暴に髪を掻き上げる。


「光を求めれば、奈落に堕ちる……か」


———俺はいったい、どうすればいい?


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