第25話 〈三日月の女神〉からの逃亡(三)
「海へ出まして、あたしたちの旅がはじまりました。
険しい道行きは覚悟の上。それに、あたしもあの酒を飲んでいますから、いつ人形になるか知れたもんじゃありません。でも、気が遠くなると伯爵様が、長いお話を聞かせてくださいました」
「私の身の上話なら、いくらでもあるからね」
「そうねえ」
マーガレットはそれだけ言うと、なるほど、魔力のある酒を飲んでも、術者から遠く離れることができれば作用が不完全になることがあると聞く。
また、既に異国の魔力を身につけていると見受けられた。となれば、いくぶん魔力に抗う力もあると思われる。それで今、お佐登嬢は、人間に戻ったり人形になったり、そんな身体なのだろう。そんなことを考えました。
「伯爵様のお話はたまげることばかりで、くたびれていても目が覚めました」
「そうでしょうね」
D伯爵。
ただのお人とは思われぬ仕草をこれまでみて参りましたが、このお方、今さら何をかくそう、吸血鬼でございます。この土地に古くから住み着いて時おり人の生き血を啜って害をなす妖物です。多くは蝙蝠や狼に姿を変えて、山深きところの古城にひっそりと住まうと知られているようです。
なぜ、都会で人間に紛れて伯爵様とおだてられ暮らしていられるのかと申せば、そこには触れぬがよい事情があるのかもしれません。
そしてマーガレットもただのくず拾いの姉御ではないのです。
隠密に行動している、教会所属の吸血鬼払い。妖物たちの筋からは〈銀の血が流れている〉と、恐れられております。
伯爵は、人間の芸術家や芸人たちを好んでおり、それを愛でる間は人を噛まないと教会に誓約をしているのでした。
その違反がないか、マーガレットは長年監視をしています。それによれば今のところ伯爵は、血を飲めば飲むほどに若々しい美丈夫となる身でありながら、ご覧の通り百年間、ずっとこのお歳を召した姿である。誓約は守られている、と報告されているということです。
「歩いたり、流れに乗ったり、そうするうちだんだん身体が固くなってきて。気がついたら人形になっておりました。
幸い潮がいんぐらんどに向くところまではなんとかたどり着いていましたんで、度胸を決めて天におまかせしたのです」
「そう。こうして秘密を話して打ち解けて、……君のお砂糖菓子ちゃんたちに助けられて、屋敷へ帰ることができたというわけなのですよ。そう、きっと拾っていただけると信じておりました」
「不思議なんですが、お屋敷に来たら、だんだん身体が戻ってきたんです。まだよくわからないんですがね。こうして柔らかくなったり、また固くなったり、不自由で」
「なるほど、大変な旅だったのね。それにしてもいつものことだけれど、伯爵のその〈お砂糖菓子〉という呼び方はやめてほしいわ」
精進中の伯爵には、温かい生身の身体がどのように見えておられるやら。それを思うとぞっとするのです。
「何度も申しているのですが、決してそんな意味ではないのですがねえ。元来私は子供さんが好きなんですよ?」
「とにかく、私の助力が入り用なわけはわかりまし
た」
〈三日月の女神〉号と、招待客、乗組員、芸人たちを取り戻す。
「引き受けて下さいますかね?」
「〈首なし〉とはいつか、誰かがやりあわなければいけない相手。たまたま私に回ってきた。そう思ってお話を聞いていました」
「かたじけなく存じます。姐さん」
「お佐登さん、顔を上げて」
意気揚々とやって来た異国で、お仲間ともどもこんな不幸に見舞われて。
「伯爵も、私どもとの約束をお守りいただけているようですから……ただ、」
伯爵のことはよかろう。
問題は。
「ローランとリリスは、この件はどう考えているのかしら」
「わが主。
わが主は、この通り、私を遊ばせてくださっていますからねえ」
ローランとリリスを〈主〉と呼んだ。
屋敷を取り仕切っている彼らは、伯爵の家令ではないのでしょうか。
「まだ、私はお目通りがかなわないようだけれど」
「まあ、それはそのうちにね」
ローランとリリス。
お佐登も、その二人の顔を存じませんので、黙っております。なにやらこのお二人にも、深いわけがある様子。
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