第24話 〈三日月の女神〉からの逃亡(二)
「おかしいんでさあ、親分、いや、伯爵」
ジムは、あたしよりもちびすけでしたが、食後の甘いものを任されているということで、なかなかの腕前をもっているのです。
「みんな、姿が見えなくなったんでさあ」
「そのようだね。それで、私もこうしてこのご令嬢と様子を見ていたのだがね」
「伯爵様と、日本のお嬢さん、あなた方のご無事なお姿を見られてよかった。料理長も、兄貴たちも、どうしちまったんだろう。身体の塩梅がへんだ、と言ってみんな、」
あたしはそこで思い出しました。
最初の乾杯。
船員一同も招かれていたのです。
厨房の兄さんたちから、お部屋付きの小間使い、掃除番や、洗濯番から、みなみなさんです。
「あれ」
ジムの様子がおかしくなりました。
「なんだか、頭がぼうっとする」
「ジム」
伯爵様、足がもつれたジムをお支えになります。
「君も、乾杯の座にいたね。私の大切な〈三日月の女神〉の砂糖菓子たち。大切な仲間だからと、呼んでいたのに!」
あたしは、そのご様子を見て、たまらなくなりました。伯爵様とジムの間柄は、あたしたち一座のような、強いつながりなのでしょう。
そして実はあたしもその時、ぼうっとしかけていたんです。
けれど、振り切りました。
親方と姐さんは、そこを振り絞ってあたしに呼びかけて下すったんですから。その心を思えば、このくらい。
「親方が逃げろ、って。そんな。どこへ逃げれば」
船が揺れました。嵐は激しくなっています。
嵐。
そうだ。嵐をおそれている時ではないのです。
「伯爵。あっしの身体はどこからどこまでぼんやりしてきたみたいだ。兄貴たちもこんなだった。そして、消えちまった。
逃げる、と言ったかい、お嬢さん?」
「あたしの一座も、ジムさんのお仲間と同じなんだ。いなくなって、」
人形にされちまった。そこはなぜか言えませんでした。
「どうも、あっしはいけないらしい。伯爵様を頼みます。捨て子のあっしをここまでにして下すった恩人なんだ。
伯爵。どうかお姿を変えて、そうだ、あれだ、」
ジムが指差した先には。
びいどろでできた、大きな壺です。
「果物の砂糖漬けを入れる大瓶でさあ。栓もかたくて水は入らない。あのくらいの寸法なら、伯爵様、」
「わかった。わかったよ、ジム」
苦しそうなジムの言葉をさえぎりますと、ジムはにこり、と笑って、姿かたちが薄くなり、見えなくなりました。今ごろ人形になって、こしらえものの〈三日月の女神〉号の炊事場にいるのでしょう。
「私の砂糖菓子たちまで……」
伯爵様のご無念、あたしにもよくわかりました。
そこでまた、ひとつの決心ができたのです。
「伯爵様。ジムはどうしてあのびいどろの壺を?」
「……私は、霧になれる」
大蝙蝠。狼。そして霧。
尋常のお身体ではないことがわかりましたが、今は仔細は問いますまい。
「わかりました。霧におなりなさって、あの壺にお隠れになるということですね。それで船の中が穏やかになるまで〈首なし〉を出し抜けば。そうしておくんなさい。
あたしはあたしで、ひとつ思案があります」
「どうすると言うのかね」
「あたしは、こちらの土地の神様に嫌われる、異国の邪法を身に付けた者」
〈天狗の抜け穴〉は、あたしの妖術の師匠、〈大鴉〉という通り名の、その正体は烏天狗の兄貴分から伝授されたものなのです。
師匠によれば、欧州の神様はよその小さな土地神様の力を邪法としてお嫌いなさるということでした。
「あたしはこちらの川にも海にも嫌われる。だから、船に何かあっても、弾かれて沈むことはない。ふだんは芸事のほかは目立たぬように。ただし、何かあった時には十分働いて、みなをお助けするように。それならお目こぼしもあろう。そう言いつけられて国を出てきました。
ここはドーバー海峡。いんぐらんどか、ふらんすか、どちらかへ歩いて参れば、どなたか助太刀をお頼みして、人形にされた仲間やみなさんを、お助けする道もあるかもしれない」
「お佐登くん」
すると伯爵、こうおっしゃいます。
「私もともに行こう。助太刀には、心当たりがある」
いんぐらんどを目指そう。そう決まりました。
* *
「南無三!」
稚児髷の娘綱渡りが風呂敷包みを背負って〈三日月の女神〉号から海へ飛び出したのは、それから半時もしないうちでした。
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