第10話 窓のない部屋(三)
男の子たちの様子を見にいったマーガレット姐さんは舌打ちをひとつして、それぞれの襟やシャツの裾を直してやります。
「せっかく着付けていただいたのに。だらしなく崩さない」
ようやく身につけることができた憧れの衣服。折り目正しい着方が最も見映えがするようで、まだまだ無学なトムも、実に行儀がよく見えてくるのでした。
さて、実に日頃多くの親切を受けているD伯爵ですが、さきに申した通り、そのお顔を子供たちは存じません。
それがこれから、とうとうお目通りがかなうというではありませんか。
「ブローチは付けたかい」
姐さんはあらためて、一人残らず念を押すのです。
「ジャック」
「だって」
兄さんたちが付けてくれず、ポケットにしまいこんでいたのでした。
「いいと言うまで、外すんじゃないよ」
伯爵さまは、そうしたことにやかましいのだろうか。
子供たちはそう考えて、ならば仕方がないと得心するのでした。でなけりゃ、姐さんはこんな剣幕にはなりません。
* *
数多い伯爵の家令のうち、そのにこりともせぬ男は若い見た目をしておりました。
社交界に姿を見せようものなら、さぞや貴婦人がたのうわさにもなろうという美貌ですが、人前にはけして姿を出さず、そう、マーガレットと子供たちとも対面したことがありません。
マーガレットたちが昨日、人形と瓶とを持って意気揚々と屋敷を訪れたときに、この男はそのさまを物陰からものも言わず見つめておりました。
そして、あれこれとひとことふたこと、使用人たちに指図をすると、たちまち褒美の品と、ご馳走とが整ったのですが、彼は決しておもてには出て参らなかったのでした。
その部屋には窓がありません。淀んだ空気は病のもとだとされていますが、そんな場所に今、男はおります。
部屋の中央に、黒檀の広く大きな台があり、普段はそれきり何もないこの場所ですが、本日はその台の上に見覚えあるものが置かれていました。
あの人形が抱えていた硝子瓶です。すっかり汚れをおとされ、光をたたえています。
そうして見ていると、面妖なことに気づくのでした。
子供たちには空瓶と思われていましたが、こうして泥や砂を落とし、磨いてみれば、中には白いもやのようなものが漂って見えるのです。
「リリス」
呼びつけられあらわれた、リリスと呼ばれた小間使い。男と並べば、なんと、まるで同じ顔をしております。一対の人形かとも思われる、これまた美しいかたちです。
このリリスも、決して人前には出ずに用を勤める者でした。
「ようやくお戻りあそばされた」
「喜ばしきことでございます」
「支度を」
リリスが古い手文庫を開けますと、中にはろうそくとナイフ、薬瓶、清潔な包帯とナプキンなどが揃えられております。
そして、慣れた手付きでろうそくを立て火を灯し、ナイフを二本、その火で丁寧にあぶります。
「旦那様、ローランとリリスが参りました」
その間、男は空き瓶に涼しい声で言葉をかけます。
「もう、十分に御休みになられたことかと存じます。いよいよお時間となりますので、お目覚めくださいませ。
まったく、いつものご酔狂が、かわいらしい子供たちにも迷惑をかけてしまいましたよ。けれど、これで念願の対面がかなうと、のんきにお考えなのでしょうね。
そう、マルグリットもいっしょですから、わたくしどもとしても間違いが起こる心配はありません。ことがあれば、彼女が子供たちを守り、よからぬものを片付けてくれましょう。……そう、ひさかたぶりに片付けられぬよう用心せねばなりません」
「お兄様」
リリスが支度を終えた、と、申しました。
「始めよう」
男はローランという名らしい。子供たちにはびくともしなかった硝子瓶の蓋を、やすやすと外します。
リリスはローランにナイフを一本手渡し、自分も一本構えます。
ローランはまずナイフで左手の平を一度、まっすぐに引きました。
たちまちに滲み、流れる赤い血のしずくを一滴、硝子瓶に落とします。
続けてリリスも、同様の手順で、一滴を硝子瓶に落としました。
ふたりはナプキンで軽く押さえ血をぬぐい、硝子瓶に起こることを見守っています。
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