7-28 溶けこんだ夜


 やりたいこと、これからしたいことを遂げられずに死ぬことを、困ったような微笑で扱ってしまうアレクサンドラにどう切り返せばいいのか。思わず声を荒げてしまった俺は分からなかった。


 俺と彼女の間で致命的に「何か」の有無の差があるのだと察した。この何かは、俺がこの世界の住人に対して常日頃抱いてきたものでもある。

 ジョーラも似たような諦念はあった。だが、ジョーラだって結局は生きたがってたじゃないか……。


 アレクサンドラと俺との決定的な差。


 彼女はこの世界の住人であり、俺は別の世界の住人であること。そして。彼女は戦いのある世界の住人であり、俺は戦いのない世界ないし国の住人であること。

 いざ戦いの話になったら――それかまた精神的な部分においても――どちらが「大人」であるかなんて論議するまでもない。


 俺は単なるビジネスマンだ。自衛隊や警察官、消防士の類ではない。俺に訪れたいくつかの不幸は確かに俺を強くしたし、フィッタでは俺も悪人たちを成敗したが、しょせん付け焼刃だ。

 肉体的疲労と苦痛を耐えながら幾多のひどい傷や人の死を目の当たりにしながら、武器を振るって害敵を始末してきたであろう人間ではない。アレクサンドラのキャリアには敵わない。銃撃戦が行われている世界ならまだいくらか議論の余地はあっただろうが……。


 分かっている。「やりたいこと」だなんて、山賊がいて魔物がいて、自衛しなければならないこの世界で生きてきたアレクサンドラにとって現代が生んだ甘言以上の何物でもない。

 それでもだ。彼女の諦念が兵士という職業の1つの職業病的なものだとしても、死ぬことは本懐ではない。あっていいわけがない。わざわざこの世界では多々持て余している現代観を持ち出さなくとも、死ぬことは全ての終わりだ。無だ。


 アバンストさんが好きだという剣客の言葉が脳裏をよぎる。抗うのが、人だろ? 無は、怖いだろ……?


「それでダイチ殿は……これからセティシアに向かい、アマリアの軍勢に対峙して、勝機があるのですか? たった一人で立ち向かって」


 力説する勢いをすっかり失ってしまった俺は、あるよ、と座りながら無気力気味に返した。

 アレクサンドラは「ダイチ殿はアマリア軍の力量を知っていますか?」と次いで質問してくる。


 力量?


 あの時の補助込みのジョーラを相手にするようなものだろ。距離も取れる。それに俺の速さに奴らは追い付けないはずだ。防御魔法だってある。

 だいたいジョーラに苦戦したのは気配を完全に消した幻影魔法の影響が大きい。幻影魔法はダークエルフが得意と聞く。つまり、ダークエルフでないならなんとかなるということだ。ダークエルフは未だに街中で1人も見ていない。


 だが、とっさに説明する言葉が出なかった。俺が「赤竜ジル」や「ジョーラ」というワードないし経験を抜きにしてアレクサンドラに語れる俺と彼らとの明確な力量差の論証をひねりだせなかった。


 そりゃそうだ。


 俺がちょっと実力のある人族だとして、一般兵士であるアレクサンドラを相手に、何十何百いるか分からない軍勢を相手に勝機の算出など出来るわけがない。

 この辺を真面目に考えずに、旅人だの異国の出だのでごまかしつつ、流れに身を任せてきたのもあるが……。


 この瞬間の間を、アレクサンドラは俺が知らないと判断したらしかった。


「<黎明の七騎士>は七星や七影と同じようにアマリアの精鋭部隊で、隊長格こそ同程度の力量を持っていると考えられますが、部隊の人数が違います。七星や七影は20人に満たない程度ですが、七騎士は最低でも30人はいます。七星と七影の2つの派閥に分かれていない分、個々が精強なのです。……くわえて治療師ヒーラーの存在を忘れてはなりません。アマリア軍がもっとも優れているとされるのは、治療師の力量です。多少手傷を負わせたくらいではすぐに回復してきます。腕を落としても、次の日には腕が復活していたこともあったそうです」

「……ゾンビかよ」


 ゾンビ? と質問してきたので、不死者のことだよと説明するとアレクサンドラは納得したようで頷いた。


「確かにアマリア軍を不死者のように形容することはありますね。もっとも腕を復活させるほどの治療が出来る者は限られますし、戦場ではそうそうできないでしょうけど。……魔導士も多いでしょうし、ホムンクルス兵も厄介です。彼らは多少の手傷を負ったくらいではひるみませんから」


 ホムンクルスがいるのか……。いや、《魔力装》を伸ばして薙ぐだけなんだから問題ない。だいたい……おそらく、アナの例を見るに、彼らは俺と違ってロボット兵士のようなものだ。きっと、命令に沿って動いてるだけだ。俺の仲間じゃない。


「熟練の魔導士ほどではありませんが、彼らは魔法適正も高いので、柔軟に対応してきます。うちの団員の魔法では足止めにもならないかもしれません。……七騎士の他にも応援部隊はあるでしょう。弓兵が手練れだったように、その部隊の詳細は未知であると言う他ありません。……ダイチ殿はそのような者たちのいる混成部隊に一人で立ち向かって、……勝機があると?」


 アレクサンドラが今度は不安そうに訊ねてきた。俺はあるよと答えたが、実際あるのに、馬鹿げた話のように思えてきた。アレクサンドラの話の方が誰が聞いても正論だろう。筋も通っている。

 でもフィッタへ行った時だって、後先考えずに突っ込んで俺は無事だったじゃないか?


 アレクサンドラは俺のことをじっと見ていたが、やがてゆっくりと視線を落とした。


「違うとは思いたいですが……敵将を討つことだけを考えていませんか?」


 え? ……ああ、敵将だけを討ってあとは死んでもいいってことか? まあ、それだけなら比較的現実的な落としどころかもしれない。俺がもう少し現実的な力を持った人物だったとしても、敵将の元にそう簡単にたどり着けるとは思えないが。


「……そんなことないよ。ちゃんと生還することも考えてる」


 実際は大した計画はないけどね。逃げるだけだ。全速力で。それでもじゅうぶんなのだ、俺は。


「あなたが無事に生還する可能性は……?」


 まるで納得できないようで、アレクサンドラは再びおずおずとそう訊ねてくる。

 眼差しの不安は色濃くなり、明らかに俺の身を案じている調子だ。俺の身というか、もはや精神状態か? アレクサンドラの尺度からしたら分からなくもないけどな……。


「フィッタでも無事だったよ」

「フィッタでは相手は山賊でした。彼らは必ずしも万全な武装をしていたわけではありません。そもそも……山賊というものは隊列も大して組みませんし、教官もいません。訓練も積んでないので個々の練度も違います。個人戦ならともかく、個々の力量や動き方、忍耐力に差がありすぎると戦いはうまくいきません……」


 確かにその通りだろうと思った。さすがプロだ。思わず内心でうなりつつ俺は何も言えなくなる。


 でも……やはり、おそらく変わらないように思った、何も。鎧を着込んだ兵士も他の奴らと大して大差なく俺は分断した。

 武器のリーチも、運動能力も、俺は人外の域だ。俺が近づくのを察知するか、事前に何かしらを準備していないと対処は無理だろう。セティシア軍と戦ったことはないのでそれはまずない。


 頭一つ抜けた個であるホイツフェラー氏やヴィクトルさんや、ジョーラの見解が気になった。

 アレクサンドラが不安がっているように、一般的な見地によって身を案じてきた人はいたんじゃないか。そういう時、相手をどう説き伏せたのだろう。もちろん俺たちほどの実力差はなかっただろうが。


「<金の黎明>の隊長であるバウナー・メルデ・ハリッシュは、人類最強の剣士と評されることもある剣士です」

「……そこまで??」


 アレクサンドラが神妙に頷いた。確かにその古竜の血を飲んだらしい隊長のことはみんな気にしていたけども。

 最強というと近しいのもあるがジョーラが浮かぶ。ジョーラはレベル70だけど……


「レベルは? 75くらい?」

「分かりませんが……60はあるでしょうね、確実に。でも、彼が脅威なのは古竜の血の影響で人族でありながら亜人以上の身体能力を有していることです。毒も効かないそうですし、魔法への耐性も高いそうです。剣術もどちらかといえばパワータイプだそうですが、剣聖セイバーのアインハード様と張り合うくらいだそうです」


 アインハードは隊長なのだろう。人類最強の評価は伊達ではないものらしい。


「バウナー・メルデ・ハリッシュが隊長を降りた理由は定かではありませんが……彼の後釜が容易な相手であるわけがありません」


 そうだろうな。


 でも、やっぱりそんなに脅威には感じない。俺の認識が甘かったと思わされるかもしれないが、普通に剣を振ってくる相手には負ける気はしない。魔道士でもそうだろう。普通に魔法を使ってくる分には対処は出来る気がする。

 ジョーラの相手は確かにそれなりに大変だった。でも気配を完全に断ってきた《隠滅エラス》や《陽炎ラベス》があってこそだ。それにジョーラほどの敏捷性をバウナーが持っているかというと、少し疑問が残る。ジョーラの速さは七星でも随一と聞いている。バウナーが人類最強といえども、素早さは同格程度だろうと想像する。


 俺が警戒すべきなのは幻影魔法のような読み合いを拒む類の魔法だ。禁じ手的な戦法はさすがにきつい。だが、幻影魔法の使い手は一部の魔法以外では、基本的にダークエルフだと聞いている。

 あのエルフ男の物理的に行き場をなくす戦い方も悪い戦法ではないように思う。でも、あれは狭く、魔素マナも多かった赤斧休憩所だからこそできた戦法らしかったし、市街戦であのような建物は見かけはしないだろうし、魔素も薄いだろう。勝ち負けはともかくとして、防御魔法も今回は張れるし、死ぬ気はしない。俺の防御魔法は七竜のインよりも上なんだぞ、アレクサンドラ?


「私はあなたほど強くありません……なのであなたが生還できるとは全く思えないのです」


 不安を煽る目は、もはや俺に訪れるであろう死期を信じて疑わないものらしかった。

 心のうちにある説明ができないのをもどかしく感じつつも、俺はそんなに死にそうな奴の言動をしているだろうか、と思う。……ああ、怒鳴ったしな。説得力ないか。


 納得しつつ、でもそんな中で、アレクサンドラのいくらか柔らかくなった声音などから、雲行きが変わってくる気配も俺は感じ取った。


 俺の方も、俺のことを心配しているしおらしい彼女のことをそのままにしておくのが名案のように思えてきた。

 別にアレクサンドラのことは嫌いではない。むしろ、好意すらある。まだ片付いていない問題は多いが、俺が「しっかり男性だった」ことは確認済みだ。なら、……一歩先に進んでみてもいいんじゃないか?


 打算と甘い囁きが俺の中でにわかに騒ぎだしてくる。実際問題、察するに、確かに彼女の不安を解消できる術の1つでもあっただろうし、俺を引き留める術でもあっただろう。

 アレクサンドラが部屋に来たことがそこまで計算されての行動かどうかは正直分からない。どちらかと言えばないように思うし、そう願いたい部分はないといえば嘘になる。


「団長やベンツェの仇討ちのために死なないでください……私は……あなたが大事なんです」


 ちらりと目線をあげて見てみると、青い目は消え入りそうな不安を含ませつつ、懇願するように俺のことをじっと見ていた。


 大事……。やはり、そういう流れだったか?


 いつ彼女の中でこんなに俺への距離が縮まっただろうかとふと思い、赤斧休憩所では自分から迫っていたのを思い出した。アレクサンドラは特に怒ってはいなかった……。

 あれは意図していたものではなかった。俺は外国人の女性とは英会話のレッスンや仕事上の付き合いはあっても、交際の経験はない。でも、年頃の女性ではアレクサンドラが一番近い存在だったのも事実だ。


 あのあとは俺だってアレクサンドラを女性として意識しなかったわけじゃない。

 でも、甘い香りを急にいつも通りのレベルに感じなくなったのもあるが、他にやることや考えることが多すぎた。あんな状況でも情欲の類もしっかりあったドルボイさんや一部の兵士からはある種のたくましさを感じたが、フィッタは本当に萎えることばかりだった……。


 衣擦れと鎧の擦れる音がした。俺の手に、近寄ってきたアレクサンドラの手が重なる。手袋に覆われた手は意外と大きくなかった。


 見れば、アレクサンドラの顔がずいぶん近くにあった。赤斧休憩所よりは明るいが、蝋燭の灯りだけの心もとない薄暗い部屋が、もう演出以上の何物でもないように思えた。

 いくらか冷静さを持っている俺の精神とは裏腹に、肉体の方は動悸が少しずつ激しくなっていく。そうしてやがて。俺のことだけを捉える青い目からももう目が離せなくなっていた。


 俺のことをまっすぐに見つめてくる2つの魅力的な青い瞳にはもう不安はないように見えた。あるのは安心とわずかにうかがえそうな確信だった。

 彼女は、“被害を受けた”側として休憩所での現在の俺の若い衝動の存在を信じて疑わないようで、俺もまた、もはや俺の若い衝動を信じて行動を起こそうとしている彼女を受け入れていた。


 “大人の俺”にしてももうそうだ。


 それでも俺から行動を起こせないのは、外国人女性との経験の無さ、この世界の彼女たちの性体験への無知さ、自分からいくよりも受けから入った方がうまくいったという俺の経験則、そして大きいのはやはり、俺自身が抱えるホムンクルスと八竜絡みの諸問題の不安からだ。


「団長や他の団員の後を追って死なないでください……私はあなたを失いたくありません」


 そんなことしないよ、と言おうとしたが、ゆっくりとアレクサンドラは顔を近づけてきて、唇で塞がれる。拒むつもりもなかったが、首にも手を回された。

 ただ押し付けるだけの拙くて不慣れだが、誠実な愛情のこもったキスだった。剣という道を選んだ気丈な女剣士らしくこの手のことに不慣れなことを察しつつも、愛おしさも募ってくる。やがて唇を離される。


 アレクサンドラは切ない息を小さく吐いた。目が合う。つい彼女の可愛らしい様子に微笑がこぼれる。少し困ったような表情を彼女が見せたのもつかの間、また俺は唇を塞がれた。


 気にはしていた一方であまり覚えていないアレクサンドラの唇の感触と唾液の味と、感化されたのか段々と切なくもなってくる息苦しさを味わわされながら、デレックさんとウィルマさんのキスシーンが脳裏によぎった。

 あの時アレクサンドラは2人のことをガン見していた。当然だろうが、2人のキスは情熱さがあり、手慣れたものだった。このキスを見るに、あれを見た学びをすぐに生かせてはいないようだったが、もし処女だったら申し訳ないという気持ちが少し湧いてくる。理由はぱっと浮かんでこない。……ああ、もう30だしな。


 そうして俺の頬には手が添えられる。彼女の言葉のままに大事にされている感があってよかった。情欲に支配されておらず、だからこそ「真なるもの」が自分に向けられている気がして。


 まもなくこみあげてきた歓喜の感情と熱にうかされた興奮のままにむさぼりたくなるが、彼女のことを大切にしたくもなってきた俺はそれには従わずにゆっくりと唇で唇を挟むようなキスをときおり挟んだ。同じように返される。何度か繰り返した後に見てみれば、アレクサンドラは半ば上目遣いで恥ずかしそうにしていた。

 主導権を握ったかと思いきや、恥ずかしさからかもしれないが意外と積極的なようで、アレクサンドラは俺に考える暇を与えてはくれない。……そういえば“俺は彼女よりも年下”だった。


 さきほどしたキスよりも段々と唇を重ねる時間が長くなっていく。時間を忘れ、これからするはずだった報復の予定も忘れてしまい。自分の感覚や神経が合わさり、向かう先は1つだった。彼女の虜になっていくのが分かった。


 ――唇を離される。再び再会した青い目は半ばぼんやりとしていて、潤んでいた。

 やがてアレクサンドラは意識を取り戻したかのように大きくさせた目で俺のことに気付くと、視線を落とした。


「実は……初めに会った頃、弟のように思っていました」


 単純化してあまりまとまらなくなってきた思考の中で、そうだろうなと思う。今は違うのか?


「ですが……」

「ですが……?」


 アレクサンドラが抱きついてくる。手を回してきたので、俺もそうした。鎧のせいか汗と鉄のにおいがありつつも、甘い香りがふわりと舞った。フィッタにいた頃に悩まされたものとは全く違った。安心感もあるやさしい香りだった。

 間に硬い鎧があるのが気になりすぎて困ったが、背中に触れた手が彼女のすべては俺の中にしっかりと収まったことを教えてくれた。言いようもない充実感と幸福感が俺を満たしてくる。


「今では年上の男性のように思うことが多いです。不思議と……」


 鋭い。声を荒げていたさっきはそれほどでもなかったんじゃないかと思いつつも愉快だった。涙腺が少し刺激されたが、我慢した。

 思わず笑みをこぼしていると、アレクサンドラは俺に顔を見せてきて、微笑してきた。今度は俺が口を塞いだ――


>称号「童貞卒業」を獲得しました。

>称号「女の悦ばせ方を知っている」を獲得しました。


 ・


 ……目が覚めると、違和感を覚えた。


 体が動かない。無理に動かそうとすると、倦怠感がある。


 倦怠感といっても色々とある。


 残業後に帰宅したあとや、風邪などの病気を患ってしまったときの肉体的な疲労の強い倦怠感。病気やうんざりする人と関わった疲労または、喪失感や絶望感に伴う精神的な倦怠感。そして、ベッドの上で女性とそれなりに燃えたあとの肉体的疲労感と精神的満足感の伴う倦怠感など。


 でも、今の俺の症状はどれとも違うようだった。ひと眠りしたこともあるだろうが、肉体的な疲労感はないし、満足感もすっかりなくなっていた。

 ただ、体が重たかった。腕を上げるのにもものすごい力が必要なようで、ひどい倦怠感が伴っていた。力に関しては俺は怪力だ。でも、ほとんど何もできなかった。力を失っていた。


 いや、正確には力を失ったわけではない気がする。さながら……腕を動かすための神経が一気になくなってしまったかのようだった。残った細い神経に、当然ながら、ひどい負担がかかっているようだった。


 五感があるのはいいのだが……どうやっても体がほとんど動かないのは不安以外の何物でもなかった。


 2回ほどだが、いわゆる金縛りというやつを俺は経験したことがある。最後に経験したものは冷や汗をかいたものだが、今の状況は断じて金縛りではない……。


 横ではアレクサンドラが寝息を立てている。少しだけ口が開き、薄い色の前髪がいくらか顔に落ち、可愛らしい寝顔を見せている。

 多少は気持ちが安らいだ。でもすぐに俺の体に今起こっている現状をどうにかして欲しいと願った。さすがに声をかけて起こそうとは思わなかったけど。情けないから。


 やがて唐突にそれらしい1つの仮説――1つの不安が沸いてきた。それは、「これから訪れるかもしれない死」への不安だ。

 俺はまだ死に繋がるような大病ないし怪我の経験はなかった。俺の死への不安は、現代病でもある胃腸の途方もない痛みを経験したことによるものだ。


 だから痛みがない現状は、死の不安との繋がりはないと言えるのだが、……俺の生死を分かつのは、魔力だ。ホムンクルスである俺は、魔力がなくなれば死んでしまう。


 どのような過程を経て死に至るのかの具体的なことは聞いてはいないのだが……今日はインから魔力供給を受けていない。代わりに横にいるのはアレクサンドラだ。

 転生して以来、こうして普通に女性と寝れるとは思っていなかったので夢中になって「ただの男性」になって忘れていたが、インは戻ってこなかった。念話もなければ、顔も見せなかった。きっと気遣ったのだとは思うし、こういう状態になってしまって申し訳ないとも思うが……


 俺は頭の中でインの名前を呼んだ。何度も。何度も。


 だが、返答はなかった。脳内では、腰に両手をやったインがいつもの自身満々な態度で立っているだけで、空しくインの名前が連呼されるだけだった。不安に押しつぶされそうになりながら、念話の一方通行の仕様を恨んだ。


 死ぬならせめて、アレクサンドラを抱きながら死にたい、という実にありふれた気弱な考えが湧き起こる。……でも態勢は変えられそうになかった。アレクサンドラも安らかな寝息を立てるばかりだ。

 起こしたくはない。不安にもさせたくない。俺のホムンクルスであるという現状はとてもじゃないが、言えない。いまさらながら、人間として彼女とこういう関係になれなかったことを後悔した。事実を知って、彼女の方が後悔するかもしれないという考えに至る。泣きそうだ。


 俺はゆっくりを息を整えながら、仕方なく目をつぶった。

 どうか、このまますべてが終わりませんように……――

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