7-11 とあるはぐれゴブリンの半生
朝起きて、インが呼びに行った姉妹により髪を整えられていると、ベルナートさんとアレクサンドラが訪ねてきた。
2人の仕事の1つになってしまっているし、作業をやめさせるのもあれに思ったのでそのまま招き入れたんだが……ベルナートさんはあまり変化はなかったが、アレクサンドラは俺たちを見ると頬を緩めた。
昨日も甲斐甲斐しくインの世話を焼いていたし、牛肉をインの口に放ったらニコニコしていたので萌えポイントに関しては納得だが、そういや身内以外に見せるの初めてか? これ。恥ずかしくなってきた。貴族たちにとっては日常なんだろうけども。
「アレクサとちょっと出てくるよ。聞いてると思うけど、ベイアーはいるから、朝食を取るなら連れていきなよ」
「分かりました。警戒戦までには戻るんですか?」
一応今日の警戒戦は「昼頃」とは聞いている。それ以上でもそれ以下でもない。アバウトだ。
ちなみにバーニーさんの“厩舎待機”には結局間に合わなかった。すみません~~。でも帰ってもらったの6時くらいって言うからなぁ。俺起きたのたぶん9時頃。これがデフォ。
「うん、それまでには。俺たちは1時間くらいかな。俺たちが戻って、朝食も食べ終えて、装備に着替えたら行こうか」
「了解です」
何しに行くんだろ。
「ちなみに何しに行くんです?」
「ん? まあ、ちょっとここの詰め所に行ったり色々とね。騎士団の活動の一環だよ」
そう言って、ベルナートさんはアレクサンドラと目くばせする。アレクサンドラも頷いてきた。
なるほど。ここの人手が足りてるかどうかとか、警備の状況を聞いたりとか、やることは色々あるんだろう。警備って確かに、隣の地区の状況把握も仕事のうちだろうしな。
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ。……ん?」
ベルナートさんは部屋に入らないまま俺と会話していたんだが、廊下になにかあるようだ。
さっきから複数人の足音がやってきているのは知っていたが、知り合いか?
「ダイチ君はいますか?」
ああ、デレックさんか。いますよと、代わりにベルナートさんが答える。
「ダイチ君。外交長官がお見えだよ」
え。外交長官っていうと、俺が知ってるのはミラーさんだけだが……
想像通り、オシャレに着飾ったゴブリンが廊下から顔を出してきた。
メイホーを出る時と同じく、清潔そうな白いシャツに刺繍入りの黒いベスト、頭にはハンチング帽子のような帽子をかぶって、胸にはバッジまでもつけてしまったヒエラルキーの上位にいるゴブリンだ。
そしてなんといっても、彼にはゴブリンらしい粗野で汚らしい要素が一切ない。鼻はそんなに高くないが、横に長い耳やわさび色の肌、くりりとした黄色い目などはお馴染みだ。満腹処のメスゴブリンもそうだったけども。
彼は俺に向けてニコリとした。
「こんにちは。ダイチさん」
「お久しぶりですね、ミラーさん! どうしたんですか?」
つい立ち上がって、ミラーさんのところまで行ってしまう。昨日はガンリルさんと再会したばかりなのに、嬉しい再会が続くな。
と、後ろにデレックさん以外に見慣れない男性がいた。ちょっと怖い顔の男性だ。平らな眉と青色の目との間がかなり狭く、眉毛も薄茶色でもあるので眉なしにも見える。廊下は薄暗いのでマジで怖い。
だが、着ているものはミラーさん同様に高そうな代物だ。秘書とかだろうかと思っていると、腰には2本の立派な長剣が下がっていた。気付けば服の下には鎖帷子を着ているものらしい。護衛の色が強いらしいが、そういえばメイホーでこの人は見かけなかったな。
「すみません、お知らせもせずに突然来てしまって。ティルマンからダイチさんらしき方々がこの宿に泊まっていると聞いたものですから」
ティルマンさんが部下っぽい感じか。たまたまとはいえ、ウィンフリートのことと言い、世間は狭い。俺たち一行が特徴あるっていうのもあるんだろうけど。特徴あることで色々と悩んできたが、こういう時は役得だ。
「いえいえ。再会できて嬉しいですよ」
「久しぶりだのう。ミラーよ」
インもやってきていつものように気さくに挨拶をする。インの中には相変わらずヒエラルキーというものが存在していないらしいが、王がジルに平伏していたし、今は以前よりも納得ができる。相手が七竜だと分かってないのが痛いけど。姉妹は後ろで軽く頭を下げた。
ミラーさんは左胸に手を当てて軽く礼をした。後ろの男性も滞りなく続いた。忠実らしい。イン相手だと少しくらい戸惑ったりするのが普通だろうしな。
「イン殿もお久しぶりです。その節はお世話になりました」
「うむ。はぐれはどうなった?」
「幸いにも……銀竜様の祠に向かう街道で、狼に噛まれて倒れているゴブリンが見つかりました。持っていた矢があの時の矢と同じような形をしていたので、おそらく彼なのではと見ています」
「ほう」
見つかったのか。
「その後彼ははぐれであることが分かり、<診断者>たちからも社会に出るには問題ないと診断されました。ただ、1ヵ月ほど拘留して様子を見るそうです」
俺がメイホーにいた頃、はぐれゴブリンがニーアちゃんに向けて矢を放ってくるという事件があった。
その矢の矢尻はおにぎりのような形をしていて殺傷力は皆無だった。結局、俺が防いで難を逃れたわけだが、頭に当たっていれば事だったということで、メイホーに滞在していたミラーさんは同じゴブリンとして責任を感じていたのだ。
「私も一度面会したのですが、ただ……彼が我々の社会に溶け込めるかはまだ分かりません。乱暴は働く様子はなかったのですが、あの事件の当事者かどうかの質問にも答えませんでした。どうも処刑されるのを恐れていると言いますか……色々とひどく疑っている様子で。今回は我々の方から保護した形でしたからね」
そういや一応傷害事件起こしてたんだったか。速攻処刑されるのもどうかと思うけど、メイホーはほんといい村だな。
「そうか。まあ、ゴブリンなら面倒見るのも容易かろう」
「ええ」
昨日の今日だったからか、インにはちょっと真に受けている様子があるようだ。
魔物と人の子が一緒に生活することは珍奇などと言っていたものだが、一緒に生活すること自体にインは否定的な見解を持っているんだろうか。千年も生きていれば色々と見てきているだろうからな。
じゃあ、俺たちはそろそろ行くよ、と言ってベルナートさんたちが少し騒がしくなった廊下から離れていく。デレックさんはそのままだったが、秘書っぽい男性が君も行きなさい、と言うと階下に降りていった。なかなか美声だった。
「これから食堂で食事をしようと思っていましたが、ご一緒しますか?」
ちょっと長話をするだろうと踏んでそう切り出してみたところ、向かいのドアの1つが開いた。
ベイアーだ。胸当てと腕当てだけだが、既に鎧を着ている。
「おや。君は東門の……ベイアー殿」
「ミラー長官。……ダイチ殿とお知り合いで?」
はい、そうですが、とミラーさんがちらりと俺のことを見てくる。
ミラーさんとベイアーは知り合いだったようだ。ミラーさんは元々ケプラの人だって言うし、ベイアーも東門の兵士だし、不思議なことじゃない。むしろ俺が意外か。
「私たちも早朝に干し肉とパンを軽く食べただけなので。是非ご一緒しましょう」
「あ、はい。ベイアーさんも」
ミラーさんが「ええ、もちろん」と、ニコリとする。ベイアーのことは割と好意的に思ってる感じだろうか?
「ベイアーさんは朝食べました?」
「俺もちゃんとしたのはまだです。お付き合いしますよ」
というわけで、俺たちは準備もそこそこに昨夜と同じく、階下の食堂に行くことにした。
◇
「――なるほど。ダイチ殿が、その矢を受け止めたと」
ベイアーがアゴを数回動かしながら、俺のことを見てくる。さほど驚いている風もなく、納得している様子だ。
牛突槍やらトリプル魔法陣やら、レッドアイ両断やら。昨日オランドル隊長に会った頃からすると慣れた挙動だろう。早い慣れだが、一応一緒に戦った仲でもあるしね。
「そうなんですよ。さっと動いて、手をあげたかと思うと、その手の中に矢が入ってきたそうです。まるでその矢の軌道が分かっていたとばかりに」
実際にわかっていたからなぁ、あの頃は。
ミラーさんがわさび色の手をさっと上げてそう続ける。「まるで」のところを誇張していた。
こちらは明らかに誇っているというか、楽しげだ。背丈的にはミラーさんはインとどっこいどっこいなのもあってちょっと子供っぽいはしゃぎようにも見えるが、なにはともあれ恥ずかしい。ニーアちゃんから聞いたんだろうが、ニーアちゃんそこまでちゃんと見てたのか?
「私も聞いてはいましたが……正直言ってまだ信じられません。彼がそのような卓越した武術家であるとは」
と、怖い顔の秘書――ヘンリーさんが俺を見てそう続ける。
廊下では少々怖い顔だったものだが、明るい場所に出ると「怖がられやすい人」程度に威力は軽減していた。ただ、常に厳しい表情ではあるので、近寄りがたい印象はある。彼の顔からこれを消すのは至難の業だろう。
「ご主人様は狼の群れから私たちを助けてくれましたよ」
「……群れですか……」
ヘルミラの言葉に、ヘンリーさんはちょっとたじろいだ。姉妹たちは少しむすっとしている程度で、そこまで非難めいたものはない。いつものことながら、少し申し訳なくなる。
狼単独はレベルが低いものだったが、群れだとそれなりに手間らしい。まあ、それは現代人の俺も分かる。犬と戦うのだってやりにくい。
それにしても、ヘンリーさんの表情はあまり変化がないが、興味深いことにどうやら姉妹は少し苦手なものらしかった。
昨夜と同じく人数が多いためか料理は全員分一気に来たわけではなかったのだが、誰が先に食べるかの遠慮のし合いでディアラから「お先にどうぞ」と言われた時も、ヘンリーさんはちょっと動揺した素振りを見せていた。なんだろうな。
「昨日の警戒戦では、コマンダーにもレッドアイにも果敢に立ち向かってましたよ」
「レッドアイにも?」
ヘンリーさんが怪訝な顔をして、探るように俺のことを見てくる。途端に睨みつける表情になる。本人は意識してるんだろうか、これ。
続けて両断したなどと出てこないか懸念したが、結局言葉は続かなかった。ベイアーは得意げというか、涼しげな表情だ。目立ちたくない旨は馬車内で伝えてあるが、気に留めてくれたようだ。
「ヘンリー」
ミラーさんがコトリとジョッキを置いた。中身は昨夜と同じく微妙ビールだ。
「世の中には外見から判断できないこと、世間の常識から外れたものはいくらでもありますよ。ダイチさんもそうですし、はぐれゴブリンだった私が今こうして外交長官という地位にあるのもその一つでしょう」
「ちょ、長官はそんなことは、」
「いいえ。そんなことはあります。私は様々な幸運が重なって今ここにいるのですから」
ヘンリーさんの眉間が持ち上がってようやく少し普通レベルになったが、すぐに戻ってしまった。
それにしても幸運か。俺もそうだけど、ミラーさんはどんな幸運が重なったんだろう。
「もし嫌でしたらいいですが。ミラーさんが外交長官になったいきさつってどんな感じだったのですか?」
ふむ、とミラーさんが目線を落とした。みんなの視線もミラーさんに集まる。インはプルシストの肉のシチューを食べながらだが。
このシチューは例によって、パプリカ粉によって赤いが普通に美味かった。ただ、香りがきつめで、短い木の枝みたいなもの――おそらく肉に刺さっていたんじゃないかと思うんだが――を俺は思いっきり噛んでしまった。
聞くタイミングを逃してしまったのであとで聞こうかと思うのだが……おそらく香辛料のように思う。
甘い香りなのだが、スパイシーな辛味もあるという独特なものだ。
しかも舌がちょっと痺れるという。あまり詳しくはないが、香辛料の文化に痺れの趣向があるのは聞いたことがある……。
ただ、みんなの皿には小枝がないようだったし、取り忘れとか混入してしまったとかそんなところかもしれない。
なんにせよ、舌の痺れは取れたが、おかげでちょっと変なもの――なんかこう……走り回りたい感じだ――が胸の辺りに残っている。胃腸の弱い転生前だったら、違和感はみぞおち付近だっただろう。
と、シチューの話はともかく、ミラーさんが目線を上げて俺のことを見てきていた。ちょっと間があった。
「そうですね……1つ目の幸運は、はぐれの時に私が仲間から殺されなかったことです」
おおう。そういうところからか……。嫌だったらいいって前につけといてよかった。
「私は仲間の中でも力が弱かったんです。とくに知恵が働いたわけでもないですし、勇敢でもありませんでした。木の葉とマツ脂で馬や城などを作っていたような何もできないゴブリンでした」
なんだか悲しい始まりだな。……ソラリ農場のゴブリンも似たようなものを作ってたな。ゴブリンの中ではポピュラーな遊びらしい。
「なのでまあ、仲間からはよく怒られたり殴られたりしていました。狂暴なエリートゴブリンがときどきうちの縄張りに来ましてね。そいつから半殺しにされたことがあります」
うわあ……。生きててよかったです、と言うと、ミラーさんは眉を寄せて深刻な表情で「本当に」とこぼした。相当辛い思い出だったようだ。半殺しならそうだよな……。
「で、2つ目は、<診断者>たちからすんなりいい評価をもらえたことですね。私はそれはもう従順にしていました。毎日食事にありつけて、牢獄という鉄格子によって私の身の安全は保障されていました。誰からも殴られずにすみますし、あの頃は極楽に思ってたくらいです」
ミラーさんはよほどその時に嬉しく感じたのか、さきほどの深刻な顔から一転して表情を明るいものにして、耳をピコピコさせた。
苦笑してしまうが、戦国の世では戦えない者にとっての牢獄は心強いものなのかもしれない。
ふと見れば、ミラーさんたちの後ろのテーブルにいる商人風の2人の客が、なるほど、確かになぁ、などとぼやきながらうんうん頷いていた。聞いてるなぁと思っていたんだが、牢獄のくだりには同意らしい。
食堂に入ってからというもののミラーさんは何度か客から声をかけられていたんだが、フィッタでも彼は有名らしかった。ちなみに本人には言ってなかったが悪口めいたものも聞いたし、ヘンリーさんの顔つきにちょっと萎縮していた子もいた。
もっとも、食堂は人がはけてしまったようで、ほとんど客はいない。ここの朝食のピークは早いとは、デレックさんの婚約者らしい日本人顔の彼女の談だ。俺にとってはどこも早いけどね。
「<診断者>たちからはちゃんとした評価がもらえないことがあるのですか?」
「もちろんあります。……私には既にそのようなものはないことは先に言っておきますが、魔物というのは潜在的に人類を嫌っているものなのです。憎悪に近いように思います。まるで親の仇のような。……当たり前だと思いますか?」
「え? ええ、まあ……」
ベイアーを見ると、俺と同じで、そうだと思うが何かあるんだろうか、といった心境のうかがえる顔をして俺を見てきた。姉妹もそんな感じだ。
「ところがいつの日かはぐれになると、この憎悪が突然小さくしぼんでしまいます。あれほどまでに憎んでいた相手に対して“何も”思わなくなるのです。不思議な現象だと思いませんか?」
メイホーで話していた時もこんな風に語っていたか。確かに不思議といえば、不思議かもしれない。
「確かにそうですね……憎悪ではありますが、欠けたことによって不安もありそうです。自分の性格の一部が突然なくなる感じでしょうし」
「そう! その通りなんですよ!」
ミラーさんが興奮したように、ちょっと声を大きくした。それから間もなく、恥ずかしそうに咳ばらいをした。見開かれた黄色い目と眉はさすがにちょっとインパクトがあった。
「失礼……。まあ、なんですか。私はその性格の一部の突然の喪失により、不安を覚えたものです。今まで一度も味わったことのない不安を。……そうして、巣から離れ、街々や人々をよく眺めるようになりました。その時にはね、この不安が和らいだものなのです。不思議とね。……なんにせよ、わざわざ憎悪を持っている者を社会に入れるわけにもいきませんからね。そこのところをしっかりと<診断者>たちは判断します。評価の是非に関しては、大まかなところはそこだそうです」
ダメだったらどうなるんだろうな。……処刑か?
「憎悪の感情が突然なくなることに関しては魔物の研究をしている学匠の方にもお話ししたのですがね、この世界における理解できないことの一つであるという結論に至りましたよ。まあ、ゴブリンくらいしか例がないので、あまり本格的には考えていただけなかったようですけどね」
ミラーさんは肩をすくめた。この世界における理解できないことか。昨夜のこともあるし、山ほどあるよ。俺的には。
「で、私は捕縛後も従順にしていたので、滞りなく<診断者>から良い評価をもらい、まずはロッタフル山で鉱夫として働くことになったわけですが、ジギスムント伯爵様に出会えたことが3つ目の幸運でした。別の鉱山に行っていたら、私はまだ鉱夫として働いていたかもしれませんね」
後ろの商人2人が、「おお、ジギスムント様か」「あのお方なら納得だな」と声を軽くあげた。ミラーさんの耳がピクっと動いた。聞こえているんだろう。プライバシーがあったものじゃないが、娯楽もないしなぁ。実際、自分と全く繋がりのない赤の他人の話というのは楽しい。
それにしてもジギスムントか。どこかで聞いたような。聞いてないような……。
「七星の
ベイアーの言葉に、その通りです、とミラーさんが誇らしげに同意した。
七星を養子に迎えたのか。七星は平民出が多いんだったか? そうだとしたら公明正大な人かもしれない。ジョーラはそういう縁はないんだろうか。
「見た通り、私は力仕事の類は苦手でしてね。鉱夫としては全然ダメでした。幸い周りにはずる賢い奴が多く、ヘマをしてむち打ちになる奴もいたので、私は盗みの言葉を知らないがごとく、盗みは一切しない真面目な奴という高い評価をいただけましたが、やがて採掘したものを小さく削ったり、鉱石の数を数えたり、ツルハシの刃を検分したりもする役になりました。食事の配膳もしたことがあります。……そうして、1年ほど順調に仕事をこなしてその月の“優秀鉱夫”に選ばれるようにもなっていったのですが、私は当時本が読みたくてしょうがなくってですね……無謀だとは思いつつも、読み書きを教えてくれる先生を紹介してほしいとねだったんですね。ああ、優秀鉱夫にはちょっと“おねだり”する権利が与えられるんですよ。まあ、大抵の願いはいい食事か、給金を増やすことでしたけどね」
読み書きか。その辺の知識欲はさすが外交長官になった身だけある。
「ダメだったか?」
インは食べ終えたようで、満足気な顔でそう言葉をかけた。ナプキンには赤い斑点をつけている。
「ダメでしたね。監督からこっぴどく怒られてしまいました。それと私も若かったのでしょう、鉱夫仲間たちがゴブリンが読み書きなんてと馬鹿にしてきたことでちょっとムカっときてしまいましてね。言い合いになってしまいました」
あらま。
「その時にちょうど鉱山の調査で来ていたジギスムント伯爵が顔を出してきましてね。監督が事の次第を話したんです。私は平伏しながら恐ろしさで身震いをしたのをよく覚えてます。伯爵のいい噂は仕事中にもよく聞いていたのですが、伯爵はベイアー殿ほどに背が高くて、その上いかめしい顔立ちですし、なんと言っても伯爵ですからね。私の首など、彼の前ではあってないようなものです」
ベイアーほどの背丈で顔もいかめしいか。そりゃあ迫力があることだろう。
ベイアーを見れば軽く首を傾げて、ひょうきんにだがいくらか物言いたげに眉をあげた。言われ慣れてはいるだろうし、門番という仕事にありつけている理由でもあるだろうけど、ま、あまり触れないであげとこう。
「でも、伯爵は私になぜ読み書きをしたいのかの理由を訊ねたあと、みなにこう言いました。『鉱夫の身でありながら、読み書きをしたいと考える者は私は見たことがない。はぐれゴブリンである身でそう言った者も同じように、私は見たことがない。誰もしないことをやりたがる者は貴重な逸材だ。こういう者は、将来みなを率いる者になるものだ。……彼はゴブリンだし、狭き門かもしれん。だが、ゴブリンだからこそ出来ることをやるかもしれん。みなもそうは思わないか? 大商人トーナー・サイジラットも鉱夫だったというしな。――よし。決めたぞ。今日からもう1つの報奨を設けることにした。お前たちの中で一番利口だった者は読み書きを教えてもらう権利を与える! 先生はちゃんとした奴を選んでやるからな』」
すごいな、伯爵。ちょっと勢いがあるというか若い感じだが……というか、伯爵の台詞全部覚えてるの?
後ろの商人たちから、おお、さすが伯爵だ、若い頃から立派だったんですなぁ、と感心したのが聞こえた。やはり若さを感じるらしい。
「ほう。面白いことを言う男だの。で、どうなったのだ?」
ミラーさんは眉間をぽりぽりとかいた。表情は穏やかだ。
「読み書きを教わる報奨については破談になりました」
ダメだったか。
「鉱夫などに、それも平民の者に読み書きの先生をつけることなどやるだけ無駄だと言い含められたのでしょう。まあ、当然です。伯爵側に見返りなどないに等しいですからね。……実際のところは、伯爵の命令でもありましたので、しばらくは利口な者は選ばれたのですが、彼らにしても欲しいものは食事か給金でしてね。読み書きへの意欲もあまりなかったようです。……幸い、言い出しっぺだったのもあり、私だけは教えてもらうことができましてね。その先生から気に入られたこともあって、読み書きを教わり続けることができましたが」
語るミラーさんの穏やかな表情は崩れなかった。伯爵だし意味合い的にはちょっと違うんだろうけど、言わば自分の人生を変えてくれた尊敬する人物だしな。
「その後は、とある学のある彫り師の元に行くことになりましてね。その方の元で文法や算術、それから歴史、そして七竜学や七竜教についても少し習って。彫り物も多少できるようになった頃には、その方の友人の行商のお供もするようになりました。まあ、トーナーのような商売をするゴブリンなどそういませんから、半分は客寄せみたいなものですが」
なかなか繁盛しましたよ、とミラーさんは楽しげに言ったあと、ビールをぐびりと飲んだ。
ゴブリンの商人か……。伯爵の言いようだとゴブリンの商人はかなりの大物だったようだが。
「彼もまた学のある方でしてね。野営の時には色々と教わりました。七竜教の各物語を寝る前に打ち切られてしまうと、次の展開が気になって悶々としたものです」
朗読劇みたいなものか。七竜学ってちょっと楽しそうだ。
「ふう。……彫り師の元で落ち着いていた頃、私は行商の帰りでケプラにいたんですが、厩舎で厩舎番と客が喧嘩しているのを仲裁していると、アングラットン市長から声をかけられましてね。しばらく手紙のやり取りをしたり、行商の帰りに立ち寄ったりしたあと、その気があるなら市長の元で働くようにという通達があったのです」
いよいよ出世だな。メイホーでの酔っ払い騒ぎの収拾はお手の物だったか。
「ジギスムント伯爵もいますし、ブリッツシュラークにいたくもありましたが……このようなチャンスもないでしょうからね。伯爵をはじめ、長年世話になった彫り師と行商人や世話になった人たちに別れを告げたあと、私はケプラの役人として活動することになりました。ケプラでは、市場の取り締まりの強化や、経済の活性化を日々考える傍ら、落ち延びてきたり職を失った人たちの仕事先を探したりしました。始めはなかなか大変でしたねぇ……。その中には獣人やドワーフなどの亜人ももちろんいたのですが、私は亜人たちと接していて、伯爵の言っていた“私にしか出来ないこと”について考えを寄せるようになりました」
ミラーさんにしかできないことか。今は外交長官だから、関係する内容だとは思うんだけど。
「このことを市長に相談してみるとですね、当時、外交官には亜人にそれほど理解のある者がいなくてですね。外交官は亜人たちへの対応はやっていることはやっていたんですが、そこまで首尾よい内容ではなかったのです。とくに獣人ですが、人族に対して不信感を抱く者もいましたからね。外交官の中には怪我を負った者もいました。ですが、私はゴブリンな上に弱いからか、彼らとは割と話をすることができました。こういうこともあって、私は異文化交流と彼らの領事業務を専任とする仕事に就くようになった、というわけです」
なるほどなぁ……異文化交流専門の外交官か。
「その後はめきめきと仕事をこなして長官に?」
ミラーさんは、亜人専任の外交官は私以外に一人しかいませんけどね、と苦笑した。1人しかいないのか。やはり亜人なのかと訊ねてみれば、人族らしい。
「立派な話だのう。本にでもしたらどうだ?」
頬杖をついて聞き入っていたインが笑みを浮かべながらそんな提案をした。
「本ですか?」
「ゴブリンの成功の秘訣本ってやつか」
「おお、そうだのう」
「まあでも、ゴブリン……人種を問わず普遍的な内容になるのかな。生い立ちがどうであれ知識欲には貪欲であれ、感謝を忘れず、自分に適性のあることをやろうっていう内容になりそうだし」
インが腕を組んで、うむうむ、と頷く。ミラーさんはそんな大層なこと考えてませんでしたよ、と少し照れくさそうにしている。
見れば、ヘンリーさんもまた“笑み”を浮かべていた。……悪魔的というか、かなり邪悪な笑みだ。主人を褒められたことによる純粋な喜びから出た笑みだと信じたい……。
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