6-36 幕間:鴉の仕事 (5) - 聖獣ホラン・メル


 <金の黎明>内でバウナーに次ぐ実力を持ち、時期党首と目されているレイダン・ミミットは、腹の内が見えにくい男だった。特別気位が高いわけではないのだが、貴族っぽい男と言い換えてもいい。


 魔導士や貴族出身の七騎士には確かにこういった者もいるが、だが彼はそうではない。

 革職人の仕事の傍ら、商人や小貴族などの馬を預かって世話もし、ついでに倉庫番もしているという忙しい家の息子で、なぜか武芸の頭角を現したという少々珍しいタイプの男だった。


 腹の内が分からないとは言っても悪い意味ではなく、バウナーは付き合い辛かったわけではないし、周囲にしてもそうだ。処世術に関してはバウナーの数倍上の実力だと言っていい。

 職人由来の器用さと集中力、馬番と倉庫番の仕事で様々な階級の人と接していたことが、彼のような珍しい男に仕上げたのだとバウナーはまもなく理解した。もっとも武芸の才に関しては、本人も意外だったという。


 また、国や王のことを常に考えている忠誠心の塊のような男であり、バウナーが気乗りしなかった教義に反する隠れた逢瀬や結婚についての見解に理解を示すなど、バウナーにとっては数少ない“こちら側”の人物でもあった。少なくとも、バウナーはそう思っていた。

 彼はまた、家の人間が自分が稼いだ金をよく使い込むことに悩んでいたり、意外にも少し女が苦手と感じる性質でもあるようで、そういう人間味のある部分からもバウナーが気を許していた男の一人だった。


 四方から槍をつきつけられたバウナーに彼が垣間見せた不敵な笑みが、ひとえに党首になれることの喜びによるものなのか、それとも陰謀に加担し、それが成功したことによる漏れた歪んだ感情なのか、混乱しているバウナーには判断ができなかった。どちらも歪んでいるものには違いなかったし、どちらも含まれていることだってあったのに。


 槍兵の一人が急かすように鎧を軽く突いてきた。レイダン・ミミットにいわれるがままに、バウナーは後ろに下がっていく。


(サロモンが王に曲解するように伝えるわけがない。つまり他の誰かが……誰かの手の者が、俺たちの現場にいて、王に伝えた……誰だ? レイダンが諜報を? バックに誰かいるのか? 分からない……サロモン。……サロモンは無事だろうか? バッシュのあの様子……逃げたか? 逃げるならうんと遠くに逃げろよ)


 相手が自分より数段上の実力者だけあってかなり警戒している兵士に急かされるままに、バウナーは王たちから距離を取ることになった。

 さらに離れた場所で、魔導士の3人が詠唱を始めた。3人とも揃って、腕には金色の腕輪を2個つけ、石灰から球体を削りだしたようなオブジェのついた杖を持っている。バウナーは魔法でも飛んでくるのかと咄嗟に身構えたが、彼らはバウナーに手を向けることはなく、地面に向けて魔法の構築をしているようだった。


 やがて、3人が囲んでいる地面には魔法陣が出現し、明滅しだした。ずいぶん大きな陣だ。

 バウナーは古竜の血によって人よりもいくらか長けた魔法への察知能力と、自分の少ない魔法にまつわる知識から、彼らが展開しているのが儀式魔法であると察した。何のために構築しているのか、バウナーは理解ができない。


「バウナー・メリデ・ハリッシュよ。……貴殿をオルフェに渡すわけにはいかぬ! 古竜の血をその身に流し、万夫不当の貴殿を敵にまわすのは絶対に避けねばならん。……とはいえ、ただの斬首では貴殿の地位とその功績に釣り合いが取れない。ゆえに! 貴殿の刑は、聖獣ホラン・メルによる火刑に処すことにした! 聖なる炎によって浄化された貴殿の魂は、間もなく<竜の去った地>に送られるであろう。これが私の慈悲である!!」


 聖獣ホラン・メルは、白竜がアマリア王室に遣わすのを唯一許している白竜の眷属の1体だ。

 当然非常に強力な力を秘めており、ひとたび暴れることがあれば国を一つ落とすのも容易いことだと言われている。無論、戦争の道具にすることは許されてはおらず、普段は姿を消し、その力による結界によって王族や聖人の安置された霊廟を守っているにすぎない。


 成人を迎える王族が、戴冠をする者が、死後に偉大なる功績を残した聖人として迎えられることが決まった者が、または七騎士の筆頭騎士になる者が、聖獣ホラン・メルに会いに行く。

 バウナーがホラン・メルと会ったのはもちろん筆頭騎士の襲名の儀によるものであり、国と王室と白竜に誓いを立てるためだ。


 バウナーは聖獣が処刑道具として持ち出されることにも驚いたが、それよりも王の昂った言いようから、自分を確実に殺そうとする確固たる決意も感じ取った。

 もし相手が忠誠を誓い、尽くしてきた前メイデン王だったなら、恐れと悲しみがぞんぶんに襲ってきただろうが……バウナーにまず襲ってきたのは寂寞感だった。


 王――クリスティアンのことは、バウナーは年の離れた弟のように接していた時期があった。ずいぶん前になるが、兄のように思っていると、彼の口から語られたこともある。

 もちろん王になった今はバウナーはそんな扱いはしていないが、一月ほどまえに政務の合間を縫って出かけたイノシシの狩猟に随伴したときなど、内心では兄弟のように接していた時間があったことも否めない。


 だが、今のクリスティアンにはそんな思い出はないように思えた。

 ただひたすらに、“化け物”の自分を名誉の元にどうにかせねばならないと悩んだ挙句の処置だったと、そう言っているにすぎないようにバウナーは思えた。


 バウナーはやり場のない寂しさに戸惑い、困った。たとえ冤罪であり、陰謀だろうと、これから訪れる自分の死がまるで正しいことのようにも聞こえてきた。

 彼は王だ。時には身内を処断しなければならない時もあるだろう。アマリアだけに限らない王族たちのそういった悲しい事情もバウナーは聞き及んでいる。


 少し遅れてバウナーの元に悲しみが到来してきた。復讐心などもとくに芽生えない、それ以上でもそれ以下でもない純粋な悲しみだった。身内から処断される側はこういう気持ちなんだろうと、バウナーは悟った。


 バウナーが王の言葉にショックを受けて、揺れ動く内心とは裏腹にこれといった抵抗を見せていない間にも着々と魔法の構築は進み、やがて陣が完成し……聖獣ホラン・メルがその姿を現した。


「ホラン・メル様……! このような場にお呼びして申し訳ありません。今回はあなた様の御力を借りたく存じます」


 そう言って王が膝をついたのを皮切りに、みなも続いて膝をついた。魔導士たちは召喚士だったようだ。

 バウナーを囲んでいる兵士たちも慌てて膝をついて頭を下げたが、すぐに職務と目の前の罪人を思い出したようで、毅然としてバウナーに槍を向ける。しかし目線は依然として聖獣にちらちら寄せられ、その槍はおぼつかなかった。


 一言で形容するなら、ホラン・メルは大蛇の体と2対の翼を持った双頭の白い竜だ。

 世間にはホラン・メルであるとは公表していないが、<黎明の七騎士>の翼を生やした双頭の白い蛇の紋章はこの聖獣がモチーフになっている。


 霊廟から召喚したためだろう、2メートルほどの背丈で、霊廟で見た時よりもずいぶん小さな姿で登場したホラン・メルだったが、存在感は変わっていないものらしい。いや、魔力濃度は上かもしれない。


 ホラン・メルは魔獣としてはレベル80ほどと推測されている。

 バウナーはホラン・メルの放つ聖浄魔法のものと非常によく似た濃い魔力に気圧されていたし、周囲の魔素マナがホラン・メルに急速的に吸い込まれていくように掻き消えていくのも感じ取った。

 バウナーもレベル50クラスの魔物と戦った経験はあるが、何もしなくても周囲の魔素を吸い込んでしまうほどの存在、つまり魔人の類とは交戦経験はない。


 魔法に所縁のない執政や学匠たちは魔力に気圧されることはほとんどなかっただろうが、聖獣の威光には当てられたものらしく、左胸に手を当てて必死になにかつぶやいているようだった。


 なにもホラン・メルの魔物としては魔人級の存在感に触れなくとも、彼らがそういう行動に至るのも仕方ない。

 白竜に面通りが叶うものは白竜教のトップと王くらいのもので、他の者はホラン・メルですら会うことは一握りの者だからだ。常にアルバグロリアに結界を貼り、国の信仰対象でもある白竜を崇めるのは当然として、霊廟を静かに守る、人類の手が及ばないほど強大な存在の眷属を崇めないわけもない。


 とうのホラン・メルは多少周囲に目線を動かしたものの、ずいぶん落ち着き払っていた。召喚されたことに大して動じていない様子だった。

 バウナーがかつて霊廟で静かに見上げていた時のように、国一つを落とせるという言われの暴力的な片鱗はまるでなく、さながら王城の、ひいてはアマリアの守り神のごとく、聖獣という呼び名にふさわしく威厳を持ってその場に鎮座しているだけだった。


 魔力には属性や持ち主の性質の影響を受けながら、攻撃的なものとそうでないものがある。

 ホラン・メルの魔力は聖浄魔法や治療系の魔法を得意とする白竜の眷属だけあるのか、後者だ。だが、魔力はとてつもなく濃かった。霊廟の時よりも濃いかもしれないとバウナーは感じた。どうも2メートルの体長に収まっていることが要因のようだ。


 召喚士の3人のうち1人が膝をつき、荒い息を吐き始めた。霊廟内の魔素の管理をしている召喚士と同じように、彼らもまたホラン・メルの魔力にあてられないよう対策を講じているだろうが……。


 王に学匠の一人が焦ってなにやら耳打ちをしたのが見えた。


「召喚士よ! ただちに執行せよ!!」


 という立ち上がりざまに王の叫び声。バウナーに槍を向けていた兵士4人が、聖獣に気勢を削がれたまま、少しずつ後ずさりしていく。

 魔導士の一人が聖獣の背に向けて杖をかかげ始めた。彼は何かを呟いた。双頭の片方が、ちらりと魔導士の方を見て、じっとしていたかと思うと、間もなくその眼差しがバウナーに向けられる。


 金色の竜の目が細められた。白い双頭の口が開けられ、びっしりと生えた尖った歯と赤い口内が露わになる。魔素が聖獣の前で急速的に集まっていき、塊になった。


 バウナーはいよいよ殺されるのを覚悟して、目をつぶった。

 間もなくなぜかサリアの顔が浮かんだことに内心で苦笑した。


(メイデン王よ……先に逝きます。あなたの息子をお守りする最中に逝くのをお許しください……)


 やがて聖獣から、さすがの頑丈なバウナーの肉体でも耐える自信のない膨大な密度の攻撃的な魔力が放出されたのを感じたのもつかの間、飛び込んできた気配と叫び声にバウナーは我に返った。


「バウナー様!! あ゛、あ゛、あ゛ああ、あぁぁ、ぁっっ!!!」


 白いブレスが見えない壁によって阻まれていた。引火した白い火が、小刻みに動いている。叫び声は、……バッシュのものだ。


「バッシュ!?」


 王たちの方からも叫び声やざわめきがある中で、やがて壁の主が姿を現した。

 ゼロと同じ方法で出現したそれは、やはりバッシュだった。だがバッシュは魔法は《灯りトーチ》くらいしか使えない……。


 バッシュは身を焦がす痛みにだろう、涙を流しながらもバウナーに健気な笑みを浮かべた。そうして、ゆっくりとベルトを指差し……あっという間に白い炎に包まれ、……白く焦げた肉塊と化したバッシュは倒れた。

 バッシュが着ていたはずのメキラ鋼の鎧はどこにもなかった。骨が半ば見えているところもある。バッシュの鎧は、バウナーのお供をすることもあり、魔法防御力もぞんぶんに高めてある……。


 ホラン・メルはその死体を見ていた。そもそも、リザードマンたちと同じで表情は分からないのだが……慈悲など何もない、冷徹にも思える眼差しだった。


 おぉ白竜様と、何人かの畏怖する声を耳にしながらバッシュの焼死体に何もできずにいると、バウナーの脳裏には“声が飛んできた”。


『バウナー様逃げてください!! 渡した金鎖は《消散》と似た効果を持ちます! 握って念じれば姿が消えます! 気取られないよう王都から逃げてください!』


 サロモンの「念話」だった。バウナーはさっと周りを見たが、祈っているであろうサロモンの姿はやはりない。


 ――サロモン……無事なのか??


『私はゼロと一緒です! 私たちを陥れようとする者があります!』


 バウナーは戸惑いつつも言われるがままにバッシュからもらった金鎖を手にしようとしたが、「召喚士! もう一度だ!」という王の声。

 残りの召喚士の2人がさきほどと同じく杖を手になにかをつぶやいた。今度はホラン・メルは振り向かず、早くも魔力の塊が出現した。召喚士が1人また膝をついて倒れ、荒い息を吐く。消耗が激しいようだ。


 バッシュの脳裏によぎったのは自分が死なないことで王に泥を塗ってしまうことだったが、そんなことを悠長に判断する暇もなく、ブレスはバウナー目掛けて発射された。


『私のことは構わず逃げてください!』


 バウナーは金鎖を掴んで《消散》と念じながら、咄嗟に横に回避した。変な態勢で回避をしたせいか、尻もちをついてしまったが、バウナーはなんとかバッシュのような最期は迎えなかった。だが、代わりに腕が焼ける痛みが鋭く走った。


 輝きを含んだ真っ白な魔力の奔流はバウナーの眼前の虚空を飛んでいき、1本の太いブナの幹を半ばから消滅させたあと、魔力切れでも起こしたかのようにその先でふっと途切れた。


 バウナーは痛みに右腕を見た。すると、バウナーの腕は半ば透けていた。驚いたが、バウナーの体すべてが《消散》の効果により透けているようだった。

 触ると、焼けた腕はパサパサに乾いていた。不思議なもので、血は出ていないのだが……腕の皮を削ぎ落したようだ。右腕の感覚は鈍かった。


「王よ! おそらく《消散》の魔道具です!!」

「さ、探せ! 探してもう一度ブレスだ!」

「ブレスはおそらくもう……」

「何でもいい! 誰かバウナーを捕えろ!!」


 完全に見えないのではなく、うっすらと体が見えるので、本当に消えているのかとバウナーは不安になったが、問題ないようだった。周囲の兵士たちも、ブレスのせいで完全に怖気づいているが、こぞってキョロキョロと辺りを見回している。


 ホラン・メルは見えているのか、じっとバウナーのことを見ていた。バッシュを殺した時と同じで、表情に変化はない。バウナーはその眼差しに恐ろしさを感じた。

 バウナーはまたいつブレスが来るのかと警戒していたが、恐ろしく感じた一方で、ホラン・メルの眼前にはさきほどの魔力の塊はない。周囲の魔素もずいぶん減ってしまったようで、あるのはホラン・メルを構成する聖浄魔法的な穏やかな性質の魔力だけだ。


 だが、ゾフィアが剣を手にバウナーの元に駆けてきていた。バウナーは横に転がって、ゾフィアの剣を避けた。ゾフィアならもしかしたらとバウナーは焦ったが、彼女もまたバウナーの姿は捉えてはいないようで、周りを闇雲に斬り始めた。

 それにしてもゾフィアにしては力任せで、ずいぶん迷いのある剣だったが、どうやら王の捕えよという言葉のままに意図的に威力を抑えていたためらしい。


 それに聖獣の姿にくわえ、人のあのような無残な末路を目の前で見たのだ、動揺しても仕方がないだろうともバウナーは思った。

 ゾフィアの父は、魔物の炎で死んでいる。彼女自身はもうそれで取り乱すようなやわな人間ではないが、一度根付いた心的イメージというものは何を機にぶりかえしてくるか分からないものだ。


 ゾフィアはバウナーほどではないが、察知力もあれば、勘もいい騎士だ。そのうちにあたりをつけられるかもしれない。バウナーは彼女に気取られないよう、それでも急いでマーグレー庭を離れた。


 ・


 バウナーはほとんど動かなくなってしまった右腕をかばいながら駆けてきた末に、城下街の外れにあるとある小さな家にやってきた。

 レイダン・ミミットが兵士たちを先導してバウナーのことを探し始めたが、家の方に行く様子で、外れまで来ている者はいない。


 物音と話し声が聞こえてきたので、厩舎の方に行く。


「おーおー、元気な食べっぷりだなあ。そんなに食ったらまた太るぞ、ん~~? 太って駄馬認定されたらお前は食われちまうぞ? いいのか?」


 バウナーは馬に話しかけている小男――馬番のアリーゴドに話しかけた。


「おい。ゴドー」

「ん?」


 アリーゴドは声のした方を振り返り、ジャガイモに目と鼻と口をつけたような顔で小首を傾げた。バウナー、ではなく、“厩舎の壁”を見て不思議がったようだ。


 アリーゴドは長期遠征がなければ3日に1回は会っていた顔だが、現実味のない事件に遭遇したばかりだったこともあり、バウナーはなんだかひどく懐かしく感じたし、安心感も覚えた。

 <金の黎明>の党首になり、バッシュがつくまでは、彼とはどこへいくにも常に一緒に行動していたものだった。


「なんかご主人様の声が聞こえたなぁ。まさか死んじまったとか? そんなわけないよなぁ。“古竜将軍”様がそう簡単にくたばっちまうわけないよなぁ。死ぬんならむしろオイラだよなぁ」


 アリーゴドは再び馬の方を向いて、そんな独り言をつぶやく。

 バウナーは緊張感が緩んだせいか、意識が混濁する前兆を感じた。血は流れていないのだが、動かないこともあり、しっかりと肉体的にはあまり良い影響を与えてないものらしい。時間もあまりない。


「おい。ゴドー。いるぞ、ここに……首のでかい出来物をつまんでやろうか」


 どうにかして自分がここにいることを信じさせようと、バウナーはアリーゴドが最も嫌うお仕置きの一つを挙げた。


「や! そ、それは勘弁してください!! ……ご主人様、どこですか? いるんですか??」

「ああ、いる……。お前の後ろだ、見えんだろうがな」

「え、え??」


 アリーゴドの間抜けな顔に、バウナーは笑みがこぼれる。服の裾をちょっと引っ張ってやると、彼はひどく驚いた。


「あ、……ほんとに?」

「魔道具で姿を消してるんだ……いいか、よく聞けよ、ゴドー。これから大事な話をする」

「はい……」

「アルバグロリアをすぐ出るぞ。持ち出せる金をありったけと大きな布切れを持ってこい。俺は今、負傷して右腕が動かせない。お前が馬を出すんだ。いいな?」

「は、はい!! ただいま持ってきます!!」


 アリーゴドが家に慌てて向かう足音を聞きながら、バウナーは壁に寄りかかり、厩舎の天井を仰いだ。


 厩舎はボロ小屋というほどではないが、別段大したものではない。アリーゴドの家や厩舎はバウナーが与えたものだが、もっと良い住処を与えればよかっただろうかとそんなことを思う。


 さきほど干し草を食べていた馬が鼻を鳴らした。見れば、見えないはずのバウナーに目線を向けて、馬は物言いたげな視線を寄こしている。


「ノーラ、俺が分かるのか」


 応じるように、ノーラは再び鼻を鳴らし、そして軽くいなないてみせた。


 馬が幻影魔法の《消散》を見破るといった話は聞いたことはない。魔力や魔素を察知する敏感なのもいるらしいが……話し声は聞こえるので、その影響も強いのだろうとバウナーは思う。

 ただ、今は自分たちの古い絆の方をバウナーは信じたかった。ノーラはアリーゴドほどじゃないが、長い付き合いだ。


「……だいぶ痩せたな。……よし、お前もいくぞ」


 バウナーは無事な方の腕で、ノーラの鼻筋を撫でた。ノーラは見えないはずだが、特に驚くこともなく、主が触るままに任せた。


 サロモンが簡易的に作成したというこの金鎖の《消散》の効果は、サロモンによれば、最大で30分ほどらしい。

 ただし、再び発動すると魔道具にかなりの負荷がかかり、それに耐えられずに高確率で媒体の金鎖が壊れてしまうらしいため、解除はしないでほしいとのことだった。王都を出てから壊れてくれとバウナーは何度願ったか分からない。


 アリーゴドが布を手にリュックと革袋をたんまり下げた格好で厩舎に戻ってきた。持ってくるように言ったのは布と金だけだったが、さすがに手慣れたもので、出かける格好で来たようだ。


「よし。ノーラで行くぞ。俺は消えたままお前の後ろに乗る。街を出る適当な言い訳を考えておけ」

「ど、どこに行くんです?」

「どこでもいい。アルバグロリアはすぐに出る。……しばらくアマリアには戻れないだろうな。……すまんな」


 ゴドーは難しい顔をしていたが、すぐに得意そうな顔になった。


「気にしないでくだせえ。今のオイラがあるのもすべてご主人様のおかげですから」

「ああ」


 アリーゴドは、ハンバルの貧民街で半殺しの状態で放置されていた。相手は腐った白竜教司祭が雇っているならず者の傭兵の一味だった。傭兵も腐っていた。彼のジャガイモのような醜い顔は、バウナーに育ての親の顔を思い出させた。


 彼は信仰心がないことを理由に日々殴られていた男だった。もちろんアリーゴドは街で売っていた白竜教の腕輪を持っていたのだが、傭兵たちに壊されてしまった。金を切り詰めて購入した新しい腕輪も同様に壊された。ハンバルの白竜教の装飾品は高いことで知られている。

 バウナーはそんな彼を治療師の元に連れて行き、治療したのだった。そのうち殺されるとうわ言のように言っていたので護衛も兼ねて周りの世話をさせ、日が経ってから正式に従者にすることにした。


 街を出る時に、バウナーは傭兵を同じ目に遭わせてから、アリーゴドと一緒に街を出た。その後バウナーは<金の黎明>の先代党首から怒られ、殴られたが、その司祭は地位を剥奪されたという。バウナーの腹に傷をつけた門番兵が死んでそこまで日が経ってない頃だった。


 バウナーは当時のことを懐かしく思いながら、筆頭騎士のケープを脱ぎ、ノーラの負担を減らすために鎧も脱いだ。

 バウナーの手から離れた装備は順々に姿を現した。姿を消している者の手から離れたら、透明化は解除されてしまうようだ。


「干し草の中にでも突っ込んどいてくれ」

「は、はい……」


 アリーゴドは言われたままに奥の干し草の束の中に鎧を突っ込んでいったが、ケープを手にすると、少し動きを止めた。


「……俺のことをよく思っていない連中が動き出したようでな。地位は陰謀を引き寄せるものだ。それなりに覚悟はしていたが、まあ……俺はしょせん器でなかったのかもしれん」


 アリーゴドがケープを突っ込んだ末に戻ってくる。


「オ、オイラにとっては、ご主人様は変わらず筆頭騎士様です」


 アリーゴドはバウナーのいる方向とは少しずれた方を向いていたが、その顔には決意が満ちていた。逃亡の決意だろうとバウナーは思ったが、すぐに自分への励ましも含んでいることを察した。

 バウナーは今ほどこの何度叱ったか分からない馬番を頼もしく感じなかった瞬間もなかった。


 右腕を体にしばろうとしたところで、腰の剣のレグルスが目に入った。筆頭騎士になった折に前王からもらった宝剣だ。


 バウナーは宝剣をベルトから抜き去った。宝剣はまだ透けていた。


「ゴドー、手を出せ」


 バウナーはおずおずと出したゴドーの両手に剣を鞘ごと置いた。たちまち姿を現す宝剣。


「剣を抜いて見せてくれ」

「は、はい……」


 剣の刀身は傷や刃こぼれの類もなく、バウナーのことは映していないながら、いつでも斬れるぞとバウナーに訴えかけているように思えた。

 装飾剣のような豪華な見た目ながら、ミスリルに白竜の魔鉱石を混ぜたショートソードだ。使えないわけもなかったが、バウナーは結局あまり使わずじまいだった。


「もういい。それもつっこんどいてくれ」

「はい……」


 バウナーは抜かなかった方の剣、愛剣クォデネンツをちらりと見た。

 レグルスに比べると地味で武骨だが、アマリアでは珍しい黒鋼鉄を混ぜた剣だ。通常の剣より重いので使い手を選ぶが、ちょっとやそっとでは刃こぼれしない頑丈な剣でもある。


 クォデネンツは負傷時に振り回せるような剣ではなかった。ましてや、負傷したのは腕だ。

 家に戻れば軽くて使いやすい剣はいくつかある。だが、そんな悠長な時間は今のバウナーにはない……。



 一番近い西の門に向けて、バウナーを背にアリーゴドが馬を走らせ始めた頃、バウナーの元に念話が入った。


『街は出ましたか?』


 ――これから出るところだ。ゴドーも連れていく。……バッシュは死んだ。俺の身代わりになってな。


『……そうですか』


 ――サロモン、お前はどこにいる?


『今は城内の地下通路にいます。折を見て私も出ます。バウナー様は怪我などはしていませんか?』


 ――右腕をやられた。聖獣ホラン・メルのブレスをかすめてな。


『……ホラン・メル?』


 ――王が俺の執行に呼んだんだ。


『…………つまり、……腕が白く?』


 バウナーはサロモンなら症状や治療法について何か知っているかと思ったが、やはり知っているものらしい。

 バウナーの右腕の感覚はほとんどなく、相変わらず乾いているが、色味の方はちょっと分かりづらい。


 ――そうかもしれん。まずいのか? これは。


 サロモンはしばらく無言だったが、症状によってはその腕ではもう剣を振れないかもしれません、とこぼした。

 バウナーはしばらく思考が止まったが、やがて息をついた。


(隻腕の剣士か。まだ失ってはいないが……左じゃ殴るか、レイピアくらいか。クォデネンツは厳しいだろうな)


 とはいえ、隻腕になる覚悟などいつでもあった。なんなら、子供の頃に貧民街で死んでいた可能性もある。古竜の血はバウナーの命を救ったこともあれば、増長の要因にしていたこともある。

 それにバッシュの着ていた強化したメキラ鋼もあっという間に溶かされていたのを見れば、命があるだけでもマシというものだろう。


『まずはハンバルに向かってください。知り合いの秘密主義の薬師がいます。完全な治療は難しいでしょうが、進行を遅らせることはできるかもしれません。私たちもハンバルに向かいます』


 ――分かった。


 バウナーはゴドーの背中にしがみつきながら、<金の黎明>の先代党首が、左腕で剣も振れるようにしておけと言っていたのを鵜呑みにしておけばよかったと後悔した。

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