4-29 幕間:密談


「ジルよ。変なことしておらんだろうな?」


 少女が老成した言葉遣いで、ベッドにいる同じくらいの年頃の少女に訊ねる。あまり少女らしくはない、ずいぶん落ち着いた声音だ。歳は、もうすぐ子を産めるようになる頃か。

 その身には、まだ成人にはなっていない若い黒髪の男の上半身が寄りかかっているが、少女は少年よりも一回りも年が下だろうにさほど重たそうにしている素振りはない。


 場所はどこかの高級な宿の一室だ。部屋の内装と様式的に、オルフェだろう。


「変なことって何よ? あのいいムードからそんなこと言うの?」


 ふんふんと鼻歌まじりに、ジルと呼ばれた少女が、こちらは年相応に小鳥がさえずるかのような弾んだ声でそう答えた。老成した言葉遣いの少女が肩でため息をつく。


「いいムードのぅ……」

「別にあんたに分かって欲しいとは思ってないわよ、イン」

「そうだの。私には男女のムードとやらの良し悪しは分からん」


 インと呼ばれた少女は、やはり身の丈に合わない奇妙な返答の仕方をした。


 ジルは細い指で自分の唇をそっと撫でた。まるで口紅か何かを塗るかのように。何かの秘密な契約を交わすかのように。

 そんなジルの様子をインは、面白がるでもなく不気味に思っている風でもなくじっと見ていた。が、やがて小さく首を傾げて、眉をひそめた。


 ジルと呼ばれたませた少女も、インと呼ばれた老成した言葉遣いの少女も、顔立ちの整った少女だった。

 ただ、ジルの方は炎のようにオレンジがかった色の髪で、赤目。インの方は銀糸のような輝く灰色の髪を持ち、魚の鱗のように虹色に輝く光彩を持った灰色の目という奇特な容姿をしていた。


 なにがしかの亜人の血と、貴族との混血児なのだろう。

 人々は二人を見たら、混血に対する多少の嫌悪感とともにそう判断するだろう。もしかすると、魔法の道を修めた魔導士や、七竜から加護を賜った人物の可能性もあるのだが、それにしては二人とも若すぎると言えた。


 男女のムードの良し悪しについてを興味なさげに「分からん」と一蹴する女など、世の中にそうはいない。

 男として育てられた忠義に厚い女騎士か、男に縁のなかった醜女か、それとも敵国に幽閉され続けた囚われの貴族か王族の類か。


 インという銀髪の少女はおよそ騎士の体つきでもなければ妙齢でもないし、醜女でもない。顔つき言葉尻から身分の高さを察してみることはできるが、混血児というものはたいてい歓迎されずに育つものだ。

 世の中から歓迎されずに育った者は、無口か、乱暴者か、へらへらと笑う道化者によくなる。愛されずに育った者の一つの末路とも言える。まともな人格なら、非常に運が良かった人なのだろうと推測してみることができる。


 あるいは、女学匠や女魔導士かもしれない。

 だが、彼女たちも勉学や研究の合間に男女の仲について研究もする。人並み外れた頭脳を持つ彼女たちにしては、平凡な見解に落ち着く。男女の愛についての研究は、身分を問わず研究ができる学問だ。もっとも、“崇高な”をつけてしまうと、話は違ってくる。

 いずれにせよ、インと呼ばれた少女がかなりの変わり者であるのは確かだ。


 その点、ジルという少女はオレンジ色の髪と赤い目という特異点はあるにしても、インほど変わった点はないように見える。

 彼女くらいの歳頃の少女はよく小鳥のようにさえずるものだ。よく怒り、よく泣き、よく悪口を言い。そして時々すました顔で、父親を困らせながら、母親のように叱る。叱る対象は様々だ。飼い犬の場合もあるし、時には権威ですらもその対象になる。目の前で身内の首を落とされでもしない限りは。


 外見における特異さは、男女間においてはしばしば愛を強める要因にもなる。

 自国では嫌われるが、他国では好かれるかもしれない。もしかすると、ジルの言動の少女らしさ愛らしさが彼女の外見の特異さを緩和させたのかもしれない。


 いずれにせよ。二人の人物像推察は、二人の傍で指示を待ってじっと空中で待機している魔力生命体マジアンタルのサラマンドラが全てないものにした。これだけで彼女たちの素性が割れると言ってもいい。


 魔力生命体は七竜やその眷属、もしくは、大精霊だけが使役できる。大精霊は人化の術を持っていない。


「……お主、少し変わったか?」

「そう? あんたのことは分からないわ。よく見てないもの」


 インはしばらくの間、ジルの顔についている“何か変なもの”を探していたが、やめた。


「そうか。……別に見んでいい。私の息子に手を出すでないぞ?」


 そう言いながらインは、自分よりも体の大きな黒髪の少年の体を軽々と抱きかかえてしまう。

 彼女は「息子」と言うが、もし魔力生命体がいなければ、信じる者はどれほどいるだろうか。いや、魔力生命体がいて、彼女が七竜ないし七竜の系譜の者だとしても、説明は必要だろうが。


 彼女が息子と言う年上の黒髪の少年は、相変わらず苦しそうな寝顔を見せている。

 この少年も二人ほどではないが顔立ちが整っている少年だ。もっとも、七竜の系譜なのか、それとも大精霊との関与が疑われる彼女たち二人ほど、変わった点は彼にはない。


 輪郭に骨ばっているところはなく、顔のパーツの位置が理想的な場所からさほどずれているわけでもなく、コブや赤い鼻もない。獣の耳や鱗、鳥類の翼、長いエルフ耳もなかった。一般的に、彼のことを亜人や混血児には見ないだろう。


 ただ彼を、人としてずいぶん整った顔立ちを持つ二人の少女に倣って「バルフサの人族の美男子」と言ってみるには、線が細すぎるきらいがあり、やや陰気で、雄的な魅力もいまいち足りなかった。

 この手の男は、男友達にはあまり恵まれない代わりに、母親や姉などの身内の女と縁が深くなる傾向にある。魔導士の家系でも、この手の顔立ちはしばしば見られる。


 アマリアの東にあるテロンドという地や、海を渡ったイシャナクには、彼と似た顔の人々が住んでいる。テロンド人やイシャナク人は、バルフサ人と比べて彫りが浅めで、鼻も低い。

 もし彼がインとジルの二人と血筋的に関係がないのなら、人々は彼をテロンドかイシャナクとの関係を疑うだろう。


 また、これは例外中の例外だが、もし彼が武術と使役魔法に長けていたりするのなら、かつてミージュリアで勢力を強めていた一派――魔女騎士ヘクサナイトの生き残りだと邪推してみる者もいるかもしれない。


 インはそのままゆっくりと少年をベッドに横に降ろした。相変わらず重そうにしている素振りはない。


「手を出すも何も手伝うって約束じゃない。それを実行したまでよ」


 特に手伝う素振りも見せず、インのその様子を眺めながらジルはそう返答する。その身は、傍に控えている魔力生命体のサラマンドラと同様に宙に浮き始めた。


「まあそうだがの。別に唇を合わす必要もなかったろうに」


 インが深刻そうに息をつく。まるで老人のようなため息だ。実際に何十年、何百年も生きている身であることは想像に難くない。


「多少はあるわよ? 肌に触れるよりも魔力譲渡の効率と魔力の浸透率がいいわ。それに気分もよくなるし」


 ジルが足音を立てないまま黒髪の少年の元に行く。後ろからサラマンドラを引き連れて。サラマンドラの赤い軌跡がかすかに残っては陽炎のように消えていく。


「だいたいこいつをどうにかしようったって、私一人ではもうどうすることもできないのは身にしみたことだわ。あんな寒い経験は金輪際ごめんよ。鬱陶しいガルロンドの奴らにも経験させてやりたいわ」

「お主がどうにかしようとも、こやつはおそらくもうどうにもせんよ。無論、お主が懲りずにけしかけたのなら分からないが。……それとこいつではないぞ。ダイチだ」

「……気が向いたら呼ぶわ。そのうち呼ぶことになるだろうしね。まぁ私の考えでは、だけど。私の勘はよく当たるのよ。知ってるでしょ? イン」


 インは難しい顔でダイチと呼ばれた少年に視線をやり、ジルの言葉には答えない。


 ジルはダイチの枕元にふわりと座り、小さな手をその額の上に置いた。サラマンドラもまたゆっくりと動き、ジルに追従した。にわかに赤く光り出すサラマンドラ。

 ダイチの表情が安らかなものに変わった。


「それにしてもよく出来たホムンクルスだわ……。こんなに精巧なホムンクルスは見たことがないわよ。これが私の喉元に剣を突き付けるどころか、死に至らしめていたなんて信じられない話ね。ホムンクルスの全盛期にこんなのが作られていたら下手したら英雄の偶像にでも祭り上げられていたんじゃない? 人族の、それも転生者の魂を込めた意味は図りかねるけど」

「そうだの……。私もそれはまだ分かっておらん」

「こいつがただのホムンクルスか、失敗作で狂ってる奴なら……しばらく楽しめそうだったのに」


 インがジルを睨みつけた。元々厳しかったその表情からは人間らしさがたちどころに消え、現れたのは、人の持ち得る表情筋の可動域ではもはや作り出せない、肉食動物めいた威嚇の様相だ。


「男漁りとやらは飽いたのではなかったか? ダイチはすこぶる甘い奴だ。貴族でもここまで甘やかさんだろうな。未だにホムンクルスの精神耐性の低さに振り回されてもおる。ダイチがお主の加虐心をそそるかもしれぬのは分かるが、いらんことをしてまた氷漬けにされたりしても、次はゾフの助けが入るとは思わぬことだ。もちろん私も今度は手を抜かん」


 壁にあった絵画がパタパタと音を立て始め、赤い竜を描いたタペストリーとカーテンが風もなしに揺れ始めた。

 インの警告は、異常な獣じみた表情の変貌も合わせて、腕に覚えのある大男も簡単にたじろぐような圧力を伴うものだった。


 とはいえジルはそんなインのことを見ることもなく皮肉気に笑う。


「男漁りっていうのはね、イン。もっとロマンと必死さがあるものよ。私がしていた男漁りは、七竜の中でも一番の役立たずなのが嫌になっていたからしていただけ。かといって刹那的な感情に任せていたわけではないわ。だからロマンなんて大してなかった。別に必死だったわけでもないわ。……第一、千年以上を生きる者がたかだか50年ばかりしか生きられない奴に本気になれるわけがないじゃない。まあ、フルやルオはそういうことができたようだけど」

「……その辺りのことは分からん」

「そうでしょうね。あんたはもう少し年頃の男の髪を撫でてみるべきよ。あんたが言うところの母としてではなく女としてね。30の男は撫で頃よ? ……馬鹿みたいに一門の人間ぶろうとするのが見ていて楽しいのよ。子供のように愚かでもない。だけど老いた者ほど欲望を制御できない。子供と目上の人間の思惑に板挟みにされながら、残りの人生の日数に焦り始めながら常に考え、常に迷って生きている。そんな男を哀れみ、踏み外した足を元の正しい道に戻し、慈悲を投げかけるのは、雌として生まれた者の最大の楽しみだと思うわ」


 そう言って、ジルはこれといった表情を見せず、ダイチの髪を撫で始めた。

 反して手つきは、慈善家が寒さでかじかんだ子供の手を取って温めるかのように、老女が庭に植えた植物の葉でも触るかのように、穏やかだ。撫でていくうちにジルの表情は柔らかいものになっていく。


 それと同様にインの顔つきの豹変も落ち着いていった。本来の少女のものに戻っていく。唇から飛び出していた上下の長い犬歯や、首や手の甲に現れていた銀色の鱗らしきものも引っ込んでいった。


 ジルはしばらく無言で撫でていたかと思うと、ダイチのシャツをまさぐり始め、胸元を軽くはだけさせる。そこには若い鎖骨があるばかりで変わったものは何もない。


「刻印すらもないのね」

「うむ。造った者の名前は知っておるようだが、まだ何も成果は上がっておらんらしい」

「そうでしょうね。こんな技術を持っておいて雲隠れしていない方がおかしいわ。……もっとも、こんな強大な力を宿してしまったことも予想していたかどうかは定かではないけれど」


 ジルは淡々とそう吐露して、少年のシャツのボタンを一つだけ戻した。


「じゃあ、寝ましょ」

「……そうだの」


 ジルはその場で部屋の灯りに向かって軽く2回息を吹きかけた。灯りが2つとも消える。

 インはダイチに布団をかけた。二人はダイチの左右に寝転ぶ。ジルはもそもそと布団の中に入るが、インは入らない。


「変なことをするでないぞ?」

「しつこいわね。……あーヤダヤダ。過保護な母親同伴で添い寝なんて。百年の恋も冷めるわ」

「ふん……。男の母親も愛せないようでは大した恋にはならん」

「へえ! 言うじゃないの。私はこれでも男の母親とは喧嘩しない主義なのよ」

「お主の義理の母親になるつもりはない」


 ジルが肩をすくめて返答しなかったのを機に、ベッドは静かになる。


 部屋にはやがて三つの寝息が聞こえ始めた。サラマンドラは首を垂れ、三人の寝所の上で、甲斐甲斐しくも淡く明滅し続けていた。

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