3-17 死線採集 (3) - 黄緑の絶望
眼前に現れたのは……一面の草原と山と青い空だった。
段々と青く霞んでいく幻のような遠方の草原の上で、同じく靄のごとく佇む雪面を露出させている峰々の風景に、まず浮かんだのは「アルプスの少女ハイジ」だ。
もちろん内容の方ではなく、風景の方。
あのアニメの風景がもしリアルになったら……というか、リアルアルプス山脈の山岳風景はこんな感じだったとそう思わせるのに十分なインパクトが俺の目の前に広がっている光景にはあった。
ただ……地面の方はサッカーグラウンド場の芝のように、黄緑色の草原が、果てなど知らないかのように延々と続いている。木なんて一つもありゃしない。
サッカーグラウンド場を比喩に出したのは、近くに木や巨石の類がなく、草たちの背丈も見事にほとんど揃っていて、見た目が非常に整っているからだ。
花の一つも見当たらない。いや、目の前の地面には小さな黄色い花がぽつぽつ咲いているのであるんだとは思うのだが、黄緑色の光景に完全に沈んでしまっている。
突然体に震えが起こった。
理由の分からない震えだったが、地平線めいた草原をずっと見ていると恐怖感を覚えたので目を伏せた。
俺は海の底を見ると恐怖感に襲われる性質だ。似たようなものかもしれないかもしれないと思ったが……理由について、もう少し正確にというべきか、見当がついた。
目の前の草原には“人の手”が全く入ってないからだ。道でも、小屋でも、木の看板や柵の類でも、人の生活の息吹もしくは人工物が目の前の草原には一切「存在していない」。後ろを振り向いても小屋はもちろんない。
また、樹木も岩も特に見当たらない。飛竜たちが転がったあともなく、かといって茂りに茂って雑然としているわけでもない。
不気味なほどに絵面が整いすぎている。
花や小屋の一つでも描くなり、子供だってもっとリアルな草原の絵を描けるはずだ。せめて道――人が通った形跡でもいいので欲しかったところだ。
それに草原には生き物の影もない。
この整いすぎている光景からしてみれば、これまで見てきた狼はもちろん、シカ、キツネ、ウサギ、羊、イノシシ、クマなど、この草の波の中にはそうした動物たちが全くいそうになかった。
鳥ですらも、不思議とここを通り過ぎないだろうという確信めいたものがあった。この世界ではあまり虫を見ていないんだが、虫もいないかもしれない……。
もし動物の一匹でもいたら、長閑だろう絶景だろうと呑気に感動できたかもしれないのに、絶対にいないと断定できてしまう不気味な静けさが、この風景にはあった。
なぜ動物たちの姿が見えないか? この理由も、なんとなくだが、見当がついてしまった。
この世界では中世ファンタジーの世界観らしく、ジョーラたちの飛竜たちを恐れる言動や、飛竜と七星の大剣でない兵士たちとのレベルと実力差、インとジョーラの40近いレベル差から察するに、「七竜ないし竜が生物の頂点に君臨している」らしい。
飛竜は中級か下級に相当する竜だろうが、俺に真っ先に襲い掛かってきたほど獰猛だ。
襲撃自体はインの指示だった可能性もあるが、……攻撃は非常に手慣れていた。彼らは縄張りに入ってきた人間、または動物を見れば、見つけ次第襲いかかると見ておいた方がいい。あの速度の襲撃を避けるのは困難を極めるだろう。
そんな竜のいる、見つかれば一瞬で殺されるような場所に、隠れる場所もないような場所に、魔物ですらない弱者の動物たちがのうのうと暮らしているのはいまいち非現実的な話だ。
インの人となりを知っていると、動物との共存くらいしていても何の不思議もないんだけどね。信仰と性格の親しみやすさというものはなかなか共存できないものだ。
それにしてもこの壮大なパノラマ風景でありながら同時にバカな絵感もある草原の様子なら、飛竜の一匹くらい、“草原を泳ぐ魚”でもいた方がマシだとも思ってしまう。
人は社会的な生き物だ。現代人は輪をかけて社会的だ。自己意識が低く、輪を尊び、集団主義で、同調圧力に日々慣れ親しんでいる日本人はさらに社会的だ。
そこに社会が、社会の息吹すらもなければ……強烈な不安しか抱けないのは当然だろう? 俺はもう、何も考えずに草原を駆け回れる純真無垢な子供ではないのだから。
馬鹿な絵らしく、ファンタジーの世界らしく、あるいはゲーム的な要素を残した世界らしく。「ビルが、あるいは傾いたビルが一つ建っていて、一風変わった異種族が草原を監視および管理している」……とかの方がまだ納得できたかもしれない。
それかここがこの世界における天国であるか、あるいは神々の庭とでも呼ばれている場所なら、はたまた巨人と神々が戦った戦場だったとでも言われるなら、全く何も疑いもしなかっただろうに。この広大すぎる草原にとって、人間なんて米粒みたいな存在に等しい。
草原を見守るかのように君臨している青白い峰々を仰ぐ。よく見れば、峰の周りには霧がかっている……。
インの家があるのはあの辺か……? あそこら辺は飛んでいかないと厳しいんだろうな……。
ふと、皆も各々難しい顔で閉口しているのに気付く。
ヘルミラに至っては口を手で覆ってしまい、絶望的な顔をしている。
ヘルミラにつられて俺も遅ればせながら理解できた。
絵面の静けさや、俺の現代人的感性から生まれた恐怖はともかく、この地平線めいた場所で、これからスタジアム何個分にもある場所で雑草探しという名の採集を行うということの実にバカらしいことが。
この面々の中で唯一、インだけは普段通りのように見える。まあここは自分ち、言わばホームグラウンドだもんな。
『なんだ? なんか難しい顔をしておるな?』
――捜し物をするには広すぎると思ってね……。
『そうか? ふむ、そうかもしれんの。空から飛竜たちを探すのはさほど難しくないんだがのう』
そらそうでしょうよ。飛竜たちは怪獣やガンダム級の巨体だし、ここはだだっ広いしで。
いつも通りのインの反応にいくらか人心地ついた心境になると、それは出来るはずもないジョーラが「あたしは別にな」とぽそりとつぶやく。
「夜露草が見つからなくてもお前たちのことは恨まないからさ」
ジョーラの感想は弱気なものではなかった。淡々と思ったことを述べているに過ぎなかった。そこには、事前調査が入念でなかった遠征に付き合わせてしまった申し訳なさを見れなくもないが、「別の大きな考え」に従ってそうしているに過ぎない一種の悟りが十分に見えもした。
こんなにも広大な“黄緑の大海”に調査の手も、当然諸々の対策手段も講じられていないのは、ほかならぬこの世界の人々のせいだ。
突然の嵐で人が溺れ死んでも、人は嘆き、そんな海に被害者をやったとして自責の念に沈みこそすれ、海に対しては憎悪や殺意の類は抱かない。抱いてもどうしようもないからだ。
目の前の生物の息吹すらも感じさせない大草原は、絶対に勝てない相手――大海に人が畏怖するのと同じような諦念の感情をあまりにも簡単に抱かせる。ここで目当ての植物、それも雑草探しなんて、地獄で行われる賽の河原の石積のようなものだ。
ハムラの言葉によれば、七竜の棲み処および周辺エリアは多く人々が足を踏み入れない地であるらしい。
とするなら、ジョーラの諦念観は全く正しい。むしろ、淡々と言えるだけ、誰よりも先んじて言えただけ、国の一大将らしく心が強いと言えるかもしれない。
そんなジョーラの言葉に各々その静かな横顔をちらりと見たり、なにかを言いかけたりしていたようだったが、結局誰もフォローの言葉をかけなかった。
なにせ海でコンタクトレンズを探すような作業だ。徒労に終わることの確率が高いのは誰の目にも明らかだろう。
しばらく経って、ハリィ君がようやく第一声を挙げる。
「僕たちはジョーラさんを死の淵から助けるためにやるべきことを全力でやるだけです。見たところ、隠れるところはない様子なので、いっそのこと先に天幕を作ってしまいましょう。我々に時間は残されていません。飛竜が出てきたらその時はその時です」
ただその言葉は、ハリィ君にしては少し自棄が感じられるところでもあった。「その時はその時」なんて、さきほど見せていた、内心ではしっかりと持っていたらしい理性主義の軍人らしからぬ不用心な言葉だ。
だがハリィ君の言葉には打たれるものがあったようで、アルマシー、ディディ、そしてディアラが同調してやる気を見せてくる。やるべきことをやるだけという部分が、非現実的な世界に突き落とされ、打ちのめされた感情を自分たちのいる社会の現実まで引き上げてくれたのだろう。
もちろん、俺の本来いた現代社会の現実と常識――草原にボンと山小屋風レストランや貸し別荘があったり、記念撮影場所があり、家畜との触合い場があり、麓のメイホー村が観光事業を大々的に行っているとか――まで引き上げられることはないんだけども。
「何か手伝えることがあったら言ってください。俺もインもあまり野営の経験がないので」
可愛い顔した年下のやる気に触発され、俺も言葉をかける。ディアラとヘルミラには「野営は大丈夫だよね?」と、一応訊ねたが、やはりというか、野宿もといキャンプの経験はあるらしい。
森で暮らしてたくらいだ。家はあるだろうが、話から察するに自給自足具合は結構なものだろうし、現代人観からしたら毎日野宿と言ってもいいんじゃないかと思う。
なんで私には聞かないんだとインから苦情があった。野営の経験あるの? と訊ねたら「いや、ないがの……」と不貞腐れられる。まあ普段から野宿しているようなものだったんだろうけどさ、あの竜のでかい体と手で野営は無理だろう。
やるんなら、城作りの手伝いとかだろう。竜の体で人以上の大きさもある巨石を手に、のろのろと飛んで建築予定地に運んでいるインの姿を浮かべてしまい、ちょっと頬が緩んでしまう。
「お主……何を考えておる?」と怖い顔で裾を捕まれるが、適当に流した。妖精のような絶世の美少女顔の怒り顔は全く怖くない。プンスカという言葉がとても似合う。俺の中で、だが。
『念話が出来ることを忘れておるのか? お~ん?』
――別に念話していたつもりないのに……なんで??
『ふっ。お主が念話慣れしておらんからだ』
念話慣れねぇ……。
どこまで聞いていたのかは分からないが、機嫌は割と良いらしい。妖精のような絶世の美少女顔ってところでも聞いてたのか? まぁ別にいいけど。泣き顔も見られて、性癖もバレたんじゃ、もう別にいいよ……。
そんなつもりはなかったが、俺とインのやり取りは雰囲気を緩和させるのに役立ったらしい。
いつの間にかやり取りを見られていて、面々の表情が柔らかくなったようだ。念話部分は聞かれてないとはいえ、恥ずかしい。
「仲が良いんですね。……お二人はディディを連れて周辺の探索をお願いできますか? 別れて良さそうなら別れて、タタバミの群生地を探すのもそうですが、樹木や何か目立ったものがあれば教えてください。……ディディ、いいな?」
「了解」
それからハリィ君は、アルマシーとハムラには、周辺の植物の調査を指示した。夜露草探しというよりは、ハムラの作戦立案のための下見ということらしい。ジョーラ、ディアラ、ヘルミラ、そしてハリィ君の残りの4人は天幕の設置作業になった。
ジョーラは特に何も言わずに従ったし、いつも通りと言ったところなんだろうが、ハリィ君は有能な副官だと思う。
木の類は草原をぐるりと見渡した限りない。
ずっと遠方、マップで言うところの西側に森らしき樹木の群生地場所があるようだが、先は思いっきり青く霞んでいるし、現実的でない距離だろう。
探すなら、ふっくらと隆起している箇所がいくらかあるので、その付近からだろうか。隆起した地面に隠れて低木くらいなら、もしかするとあるかもしれない。
「では、ダイチ殿行こう」
ディディについていき、草原を横断していく。
遮蔽物がいよいよもって全くないので、遭難することに対して不安を持って一度振り返ってしまった。マップがあるから遭難なんてあり得ないんだけどね……。
足元には高くても膝くらいの高さまでの植物が続いている。クローバーもタタバミも既に何度も見かけているが、開花しているものはほとんどない。
他には、猫じゃらしで有名なエノコログサや、化粧品やお茶で知られている解毒草のドクダミがちらほらあるようだ。もちろんこの世界でこの植物たちが現実世界と同じ生態かどうかは分からないのだが、どちらも見た目はさほど変わりないように思う。
スキルではないので望み薄だが、《魔力探知》が俺にもできないか植物たちを睨んでみたが、やはりテロップは出なかった。というか、魔力がないと探知に引っかからないんだけどさ。
道らしい道がないので毎回植物たちを踏んづけてしまうのが、なんとなく申し訳なく思ってしまう。
「この辺りから散開しよう。タタバミの群生地もそうだが、木でも巨石でも見慣れない花でもなんでもいい、目立った物があったらあとで教えてくれ」
ジョーラたちが遠目で確認できるところまで歩くと、ディディがそう提案してくる。まあ何もないもんな。
周辺は相変わらずのだだっ広い草原だが、少し行った先に、坊主の五分刈りのようにふっくらと草を生やした場所がある。あの辺りから行くか。
「わかった。じゃあ俺はこっち行ってみるよ」
「じゃあ、私はあっちでも行くかの」
そうインが俺が見た場所からちょうど45度ほど折れた方角を見ながらそう言うと、ディディが、いや嬢ちゃんはダイチ殿といてくれと頼んでくる。
「なぜだ?」
「危険だからだよ」
それは……説得力がないよ、残念ながら。なにせここでは飛竜は出てこないし、その飛竜の親玉がインなのだから。
「言っとくが、私の魔法は一級品だぞ? 探知もできるし、防御魔法も三重でかけられる。そうそうどうにかなることはない」
「さ、三重……? 一級の魔導士ですら二重の防御付与をできるのが一握りだぞ……?」
表情を常に崩さないディディが狼狽える様子は見ていて面白かったが、人型モードで色々と制限がかかっている様子の中で、どこまでが本当なのか正直ちょっと疑わしくもある。
「本当なのか?」
「まぁ、本当ですよ」
ともかく、俺もインも三重の付与が出来るのは事実だ。
「……ダイチ殿が言うならそうなのか……?」
そうつぶやくディディはインをちらちら見つつ、眉を難しく寄せて微妙に信じられない顔つきでいたが、
「……人手は足りないしな。頼む。さっきも言ったが、木や巨石など目立ったものがあれば脳裏に留めておいてくれ」
と改めてインに頼んでくる。
「任せておけ! 岩でも草でも何でも見つけてやるぞ。もちろん夜露草もな!」
インが薄い胸を叩いてそう宣言する。ディディは苦笑交じりでその様子を見ていた。
ジョーラの命がかかっているとはいえ気が滅入りそうな作業だし、インの明るさは正直ありがたいと思う。
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