2-10 はぐれゴブリン


「ゴブリンは基本的に3人以上で行動する魔物です。絶対ではありませんが、リーダー格が決まっていることは多く、攻撃を仕掛ける際には連携を取ります。はぐれゴブリンは群れからはぐれたり、あるいは何らかを理由にして排斥されたゴブリンなので、リーダーのゴブリンを持っていません。性格も気弱で、すぐに逃げてしまう魔物でもあり、凶暴性が皆無の魔物です。……市井に知られているはぐれゴブリンにまつわる事項はどれも事実です。私もはぐれゴブリンの一人でしたから分かります」


 目を伏せがちに、祈るように手を組んで静かにそう語るのは、いつか酔っ払いの警備兵に見事な説教をしていた外交長官のゴブリン、ミラーさんだ。


 ミラーさん元魔物だったのか……。


 右目にモノクルがはめこまれている目はぎょろりと大きい。

 だが、“同胞のしでかし”を知った今は悲しみに暮れ、説教の時にはピンと張られていた横に長い耳も力なく垂れてしまっている。


「はぐれゴブリンの多くはある日……人を襲う魔物であるのをやめます。そうして街の灯りや歌い、笑う人々の声、愉快な楽の音などにつられて人里にふらりとやってきます。そこでどういう扱いを受けるかは運によるところも大きいのですが……<診断者>たちに社会にあだなす魔物でないと診断されれば、彼らは正式に我々の人類社会に受け入れられたことになります。働くようになったり、石工の徒弟になったり、頭がよければ商人の元で商売や算術を学ぶ者も出てきます。……はぐれゴブリンは元のゴブリンの凶暴性を持っていません。魔物であった頃に体内に宿していた少量の禍々しい魔力も失い、はぐれゴブリンが種族的に元のゴブリン――つまり人類の敵に戻るという例も聞き及んでいません。……今回の人を襲ったケースは稀なケースだったとはいえ遺憾に思いますし、同じはぐれゴブリンだった一人として申し訳なく思っています」


 ミラーさんがハンチング帽を取り、うなだれた。わさび色の頭頂部に毛髪はない。ハンチング帽を握りしめている両手は半ば震えている。

 そんなことねえよ。ミラーさんのせいじゃないですよ。ミラーさんはいつだって俺たちのことを考えてくれるじゃねえか。

 そんな心配する声が、ヴァイン亭の方々からあがってくる。ミラーさんと俺たちが座っているテーブルの周りは人でいっぱいだ。


 店内は各柱に設置されているランプや質素な黒いシャンデリアに火が灯り、ミラーさんの贖罪に静かに寄り添っている。


 俺たちは今ヴァイン亭の1/3ほどのスペースを占拠しているような形になっている。

 ミラーさんがたまたまヴァイン亭に食事に来ていて、ヘイアンさんへの俺たちの報告話を聞かれてしまったので同席し、こういう流れになってしまっているが、彼の人気っぷり、有名人っぷりが窺えるところだ。

 外交長官というくらいだしね。こんな小さな村をひいきにしているくらいなので俺の世界の外交長官の地位よりは低い気もするけど、村人たちから慕われているのは間違いない。


「私もダイチさんのおかげで大丈夫だったし、そんな顔しないでください」


 ニーアちゃんもさすがにさっきまで黄色い声で俺を褒めちぎっていた興奮と威勢はなくなり、ミラーさんの励まし役に務めている。ミラーさんには悪いが、正直話題と空気の転換は助かった……。


「まあ魔物にせよ、人間にせよ、生き物の道理に絶対はないからの。はぐれゴブリンになったばかりで群れに戻るための示しをしたのかもしれんし、まだ自分がはぐれでないと思っているのかもしれん」

「そうですね……。その通りです。私も今回の一件はその辺りの線が濃厚に思います」


 たまに変な顔をされるインの“竜な”喋り方と威厳だが、この場では励ますためのいい口調になっている。もしゃもしゃと狼肉を食べるのをやめていればと思わずにはいられないが、周囲はあまり気にしている様子はない。なぜだ……。


 ちなみに狼肉のシチューは、汁分が少ないトマトベースのハヤシライスと言った感じでなかなか美味しかった。お供はもちろんライスではなくパンだが、肉汁が結構しみ出ていて、ご飯が恋しくなったのは言うまでもない。なお、狼肉は牛肉に近かった。

 それよりも……ナイフは短剣を使うのでどうにかなりそうだったが、食器がスプーンしかなかったので今後の食事方法を憂えたものだ。


 ミラーさんが、自分の前に置かれたはぐれゴブリンが射ってきた矢を大きな緑色の掌で指し示した。

 ゴブリンの手は人間よりもずいぶん分厚いようで、爪も“爪が長すぎる男”くらいある。ただ先は丸っこく、身なりの清潔感のままに中まで綺麗にされている。


「ゴブリンの作る矢は、人の肌に刺さるくらいには先が鋭利です。本来こんなに丸みを帯びた矢尻をつけることはしません。リーダーがいれば、しっかり削れと言うか別の石を探せと怒鳴るでしょう。そんな矢を使っているということは、……インさんが言うように、自分がはぐれなのだと理解していなかったのかもしれません」


 生々しい話だ。ゴブリンだというのに。

 ニーアさんを助けていただいてありがとうございましたとミラーさんがぺこりと頭を下げてくる。両手を振って、いえいえと俺。矢にあった皆の視線が俺に注がれる。


「それにしても意外とやるんだなぁ! きみ」

「腰に短剣があるが、剣も使えるのか?」

「ええと、少し……」

「いやいや、ありゃ単に肉を切るためにあるんだろうさ」

「まぐれかもしんねえが、飛んでくる矢を掴むなんざなかなかできることじゃねえぞ? 俺は思うね。彼は武術の達人だって」

「ほほう」

「いやいや……たまたまですよ」


 様々な好奇の視線に俺は苦笑を返す他なかった。

 インの忠告の件もあるが、俺は元々性格的に目立つのが得意なわけじゃない。魔物としては最底辺クラスに弱いらしいはぐれゴブリン相手なので、尾ひれはさほどつかないと願いたい。


 それにしてもミラーさんの、謝罪をしているが矢を射ってきたはぐれゴブリンを断罪しきれてない態度には親近感を抱いてしまう。

 すべてのはぐれゴブリンをそう捉えているわけではないと思うが、ゴブリンの外交長官という立場もあるし、彼にとってはぐれゴブリンは同胞には違いないんだろう。

 俺も謝っていくうちに、家族というのはちょっと癪だが、育てていた慶王大学中退のヤンキー君をそういう風に捉える気持ちがあったのも否めない。先方に謝るよりはずっと楽だったが、GMとしてもギルメンの揉め事とかでも結構謝ってたしな。


「ま、しばらく警備を強めるということだし、問題ないだろ。のう、ヘイアン?」

「おうさ。バリアンもしばらく周辺警備と夜間警備に力を入れるって言ってたしな。……はぐれゴブリンがいて、その気があるようなら保護も頼んであります。だから心配いりませんよ、ミラーさん」

「仮に何かあったとしてもダイチや私もいるしの」

「え……イン殿も武術を!?」


 ミラーさんが目を見開いて地声の高い声で驚く。

 ゴブリンが皆そうなのかは分からないが、ミラーさんの声は声変わり前の少年の声を彷彿とさせる。それにしてもそんなに驚くことか?


「武術なんぞたしなんではおらん。魔法に決まっておる。しかしお主に言うわけではないがの、はぐれゴブリンは農夫でも倒せる魔物だぞ。魔導士とて、いくらか鍛えておれば徒手でどうにかできる相手だろうの」


 ストレートだ。警備兵は文官でもきついとか言っていたが、まあ文官らしい文官なんだろうな。

 ともあれインの発言は効果的だったようで、確かにそうですねと、ミラーさんはいくらか晴れた表情になったようだ。威厳って大事なんだな。


「心配ならミラーさん、銀竜様の祠にでも行って、お祈りでも捧げてきたらどうだい? 少しは気が晴れるかもしれないよ。あんまり気持ちが塞ぐと仕事に差しつかえるよ」


 白髪交じりの客がそんなことを言うと、インが真っ赤な手をぴたりと止めた。

 みんなもそうしていたので何も言わなかったが、華奢で真っ白い指が肉をつかんで口に運ばれ、赤い汁でまみれていく様は今でもなかなか慣れない光景だ。子供がいて、粗相に慣れてたら何とも思わなかったんだろうか? ちなみにお手拭きの藁束はしっかりあるんだが、ほとんど使われていない。


「それはいい! 銀竜様は近頃お目覚めになられたって話ですからね」

「え? そうなのですか?」

「ええ、結界が張り替えられてるってヒルデさんや他の魔導士の方も言ってるんですよ。50年前からお顔を拝見していなかったが、ついにお目覚めになられたのだと専らの噂です」

「さきほどは大勢の飛竜ワイバーンたちが騒いでいたようですし……何かが起こる予兆なのかもしれません」


 おぉ、まことか、お怒りなのか、などと恐れはもちろんだが銀竜の覚醒に対する昂ぶりも含んだ声がそこかしこで上がる。


 内心冷や汗で話を聞く。飛竜があんだけ飛び交ってギャーギャー騒いでりゃ、そりゃ下の村でも見えるよな……。


「そうだったのですね……。近年は不敬な者も出てきていましたからね……。近い内に……明日にでも参拝しにいくことにしましょう」


 当の本人がここにいるんだけどね。インは相変わらず真っ赤な手を止めたままだ。ん?

 信心深そうな眉のきりっとした壮年の男性客の一人が立ち上がり、厳かな顔で左胸に手を当てた。

 司祭かなにかか? それに気づいた皆も各々体の一部に触れ始める。


 ミラーさんはベストにつけられたバッジの一つを軽く握りしめ、ニーアちゃんとステラさんは腕のブレスレットに手を当てて、ヘイアンさんは左胸に手を当てて。アクセサリーを持たない人はヘイアンさんのように左胸に手を当てているようだ。


 目をつぶり、うなだれる彼ら。


「最も輝かしき我らが主よ 七竜のうちが一竜よ」

「最も聡明な我らが主よ 七竜のうちが一竜よ」

「始まりから終わりまで 銀竜様の御心と我らが共にあれますように」

「銀竜様の慈愛に我らが相応しく応えられますように」

「愚かな我らを見放さずにいてください 我らの心は常にあなた様の尊き御意向のままに」

「空より見えしあなた様の守護するこの小さき地 荒らさず絶やさぬことが我らの務め」


 祈りの言葉らしい。慣れているんだろうけど、先達した男性の声は実に落ち着いていて、温かみもあり、聞き心地が良かった。いまさらながら、そういえば銀竜信仰の村だったことを思いだした。


 俺も一応拝んでおくか。


『おい。お主はせんでいい』


 と、顔をあげたインから念話。苦虫をつぶしたような顔だ。


 ――いや、変に思われるし……。


 念話の返答はなく、インは悔しそうに顔を伏せた。


「いついかなる時も あなた様のお与えになった恵みに感謝を忘れません」

「邪を払う守りの壁の内で 我らの心は常にあなた様の尊き御意向のままに」

「銀竜様、銀竜様、我らをお守りください」

「銀竜様、銀竜様、我らをお導きください」


 彼らは右手の甲を見せるように顎の前で掲げたあと、胸に手を置き、ゆっくりと頭を下げた。十字を切る的な?

 どうぞ、お怒りの方はお沈めください。最後にミラーさんが頭を垂れながら、静かに言葉を述べる。


 一人の老人が極まってついに床に膝をついた。俺も視線を下げて一応ネックレスを握っているが、さすがに少し居心地が悪くなってきた。

 インのことを見てみれば、拳を握りしめたままぷるぷる震えて何かに耐えている。


『ダイチ、終わったら即刻退散しよう……むずがゆくてたまらん』


 気持ちは分かるけどね。



 ◇



 やっぱりメイホー村はこれがあるからいかん! と、そう愚痴るインとともに部屋に戻る。


 そこまで嫌がらなくてもと他人事のように考えてみるが、俺もインの立場にあるのなら確実に嫌がるか、逃げるかする気がするので、同情する気持ちにもなる。とはいえ、同情しようがないんだけどね。

 俺も一般の人間だし、あんな風に信奉されたことなどあるわけもないし。


 インは祈りの言葉のあともいつも通りだ。現場に際しては多少は面食らったが、俺はできればインとは今まで通りの関係でいたい。始まってしまった関係を0に戻すのはなかなか難しい。


 と、そこで、インの性格が竜寄りなのか人間寄りの性格なのか、そんな突飛な疑問が浮かぶ。

 まだこの世界では俺は部外者であり「新人」なので、深く考えるつもりもなかったけど、竜は人間が生み出した架空の存在であり、この世界は一応クライシスのMMORPGゲーム的要素を残した世界でもあるので、とくに疑いもなく人間寄りの性格なのだろうなというところで議題はすんなり着地した。


 それにインの外見は人として可愛いからね。初めて会ったときは竜寄りの性格だったのかもしれないけど。


 部屋には木箱に入れられたミュイさんの店で買った衣類や、ダイン君の運んだ錬金術グッズがしっかり置いてあった。

 テーブルの上には、りんごや歯ブラシの入った籠があり、その横には錫製と思しき燭台と蝋燭が3本置いてあった。蝋燭に火はついてない。どうするんだろ。


「火か? 火魔法でつけるぞ?」

「いや、待って。下で聞いてくるよ」


 インは当然のようについてこなかった。あの現場嫌がってたしね。


 下に行くと、「ああ、火な」とヘイアンさんが燭台を持って厨房に行く。戻って来た時には火がついていた。竈の火からくべてきたんだろう。


 火は火だ。特に変わったところはない。


 消さないように階段をゆっくりと登って部屋に戻るとベッドで足をぶらぶらしていたインが立ち上がり、「眠い。疲れた。寝よう」と三段活用めいた名言を言いながら俺の服の裾をベッドに引っ張っていく。


 寝るのは構わないんだけど、まだ日が完全には落ちてないんなんだよね。お風呂……水浴びもまだだし、錬金術もやってみたいし。


 そんな心境をよそに、体の方はしっかりと疲れのサインでも出ていたのか、インが引っ張るのにとくに逆らわないままベッドに横になってみると、俺の体はいとも簡単に動きたくないモードになった。そういや、山道で1回ダウンしてたっけ。


 インは間もなく小さな寝息をたて始めた。寝つきの良さはさすが50年眠っていただけはある……のか?

 そんなことを考えつつ、俺も目をつぶっていたら早々とインと同じ世界に旅立っていた。



 ◇



 目が覚めた。


 ランプは消えてしまっていて、部屋は薄暗い。一瞬火事を懸念して、体を起こそうとすると腹の辺りに重みがあった。


 見てみれば、インの頭がある。小屋の時のように、丸まって眠っているようだ。

 頭の重さは体に対して大体10%と言われている。脳の重さは1.5キロだったか。なので、寝苦しさが少しはあるはずなのだが、とくに重みは感じない。

 もっとも、竜神のインだ。その人間の決まり通りの体のつくりなのかは分からない。この世界には魔力もあるしね。


 インの銀髪は夜に反攻するように、いくばくかの光を秘めて、俺とインの寝息に合わせて静かに光を明滅させている。

 綺麗な髪だ。光り具合はもはや髪というより、絹織物の類や、風光明媚な山の中を流れる上流の清水を彷彿とさせた。


 部屋の縦長の小さな窓からは、深い藍色の空と粉砂糖のような星々が覗いている。


 体内時計に従うなら今はおそらく2時とか3時辺りじゃないかと思う。

 MMORPG的とでも言うべきなのか、この世界は現実世界と同じく1日24時間であると聞いている。時差もさほどないんじゃないだろうか。


 虫の声などは特に聞こえてこない。もちろん、車やバイクの走行音も。静かな夜だ。ただただインの寝息と俺の呼吸音だけが聞こえてくる。


 特にインを起こしたいわけでもない……。今日あった出来事を振り返ることにした。


 ティアン・メグリンドの小屋で生まれ、

 大量の飛竜ワイバーンから襲撃を受けた。

 インと戦って負けて、ホムンクルスについて聞き、

 スキルを入手して、魔法のことを聞いた。


 山道を降りて、ダウンしていたらガンリルさんに出会い、

 メイホー村に行っていろんな人に会った。


 魔法道具屋のヒルデさん、

 武器屋のヴェラルドさん、

 ヴァイン亭のヘイアンさんやニーアちゃんやステラさん、

 服屋のコルヴァンの風のミュイさん。


 宿に戻ると、ヘイアンさんが困っていて、ニーアちゃんと倉庫に行った。

 はぐれゴブリンから襲撃を受けて、ミラーさんが謝罪した。……


 はぐれゴブリンか……。


 群れからはぐれ、魔物の世界で生きる力を失ったゴブリン。


 俺もこの世界でははぐれゴブリンのようなものだ。インがいなかったらどうしていただろう。いつまでも飛竜と戦っていたんだろうか。もし村に逃げたら、飛竜に追われる俺を、ここの温厚な人たちは追い払っただろうか。


 もし俺がクライシスでまだレベルの低い新規ユーザーだったら飛竜に殺されていた?

 ……いや、それでもレベルは100は簡単に超えられるから問題はない。むしろ、超級のホムンクルスの作成に着手すらしていなかったことの方が重要なんじゃないだろうか。

 超級のホムンクルスの作成に着手していなかったら俺はここにこなかったという仮定の話だが……。


 インは転生者が他にもいると言っていた。転生者たちはどこで何をしているんだろう。


 ふと、重要事項の一つをすっかり忘れていたことに気づいた。


 今日は朝起きたらティアン・メグリンドさんを少し探してみよう。訊ねるくらいしかできないが、一応人体錬成のできる魔導士のようだし、有名な人かもしれない。 


 なんで忘れてたんだろうと思う。


 その疑問は「なんだかんだこの世界を楽しんでいたんだろうな」と、簡単に答えられた。

 この世界のことを全く何も知らない俺は、言ってみれば、英語を喋れずスマホすら使えない状態で現地についたレベル並みだった。

 だが英語は急に出来るようになり、金も余るほど持ち、インという絶大な権力と安心の保証を手に入れた。金銭感覚も分からない上に素性不明なので現地人との交流において多少緊張の走る場面はあれど、精神的には余裕があり、“旅行”が楽しくならないわけがない。


 あともう一つの忘れていた理由もすぐに分かった。


 自分は「人間に限りなく近いが人間ではない」そんなめんどくさい問題に直面したくないからだ。

 この忘れていた気持ちには、創造者と会いたくないという明確な後ろ向きの気持ちや怖さが少なからずある。この手の話――模して造られた存在の行く先にどうせ良いことなんて、さほどないに決まっているから。


 ロボットも、アンドロイドも、そしてホムンクルスも。彼らを主題とした世界の中での彼らは、大抵悲しい部類の結末を辿る。

 読者としてあるいは視聴者として、完全な他人事の立場でいられるからこそ、その悲劇を受け入れられた。もし自分が彼らと同じ造られた存在であったらと、これっぽっちも思わずに。

 どの道、感情移入はできっこない。むしろ、感情移入したくない気持ちが上回っているのかもしれない。

 そういう意味では俺は非常に貴重な体験をしていると言えるが……正直、人間の意識が強すぎてホムンクルス感は全くと言っていいほどない。少なくとも俺は「人間としてしか」この世界を歩こうとしていない。というか、それしかできないのだけど。


 考えても仕方ないよと言わんばかりにあくびが出る。涙が出る。「それらしい涙」なんて基本的に人間しか流さない。


 あくびはともかく、涙は人造生命および人工知能を主題にした作品では、「その涙はなぜ流れるのか。君が人間だからではないのか」などと、決め台詞的な存在だ。

 涙は眼球を潤すという人体の機能として理にかなった役割とは別に、感情と密接な関わりがあり、何の合理性もなく流れることがある。

 怒り狂うにせよ、人の死に目に思考の一切が止まるにせよ……唐突に涙が流れ、それに気づかなかった、なんてことはよくある。


 俺はあくびでは涙が出る。だから人体としては人間であり、ホムンクルスでもあるのだろう。もし、今後あくび以外で――「痛覚による涙」も除いた方がいいか?――涙を流すことがあれば、俺は心も人間だと言えるだろうか。


 こういうことに悩む時点で俺は人間なのだと信じていたい。

 ……猿とかオランウータンかもしれないけどね。冗談。


 現実に戻れて、かつ現実では人間に戻れるっていう都合のいい展開なら、現実世界に戻る方法を探したいな。転生者たちはきっと戻る方法を研究しているだろうし。

 人間として現実に戻れ、もう二度とこの世界に戻れないっていう談なら、帰還するのは少し先送りしたくなる。

 俺はまだこの世界をこれっぽっちも探検していないから。今後はまだ分からないが、幸いにも身の保証は割とされている。


 インがもそもそと動いて、「ダイチの肉串うまいぞ~これほどのもんは……」と寝言を言った。


 笑う。この竜マジで食い意地半端ない。というか、本当にそこまで美味いのか? 一周まわって人間にとってはまずいとかない? まだインにしか肉串食べさせてないしなぁ、そういえば。


 それにしても寝たのが19時くらいだとするなら、約7、8時間寝たことになる。

 これからまた、ふわあ……二度寝するんだろ? 俺。どんだけ寝るんだろうな。起きて頭が痛くなってないといいけど。


 現実なら、明日仕事だけど……イワタニ、マイ、ガブ、ニル。ギルメンの皆。今頃何してるんだろうなぁ。


 いつも通りだろうなー……。会社の人たちも。ギルド放置はまずいなー……三週間の放置でギルマス強制交代だっけ……。まあ、休止中ののんびり活動状態だし、別に俺じゃなくても誰かしらしっかりやってくれるだろー……。


 起きたばかりだというのに、俺の意識は易々と薄れていった。


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