第1章 現状把握と困惑

1-1 誕生


 靄がかった、淡い緑色の世界が広がっていた。


 空も海も、陸もない。辺りには、生き物も物質も見当たらない。


 ただ空間の上の方に、瞬く星のような光があった。星はちかちかと短い間隔で発光してはしばらく消え、発光してはしばらく消え。それを延々と繰り返している。

 他にも微妙に色味の違う星はあるが、どれも動きは同じだ。ちかちかと誰かに何かのサインを送るように明滅している。


 ふと、ベールのように透けた長方形の帯が現れ、波打ち、漂いながら、こちらに漂ってきた。帯にはうっすらと複雑な模様があるようだが、模様の内容が判別できるほど色合いは濃くはない。


 帯がクラゲか何かのように、ゆっくりとこちらにきた。かと思うと、発光し出した。なかなか強い光だ。

 模様には文字も書かれているようだが、発光のせいで読めない。やがて帯は発光を弱めるとゆっくりと離れ、そしてすうっと姿を消した。


 ちかちかと輝く白い星の下の方で、今度は青い星が複数現れ、発光しだした。白い星は相変わらず光っているが、ときどき光る間隔を狭めた。

 また帯が現れてはやってきて、そしてまた消えた。帯はその後、幾度も現れ、発光と消失を繰り返した。


 星には色んな色があった。帯の模様も書かれている文字もそれぞれ異なるようだった。


 帯は時折、海蛇のように“丸いそれ”に巻きついてきたが、きつく締め上げることはとくになく、一定の距離に達すると離れ、そしてやはり消えていく。


 星と帯はいつまでもそんな同じことを繰り返していた。


 明確な意思らしきものは確かにあったにせよ、彼らは白い海の深海魚のように緩慢な動作で発光と消失を繰り返していた。



 ◇



 ふと気づくと、俺は緑色の世界にいた。


 淡い緑色の世界の中は暑くもなく、寒くもなく、快適の一言だ。人肌くらいの温度に調節されているようで、とても心地が良い。

 絶え間なくもたらされる心の安らぐ時間は、少しだけ冷えた湯船に浸かってだれている時間や、二度寝まったなしの寝起きのふわふわした時間に似ている。

 

 緑色の世界の先にも世界があった。

 先では、濃い色をした古ぼけたコの字型の木製の机があり、手前では同じく木製の背つきの丸イスが床に転がっている。

 机の上では開きっぱなしの分厚い本が数冊。それに大小の空っぽのフラスコ数個、試験管立てに収まった数本の試験管、丸まった紙切れがいくつかあり、動物の角を使ったペン立てのようなものや、羽や開封済みの封筒も転がっている。隅には鳥かごやショルダーバッグもある。


 ここはどこだろうか。

 

 音が何も聞こえない。緑色の世界は遮音性が高い気がする。カナル型のイヤホンや耳栓よりもずっと。

 休日の昼寝では一音一句に無駄に時間を取る町民放送によく起こされるのだけど、あれすらもここだと聞こえない感じがする。

 町民放送地味に嫌いなんだよね。これがあるために引っ越そうかと考えるくらい。岡山の実家で飼われていたダックスは切ない声で毎回遠吠えしていたんだけど。

 

 俺はいつの間にか目を閉じて、再び緑色の世界の心地よさに気持ちを預ける。

 

 寝起きの布団って、なんであんなに気持ちいいんだろうねー……。


 夏以外イチ押しタオル生地の枕カバーと、人肌に温められた布団の得も言われぬ感触がないのが少し寂しく感じたが、そんなことは些細なことだと言わんばかりに意識はやすやすと睡魔に溶けていった。

 




 ――何分、何時間経ったかわからない。

 


 ゆっくりと目を開ける。寝すぎたためか眠気はもうあまりない。そろそろ微睡みは尽きかけているらしい。

 また緑色の世界を目にしたが、机に焦点を当てる前に目にズキリと痛みを覚えて反射的に目を閉じた。

 

 ゴーグルがあればな、と思う。

 

 水中の中では体質なのか、精神的な神経過敏なのか、俺は痛みで長時間目を開けていられない。

 水泳をよくやっていた子供の頃は水中で目を開けたって全然問題なかった。飛び込みをしたときはゴーグルはよく外れていたし、泳いでいる途中でも外れることもよくあった。やがてゴーグルなしでも自然と泳げるようになっていた。

 大人になるとめっきり泳ぐことがなくなって、そのうち湯船なんかで目を開けるとまた目が痛くなるようになっていた。体質と言ったが、単に堪え性がなくなったのかもしれないとも思う。

 とはいえ、海水浴で盛大に溺れかけた記憶は未だに脳裏にこびりついている。海は怖い……。

 

 って、え? 水の中?

 

 正直な自分の体が導き出した答えを確認するために、もう一度目を開けた。

 痛い。でも少しすると、痛みがすうっと引いていった。

 

 ……水中か。珍しい夢だな。

 

 目の前にはコの字の机と床に転がった丸イスがあり、机の上も同じく雑然としている。


 この光景は以前も見たような気がする……。


 分厚い本やフラスコや試験管があるので、この部屋の主はなにかの研究者であることは間違いないだろう。

 本は目視で試験管と比較したところ、単行本くらいのサイズらしい。文字は小さくてよく見えないが、少なくとも日本語ではないようだ。横文字なので洋書なのだろう。

 目線を本から鳥かごの方にやる。小鳥でも入れていたのだろうか、中には木の棒が1本通されているのみだった。水入れやエサ箱なんかはない。

 

 ほかに何かないか探そうとしたけど首が回らなかった。どうも何かで固定されているらしく、腕も足も動かなかった。

 力を込めて体の内側からなんとか動かそうとしてみる。

 うまくいかない。神経が通っていない感じだ。口もダメで、動くのは眼球だけ、それもほんの少し動くだけらしい。

 

 抵抗するのをやめる。どうせ夢だしね。

 

 ぼんやりと淡い緑色の世界を眺める。

 

 緑色の水の色合いに、冬場には苔が生える、中学校の学校のプールが思い浮かんだ。

 高校生の頃に通った市民プールも、底が緑色だったから緑がかった水だった。

 学校を休みがちになり、部屋に引きこもり始めた頃だ。

 ストレスの解消からか、単に体を動かしたくなったからか、学生が昼に外に出ていてもおかしくない夏休みの頃を見計らい、こっそり通っていた。懐かしいな。

 

 それにしてもよく分からない夢だ。俺自身が動けないということもあるけど、絵面に全く動きがない。

 呼吸器でもつけているのか? 泡ぶくも一切出てきていないし。でも呼吸器は見えるよな? とりあえず溺死する様子はなさそうなので安心か?


 人工生命体になる夢とかだったら非常にレアだ。


 オタクというほどではないが、ファンタジー好きの端くれとして色んなファンタジーな夢を見てきたが、その手のはたぶん見たことはない。

 

 そういえばクライシスでホムンクルス作ってたっけな。今頃できている頃かな?

 クライシスのホムンクルスも緑色の培養液で作成していたし、この夢はあれの影響だろう。

 

 最近はほとんどなくなったけど、昔はクライシスで長々と狩りをしたあと、狩っている様子を夢に見ることがたまにあった。ゲーム内と同じく俯瞰視点の時もあれば、VR化させたような、臨場感あふれるものもあった。

 VRで見る戦場はなかなかの迫力で、実際に戦っている俺のキャラはギリギリのところで回避行動をとったり矢を射ったりしていた。

 ただ実際の俺は背後霊のようにキャラの後ろに憑りついて見ているだけで、キャラは勇敢に戦っているのに俺はと言えば目をそらしたり、慌てていたりの始末だった。

 一緒に戦っているのがゲーム内のキャラではなく、昔の友人たちだったりもした。その一方で、アニメやゲームのキャラだったこともある。カオスな夢らしいところだ。

 

 自分にせよ、知り合いにせよ、全く見覚えのない人にせよ。

 その人の主観視点になり自我を持つ夢は「明晰夢」というらしい。俺は昔からほとんどが明晰夢で、夢は割と楽しんで見ている口だ。

 ホラー映画じみた、起きた時には寝汗びっしりの内容もままあるのだけど、起きろ! と強く念じれば起きることができるからね。“鑑賞”に際して、余裕が持てるのだ。

 ただ好みの女性とまさにこれから! というときに毎回起きてしまうのは、本当にやめてほしいと思う。俺の夢にまつわる不可解な現象の一つだ。

 

 意識が少しはっきりしてきたので、再度現状確認をしてみる。

 というか、考える以外ではそれくらいしかやることないからなんだけどさ。

 

 目の前には変わらずコの字型の机と転がった丸イスがある。机の上も研究にまつわる道具の数々。

 眼球しか動かせないのはなんか地味に辛い。眼球が正面で固定されると、自分のことは何にも見えないんだなと変なことを思い知った。いや、というか、鼻先くらい見えるはず。

 

 机よりも若干薄い色をした床を目に留める。

 木材の木目や境目がかろうじて分かる。

 床材につられて最近新しくした自分のデスクを思い出した。天板にパインの木を使った自慢のパソコンデスクだ。

 

 パソコンデスクを思い出してふと思う。


 夢で自我があるとはいっても、夢らしいといえばいいのか、夢の中で「現実の自分」を思い返したことはあまりない。

 起きろと念じることはできるんだけど、「自分が今何歳でどういう状況にあるのか分かっていない」という、不思議な感覚が夢の主の自分にはある。

 その点今回の夢では、俺は昔の俺や現在の俺を思い出したりしているし、だいぶはっきりとした自我を持つらしい。

 まあ、夢の内容なんて起床後に速攻メモ書きしていても現在進行形で忘れていくくらいなんだけども。

 

 少し論点をずらしてこの緑色の液体が何なのか、考えてみる。

 

 染色されたただの水ではないと思う。冬場のプールのように、苔とかプランクトンの増えた水でも。その可能性はないわけじゃないけど。

 机やイスの見える景色は多少湾曲しているので、始めから自分が円柱型か楕円形型の水槽に収容されていることは分かっているのだが……水槽のガラスが単に緑色をしていると考えるには、突きつけられている俺の不可解な現状から察するに正直心もとない。

 

 液体は細胞組織の生成を促すのか、防腐か安定剤目的かはわからないけど、何かしらの作用をもたらすいわゆるホルマリン的な液体だということの方がまだ納得しやすい。


 この手のSF洋画は俺はあまり見た覚えはないが、アニメやマンガでは場面としてはいくらでも見たことがあるし、クライシスではホムンクルスコンテンツの真っ最中だった。

 机を見下しているし、目線の高さからも、おそらく俺はどうも直立姿勢で浮かんでいるらしいし。


 緑色の液体は悪い液体、人体に悪い影響を及ぼす類のものではないように思う。

 特に根拠はないが、快適そのものだし。呼吸器の所在も相変わらずわからないけど、ファンタジー的な理由から案外つけてないのかもしれないね。

 ただ、この緑色の液体が細胞組織の生成やら安定やらを促す科学的なあるいはファンタジーな液体だとして、俺が造られた生物だっていうなら、数種類の魔物が合体したキメラだったり、醜悪な外見を持ったクリーチャーの可能性だってある。


 魔物や怪物の類は嫌だな。気分的に。体の部位が一切見えないのが本当にもどかしいよ。

 

 そういや造られた生物ってたまに幼女のときもあるよね。そしてなんやかんやあって主人公についてくると。

 俺もしかして幼女なの? うん。幼女化は、いいかな……。

 できれば若い人族の男性でお願いします。時代背景的に中世か近世のファンタジー世界っぽいので、街を観光して、好みの女性とご飯食べることになって、美味しい料理を食べて、その辺りで目が覚めてほしい。

 平和が一番。その後のウフフな展開はどうせ目が覚めるだろうからいらない。なんで毎回目が覚めるんだろうな? 別に童貞でもないのに。“オイラ”、もういい歳よ?


『――――』

 

 それにしてもファンタジーな世界なら、人工生命体を造るのはたいていアブナイ科学者さんだけど。そうなると、目の前の机の主が創造主なのかな?


 分厚い書籍。試験管やフラスコ。紙切れ。封筒。ペン立て。羽。鳥かご。カバン……。机から性格を察するにはちょっと材料が足りない。

 とくに雑然とはしていないから、マッドな方ではなさそう、か? いや、几帳面な方が、むしろイカれてたりするかもしれない。

 機械の類がないっぽいので近未来の科学者ではなさそうだ。ということは品々のラインナップから錬金術師とかになるのかな。

 

 手足を動かそうとしてみる。ダメだ、全然動かない。というか、そもそも全身に神経が通っていないような印象すら受ける。

 現実世界でとくに出来るわけではないが、足の指の先や耳をピクピクと動かそうとしたりしてみる。

 本来の体ならしかめっ面になったり、下手したら指先が攣ったりするのだが、顔や体にはとくにこれといった痛みもなければ動きもない。

 

 そんなことをしていて、ふと思い立って動くのをやめる。

 

 あまり強く自我を持つと、夢から急に覚めることが多いからだ。

 

 身動きのできないこんな状態だけど、とくに怖い夢でもないし、せめてもう少し絵に動きがあってから覚めたい。

 例えば俺自身がどんな生物――もうこの際クリーチャーでも幼女でもいいや――であって、どんな人がこういうキナくさい研究をしているのかとか。

 マッドなお方かもしれないから研究者と話すところは遠慮しとこうかな。俺自身の姿を見るか、研究者の姿を見るか、どっちかを達成してから夢から覚めたい。

 

 なるべく自我を強く持たないように、変わらない絵面を見ながらぼんやりしてみる。

 

 何も考えずに、体感的に3分くらい経ったと思う。


 うん。待てない。

 いやあともう3分経ったらもう目覚めよう。

 

 そう決意したとき、唐突に水槽の下の方から金色の光が伸びてきた。

 

 お、ようやく動きが。

 

 金色の光は少しずつ緑色の世界を侵食し始め、視界の下3割ほどを埋めたところで侵食が止まる。

 光はオーロラのように緩やかに微妙に波立っている。何か文字らしきものが投影されているらしいのだが、薄い上に見たことのない文字だったので、残念ながら解読できない。

 

 今度は机の上に広げられた一冊の本からも光が発しだした。こっちは金色に青色が混ざり、美しい色合いだ。やはり波立っている。

 本をよく見たらさっきまで開いていたページではなく、大きな魔法陣がいくつか描かれたページになっている。

 

 なんだ……?

 

 本の上にはやがて円環が出現したが、その上にはさらにいくつもの円環が出現し、扇状に広がっていく。

 そうして各円環の中心部に四角形を二つずらして重ねた八角形や、六芒星などの形が生まれ、頂点にさらに六芒星を浮かべるなど模様は複雑化をしながら線対称の形が形成されていく。

 あっと言う間にすべての円環の中に幾何学模様が完成し、タワーができた。

 模様の外や外円にある帯の空白部分には、物凄いスピードで時計回りに意味不明な、創造的な異国語が描かれていく。

 

 目の前で展開されているものは魔法陣だと分かったし、ここが魔法のある世界であることに昂る感情もあったが、なにより空中に浮かぶ魔法陣の初めてまともに見た拡張現実技術の非現実さや、文字の形成スピードから目を離せない。

 打ち込まれていく文字に、思わずタイピング達人の文字打ちスピードのようだと思う。ひときわ大きな魔法陣の文字打ちには文字列が2行になったりもして、それ以上ではないかという場違いな感想を持った。

 

 最後に残った一番下にある一番大きな魔法陣の文字打ちが終えると、下の魔法陣から上の小さな魔法陣までポッポッポッと順々に光りだしていく。

 そうしてすべての魔法陣が光り終えると、明滅しだした。3回目の明滅で、すべての魔法陣が一斉に発光した。

 

 部屋が強烈な白光で溢れていく――

 

 目もろくにつむれない俺は、わずかに目を細めるばかりで魔法陣の生み出した閃光に埋もれていった――


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