魔王は見た
「では街に戻るぞ。こんな森の中にいては、情報を集めるも何もないからな」
きゅるるる。
「っ……!」
「……うん?」
ニニルにまた転移魔法が使えるか確認しようとしたところで、小さな音が耳に届く。
どこからかといえば、それはニニルのお腹から。
ニニルは顔を僅かに赤く染め、お腹を押さえた姿で固まっていた。
「あっ、そのっ、今のは……ち、違くてっ……!」
ニニルは慌てながら何かを言おうとする。
見れば、両手でお腹を押さえてもいた。
……もしかすると、お腹が鳴ったのが恥ずかしいのだろうか。
なんというか、年頃の少女らしい反応だ。
そしてそんな姿を見て……ふと感慨深いものを覚えた。
……俺がニニルと出会った頃、その目は淀み切っていた。
魔獣の襲撃と流行り病で立て続けに庇護してくれる両親を失い、村では穀潰しの邪魔者扱いされていた……という精神面もあれば、当時は栄養失調で頬がこけ、目も落ちくぼんでいたという肉体的な面もある。
当時のニニルであれば、腹が鳴った程度で恥ずかしがったりはしなかっただろう。
今改めてニニルを見れば、長い銀髪は輝く程に毛艶が良い。
青色の瞳に栄養失調からくる濁りはなく、頬の色も健康的な薄桃色だ。
あのいつ死んでもおかしくなかった銀狼族の娘が、よくもここまで立ち直ったものである。
だがそんな感慨とは関係なく、ニニルは未だにお腹を押さえてあたふたとしている。
腹の音程度で慌てるなんて理解できんが、何かフォローをしてやるか。
そう考えたところで、突然大きな音が耳に届いた。
ぎゅごごごごごご。
どこからかといえば、それは俺のお腹から。
音に驚いた鳥が木から一斉に飛び立ち、バサバサと更にやかましい音を上げる。
――目の前で発生した轟音に目をパチクリさせているニニルと、目が合った。
「……その、今のはだな」
よくよく考えれば、今はニニルより俺の方が腹が減っている。
なにせ眠りについていた間、何も食べていないのだ。
再生の秘跡の魔力で肉体の維持はされていたといえど、俺の空腹は五年分の空腹である。
……流石に、まず何か腹に入れなければならないな。
「ディルグ様も、お腹が空いてたんですね」
ニニルは我に返ると、おかしそうに微笑んだ。
幼さは残るが、五年前のニニルより成長した、女の子らしい笑みだ。
――五年が経った。
改めて、その実感を得る。
思うことは多くあるが、まずは目の前のやるこべきことをやるしかない。
「……まぁ良い。飯にするぞ」
「はい、私もお手伝いしますね!」
「そういえば、先ほどの転移魔法で俺たちはどこに移動したんだ? 森の中だということはわかるが……」
食べ物を探し、煮炊きをするのであれば、ここがどこかぐらいは知っておく必要がある。
鬱蒼とした森の中である以上、城塞都市キュールグラードの外ではあるのだろうが。
しかし、周囲には苔むした石材の破片のようなものが転がる程度で、他に目立ったものもない。
「ここは、再生の秘跡の地上部分です」
「なっ……!? ここがか!?」
再生の秘跡は、キュールグラード近郊の森にある石造りの地下遺跡だ。
白亜に輝くその入り口は、かつては森の中でも埋もれず一際な存在感を放っていた。
だが――、
「五年の間に魔獣に破壊でもされたのか? ……これでは魔王軍も発見できないわけだな」
今は見る影もない。
石を組み合わせて作られた堅牢な遺跡の入り口は乱雑に破砕され、苔や茂った草に覆われている。
さらには崩れた際の影響なのか、地上部分の石材は土や泥にまみれ、森の中の風景に溶け込んでしまっていた。
……魔王軍のほとんどの者が遺跡の存在すら知らない以上、発見できなくて当然だ。
少なくとも、森の上空から翼人種が偵察した程度では、ここに遺跡があるとすら気づけない。
もし万一見つけたとしても、ここまで崩壊し薄汚れた遺跡の内部に、俺が眠っているとは考えすらしないだろう。
まるで、誰かが故意に俺の存在を隠そうとしたかとでも思えるほどの念の入った破壊である。
……一瞬ニニルはどうやって俺を見つけたのかと思ったが、ニニルの種族は狩猟が得意な銀狼族で、他のどの種族より鼻が利く。
身近に置いていた従者だけあって、俺の匂いも完璧に覚えていたはずだ。
ニニルがこの遺跡近辺を捜索していたのなら、たとえ外観がどうであれ、匂いだけを辿って発見することはできたのかもしれない。
まぁ、そんな想像はともかく。
「どうやら、このあたりを縄張りにする強大な魔獣がいたらしい。食べ物を探すにしても、多少は警戒の必要がありそうだな」
これだけの破壊は、よほど大型の魔獣でもなければありえない。
痕跡を見るに、暴れたのは数年単位で昔なのだろうが……おそらくはこの森の生態系で頂点に近しい存在だ。
既にここにいない、もう死んでいるかも、と楽観するのは悪手である。
「魔獣、ですか?」
「あぁ。もしかすると竜峰から下位竜種あたりが流れてきて、住み着いているのかもしれん……ニニルは見たことがないか? 地竜かワイバーンのような亜竜であれば、このあたりに現れてもおかしくはない」
キュールグラードは、東西を峻険な竜の住まう山……竜峰に挟まれた地形だ。
純粋な竜である上位竜種が縄張りの竜峰を動くことはほぼないが、亜竜と呼ばれる下位の竜種は餌を求めてたびたび近隣に出没する。
だが『下位』竜種といえども、その力は決して侮れない。
特に力に優れた地竜の突撃は、木造や簡素な石造りの砦などは、紙屑のように粉砕してしまう。
もしここで地竜が暴れたのならば、この遺跡の惨状にも納得がいくというものだ。
「地竜とワイバーンなら、たしかにこのあたりで見たことがあります」
「やはりか」
俺の想像は当たっていたらしい。
……しかし、そう言うニニルの様子がどこかおかしい。
今ニニルが言った下位竜種は片方だけでも、もし人里に出れば大騒ぎになるような凶悪な魔獣だ。
だというのに、ニニルの表情からは危機感らしいものが全く感じられない。
「……いや、それも当然だな」
考える間もなく、すぐに理由を察した。
当然と言えば当然のことだ。
なにせ、ニニルの目の前には俺がいるのだから。
「ニニル、魔王であるこの俺が傍にいるとはいえ、あまり気を抜くなよ」
「はい、頑張ります!」
おそらくは、恐怖に負けないよう頑張るということだろう。
もしかすると、先ほどのニニルの無警戒な態度は、魔王軍の一員としての自負からだったのかもしれない。
先ほど、魔王軍ならばサキュバス程度を恐れるなと炊きつけたばかりだ。
ただ危機感がないだけかと思ったが、震えを押さえて気丈に振舞っていると考えれば、なんとも健気な姿勢である。
「それじゃあ、私食べ物を探してきますね! ここはハーブがたくさん生えてるので、お肉なら刷り込んで焼くだけで美味しく食べられると思います」
ニニルはそう言うと、森の奥へと駆け出していく。
確かに周囲をよく見れば、匂いの強い香草の類が多く生えていた。
煮込み料理に使われるセロル草のような、このあたりには自然には生えないはずのものもある。
……そういえば、ニニルは長い間眠っている俺の肉体を守っていたと言っていた。
おそらくは生活のためにニニルが植えたのだろう。
そんなことを考えている間にも、ニニルは森の奥へ奥へとどんどん進んでいく。
「ニニル、あまり俺から離れるな。危険だと言ったはずだぞ」
ニニルがこれまで遺跡の入り口を破壊した魔獣に襲われなかったのは、おそらく運が良かっただけだろう。
臆病さを捨てることと、脅威に対して無警戒であるということは違うのだが……まぁそのあたりは後でよく言い含めておけばいいか。
下位竜種程度からであれば、ニニルを守ることなど造作もない。
そんなことを考えながら、ニニルの後ろ姿を追い、森の奥へ一歩踏み出した。
「キュッ……! キュキュゥ~~!!」
再生の秘跡がある小さな広場から森の奥へ踏み入ると、すぐに威嚇するような唸り声が耳に届く。
足元を見れば、角の生えた小さな兎が全身の毛を逆立てながらこちらを睨みつけていた。
「なるほど、このあたりは角兎の群生地か。ニニルのような少女が生活できるわけだな」
角兎とは魔領に広く分布する、貧弱な癖におこがましくも立派な一本角をもつ兎だ。
性格は非常に好戦的。
だが力は弱く、よく勝てない喧嘩を挑んでは敗北し捕食される、魔領の食肉の代表格の一つである。
時折間抜けが角兎の突進で怪我をすることはあるが、基本的には子供でも狩猟できる。
発見もしやすいため、その非常に強い繁殖力がなければとっくに滅んでいてもおかしくはないような愚かな魔獣だ。
「角兎の分際でこの魔王ディルグに勝てるとでも思っているのか。フッ……その分不相応な角に頭の栄養を持っていかれているのかもしれんな」
角兎は足に力をため、今にも突進を仕掛けて来そうな雰囲気だ。
だが角兎の大きさは、俺の膝の半分にも届かない。
その体格で突進を仕掛けて、勝算があるとでも思っているのだろうか。
「あっ、いました!」
角兎に憐れみの視線を向けていると、少し先から嬉しそうなニニルの声が聞こえた。
どうやらニニルも見つけたらしい。
ニニルは足元に視線を向けながら、小さくかがみこんでいる。
おそらく既に捕まえたのだろう。
角兎の生息地は食料調達が楽で良い。
とりあえずこの角兎を捕まえれば、二人で二羽。
物足りなさはあるが、とりあえず腹を誤魔化す程度にはなる。
「どれがいいかな……」
しかし、ニニルをよく見ると……ニニルは足元を見ながら、何かを探すようにうろうろとしていた。
既に見つけたのではなかったのだろうか。
角兎はその性格上、逃げたり隠れたりなどしないはずなのだが……。
「あっ、これ、ちょうどいいかも」
怪訝に思って見続けていると、ニニルはそう言いながら足元に手を伸ばす。
拾ったのは……こぶし大の石。
そしてそれをぎゅっと握りしめると、上を見上げた。
それと同時――不意に、何かの影が地面を過る。
反射的に俺も上を見た。
「……ワイバーン!」
――空。
木々の開けた隙間から見えたのは、一頭の翼竜だった。
褐色の甲殻に覆われたその翼竜は、遥か上空を悠々と飛行している。
……どうやら、こちらには気づいていないようだ。
この俺が戦って負ける相手ではないが、今はニニルも近くにいる。
安全を優先した方が良いかもしれない。
「ここはやり過ごした方が良さそうだな。ニニル、木の陰にでも隠れ……」
警告を飛ばそうとするが――その言葉を最後まで言うことはできなかった。
「なっ……これは……!?」
ビリビリと肌で感じる程の、強烈な魔力の発露を感じたからだ。
――近い。
しかもこの危機感を覚える程の魔力、下位竜種のワイバーンではありえない。
上位竜種、いや、それ以上……!?
古龍種――あの災厄とも言える危険な魔獣の存在が脳裏を過った。
すぐに魔力の源を探す。
「えっと……『身体強化』」
魔力の発生源を見ると、そこには石を握って、大きく振りかぶるニニルがいた。
いや、ニニル"しか"いない。
この魔力の密度――体内で精製されるオドではない。
エーテルだ。
そこまで理解し、ようやく気付いた。
「……そうか、新世代」
「えいっ!!」
かわいらしい掛け声と相反して、凄まじい勢いで石が投擲された。
木々が揺れ、通り道にあった枝葉は紙屑のように砕かれ、その石は轟音を上げながら高く高く飛んでいく。
そしてそれは、天空を飛ぶワイバーンの腹に、真っすぐ突き刺さった。
「ギュガァッ!?」
俺は見た。
頑丈な甲殻に覆われたワイバーンの腹部を、ただの石ころが貫通し、爆散させるのを。
ワイバーンは瞳から生気を失い、真っすぐに地面へと落下する。
――ドォン、と大きな墜落音が響いた。
「ディルグ様、やりましたっ! あの大きさなら、お腹いっぱい食べられますね!」
「……なんなのだ。今のアホみたいな威力の一撃は」
ニニルが笑顔で駆け寄ってくる。
その笑顔は、褒めてほしいという気持ちが伝わってくるような、かわいらしい笑みだ。
そういえば五年前、ニニルが俺の食事を配膳したり、角を磨いたりした時も、こんな笑顔を見せていた気がする。
きっと何の取り柄もないニニルにとって、それが唯一誰かの役に立てる瞬間だったからだろう。
――五年が経った。
とはいえ、これはいくらなんでも変わりすぎじゃないだろうか。
呆然とする俺の足を、角兎がコツンと小突いた。
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