第6話「データの書き換えが完了しました」

 暫くして私は、第一エリアに帰還した。長期の出張から帰った時のような疲労が込み上げてきた。私は一仕事終え、大きく息を吐きながら、一休みの意味も込めて、第一エリアに複製されたグランドピアノの側板を肘置き替わりにして右腕を載せ、そこに体重を預けた。上向きだった右手首を側板の曲線に沿うように折り、右掌もそこへ置き、楽な体勢を取った。

 右掌がピアノに触れたその刹那、ポワンッというこれまで聞いたことのない甲高い音とともに、「データの設定を再構築します」というメッセージがいつも通り赤色で世界に表示された。

 初めての文章に戸惑い、ピアノに預けていた体を擡げつつ静観していると、先ほどのメッセージは、「データの再構築をしています」という文章に変化した。

 そのテキストの横には、ひょろっとした魂が自分の後部を追い回しているかのような円運動を見せるひも状の何かがあり、この世界が何らかの読み込みかなにかを行っていることを示していた。これまでのシステムログにこのマークが表示されていなかったことから、今回が他の作業と比較すると多くの時間がかかることを暗示していた。

 これまでの作業は数秒程度で終了していたが、今回の作業はそうはいかなかった。しばらくはこれから世界には何が起こるのだろうかと思案していたが、世界は一切変化せず、眼前のピアノは相変わらず繰り返しの演奏を続けていた。世界のメッセージが更新されるのには、数分が掛かった。

 世界には再びポワンッという音が響き、「データの書き換えが完了しました」という新たなメッセージが掲示された。それと同時にピアノの音色は再生の最中にぶつ切りされた。これまで際限なく繰り返されていた自動再生の終了であった。

 データの再構築・書き換えとは何だったのだろうか。自動再生の終了がそれにあたるのであれば、世界がこの作業にこれほど時間を要したのが謎だ。もっと何か表面には見えない大きな変化があるのかもしれない。

 私はピアノの前に置かれた椅子に座り、これまで一度も触れてこなかった鍵盤部分に指を載せた。

 すると、私の指は何者かに乗っ取られたかの様に、独りでに動き出した。私の意志とは無関係に動くその指は、目の前の鍵盤を以前幾度も繰り返されていたメロディーの通りに弾き出した。勿論私にピアノ演奏の経験はないが、なぜか私の演奏は滑らかで、一つのミスも生まれなかった。さっきまでこのピアノを演奏していた姿なき奏者が、己が身体に乗り移ったのだろうか。

 聞きなれたメロディーを一周分弾いたところで、私の指は止まった。このまま透明な奏者に魂もろとも乗っ取られるかと不安だったが、その心配は徒労に終わった。

 ピアノ以外のオブジェクトはどんな反応を示すのか興味が湧いてきた。この世界でそういった思いつきを試さない手はない。まずはピアノ斜め左後ろに配置されていた、犬が庭を駆け回る映像のホログラムに触れた。

 世界には再びポワンッという音と「データの設定を再構築します」という文言が現れた。後の二つの文章も、順を追って出現した。その出現時間は、先ほどのピアノに比べると確実に短かった。正確には分からないが、大体半分程度の速度だった。

 また「データの書き換えが完了しました」という文言が現れたその時、目の前のホログラムは忽然と消え去った。その代わりなのかは分からないが、私の視界の外から、恐らくその映像に映し出されていた犬が現れた。その犬は映像と同じく無邪気にこの世界を駆け回っている。私が膝を折り、正面に両手を広げると、犬は私の元へ飛び込んできた。

 この犬には大方生命が宿っていなかった。ペットロボのように犬らしい元気さと無機質な身体なの冷たさを持っている。見た目は如何にもゴールデンレトリーバーだが、その実は最初のポエムの立体文字オブジェと同じ素材でできていそうだった。映像の中の犬かそのままこの世界にテレポーテーションしたわけではないらしい。犬を抱えていた両腕を広げ直した。見せかけのゴールデンレトリーバーは再び世界へ駆けて行った。

 次いで私はゲーム映像と音声合成の歌を歌う美少女のホログラムの両方に触れた。結果はどちらも同じであったが、「データの設定を再構築します」という文言等は、どれも全てそれぞれ二回ずつ発生した。

 最終的な結果はさっきの犬とよく似ていた。ゲーム映像の方からは、その映像の中心であった少年の化身がこの世界に召喚され、少女のホログラムからは、そのままその少女が立体と化して登場した。またこの両者が元々いた映像とホログラムも先刻と同様すっかり消えてしまった。

 少年も少女も元データ上のままの動きをみせる。少年はこの世界を徘徊している。少女の方は変わらず歌って踊っている。彼らは所詮居場所が元データからこの世界に移されただけで、その行動プログラムは変更されていないままなのかもしれない。

 凡そすべきことは一通り済んだので、召喚された犬やら少年やら少女のことは一旦置いておいて、もう一度ピアノの前に置かれた椅子に腰かけた。ふっと息が漏れる。

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