第7話「姿なきものへの反抗」

 静止したままのピアノの鍵盤を眺めていると、私は妙な衝動に駆られた。きっともう一度この鍵盤に指を添えれば、私の指は忽ち自動演奏のプログラムに乗っ取られ、聞き飽きたあのメロディーの演奏を始めるだろう。だがそれは抗えないものだろうか。一度目はある種の不意打ちの様なものに遭ったがために指の神経を奪われたが、予め事の顛末が分かっていれば、強い意志を持ってその因果に逆らうことができるのではないか。これは素朴な疑問であり、好奇心でもあった。

 作戦は特になかった。物は試しとはよく言ったものだ。仮にこの思いつきの挑戦が失敗に終わったとしても、せいぜい数十秒も経てば曲が終わり、私の神経を奪うハッカーも何処かへ行って、私は正気を取り戻す。だからこの挑戦は恐るるに足らないのだ。だから恐れを知らない幼子のように取り敢えず試してみることにしよう。

 まずは一度目と同じように鍵盤へ指を下ろした。すると私の指はやはり乗っ取られ、無駄なく目的の鍵盤へ滑らかに運ばれる。想定内だ。私は珍しく落ち着き払っていた。軽く息を吸い込んで吐き出す。そして指先に全神経を集中させ、正体不明のハッカーとの格闘を開始した。少量の緊張感が私を力ませ、筋肉の硬直を感じる。

 全身を張り巡らされているはずの神経が、この両指には繋がっていないのではないかと錯覚するほど、世界は私に無言の抵抗を貫いていた。寸前まであった好奇心は無力感に包み込まれ、諦めの波が押し寄せてきていた。

 その時、透明人間への敗北感から肩の力が抜け、筋肉の柔軟化を感じた。それは私をこの世界に縛り付けていた、形なきリミッターが解除される瞬間であったように思える。やっとこの世界に生を享けた。何故だかそう思えた。挑戦失敗の確信というネガティブな反応が、この一方的な戦況を大きく変えた。覚醒にも近い感覚に陥った私は、改めて全神経を指先に集中させた。

 すると、本来であれば次はミのフラットの黒鍵へ運ばれるはずの左人差し指が、レのフラットの黒鍵を強く押し込んだ。

 それだけ聞くとどんな一流にだって起こりうる凡ミスに思えるかもしれない。しかし、私を操るのは完璧主義の精密プログラムだ。データ取り込み前の自動演奏においても、取り込み後の私の指による演奏でもミスは生じなかった。この世界のシステム史上初めてのエラーであった。それを象徴するかのように、「システムに予期せぬ変更が加えられました」「スキャン及び修復を開始します」という文言が、ピーという耳障りな音とともに表示された。

 いくら堅牢なディフェンダーとはいえ、一度そのガードを崩してしまえば、後は脆かった。私は一つまた一つと指の主導権を奪取し、仕舞には自分の思いのままに鍵盤を押すことができるようになっていた。

 滑らかに、そして軽やかに私の指は鍵盤を弾いている。折角指の独立を獲得したというのに、私はモーツァルトが乗り移ったかのような天才的な演奏をみせていた。ピアノを練習した記憶など更々ないわけだが、どうにも演奏は素晴らしかった。それは自分の才に驚くほどで、そのために私はこの演奏にひたすら傾倒し続けた。

 この演奏すら誰かに操られているのではないかという憂慮も、今はどうだってよかった。今この瞬間はただ目の前のピアノと、音楽という遊びをしていたかった。

 演奏は止まることも休むことも知らなかった。初めは椅子に座り優雅さの帯びた演奏をしていたが、やがて高揚感を抑えきれなくなり、椅子から立ち上がり背を丸めながら、がむしゃらにピアノへ向かった。

 鍵盤に向けていた視線を軽く上げてみると、演奏の盛り上がりとともに第一エリアの光源が留まることなく拡大しているのが分かった。それと同時に第一エリアで相変わらずプログラム通りの動きをみせていた犬と少年・少女にも変化が現れていた。

 犬はピアノの周りをぐるぐると周りながら、時折座り込んでワオンッとピアノのメロディーに合わせたように吠えている。少年はただの徒歩がスキップへと変わり、軽くピアノリズムにノッているが、少々手持無沙汰なように見える。少女は持ち前の歌声を活かして、私のピアノを伴奏にボーカリストとして歌を披露している。全員がこの音楽を楽しんでいる。この世界の中心辺りにでかでかと聳える立体文字も、今ではおしゃれなオブジェにさえ見える。

 第一エリアの光源は、ついに世界の周縁部にまで到達した。つまりはこの世界は完全に光に包まれた。

 その時、世界の各所に新たなオブジェクトが出現した。ギターやドラム、トランペット、夜のビル街を描いた風景画や二匹ではしゃぐ猿を収めた写真、少女のイラストが描かれた一枚絵など種々のデータが投げ捨てられた。

 これまでであればこれらをこの世界に取り込むには、それぞれに触れる必要があった。だが今現れたデータは例外であった。今回世界には、「すべてのデータの取り込み及び書き換えが完了しました」というテキストメッセージが音もなく出現したのみだった。そしてこれらのデータはそのメッセージ通り、元のデータは姿を消し、取り込まれたものは完全にこの世界のものとなった。

 ギターやドラム、トランペットは自動再生されることはなく、世界に楽器本体が配置されているだけだ。夜のビル街を描いた絵は、世界に取り込まれ、以前までの南国風の背景と取って代わった。取り込まれた二匹の猿の画像からは、その二匹の猿の複製体が現れ、一匹はドラムの所に置かれた椅子の上に立ち、気の向くままに太鼓やシンバルの部分を叩いている。もう一匹の方は、トランペットに触れ、それによってトランペットはその猿用に形を変え、猿はその新たなトランペットを自由に吹いていた。余ったギターはさっきまで手持無沙汰にしていた少年が持ち、熟練の奏者であるかのように自然と私のピアノに合わせた演奏をした。


 私たちはこの音楽を盛大に楽しんだ。私が曲調を変えれば他の者たちもすぐにそれを追従した。アップテンポなメロディーになれば皆身体を大げさに揺らし、スローテンポな曲では緩やかな揺れでリズムを取った。つい最近までただのごみ箱だったこの世界がライブ会場のようになった。世界の背景である夜のビル街が一層私たちを解放感に浸らせた。私たちはこの世界、ごみ箱の中で確かに踊っていた。

 私の自然と笑顔になっていた。周りを見渡すと、歌を歌っている少女やギター奏者の少年も笑顔だった。このライブはとても光に満ちていた。私たちはみなこのごみ箱に産み落とされたごみだった。私たちは不要とみなされここへ来たのだ。そんな無価値とされた私たちが、今この世界を席巻しているのだ。ここで繰り広げられている音楽は自己陶酔などではなく、疑いなく素晴らしいものだ。

 ごみにだって希望が、可能性がある。心からそう思えた。今というこの瞬間が本当に楽しい。時間の有限性など忘れてしまいそうだ。軽い言葉だが、永遠に続けばいいとさえ思った。しかしやはりこの世界にも永遠はなかった。ライブの喧騒の最中、ピーという耳障りな音が再び世界に響いた。それは私たちの奏でるどの音よりもこの世界全体へ伝わっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る