第13話 川原礫の登場から始まる「ゲーム」の「新解釈」

 川原礫さんの登場は、ある種の変化をライトノベル、ネット小説に起こしたので、これは極めて偉大な現象です。

 まず、前提としてあるのが、90年代半ば以降のことですが、RPGのテレビゲームが当たり前になっていました。「ドラゴンクエスト」、「ファイナルファンタジー」、「テイルズ」シリーズ、「アトリエ」シリーズ、「英雄伝説」シリーズなどがあって、僕は極端な家庭事情でほとんどスルーしましたが、今、30歳前後の人は、自然とテレビゲームでRPGを遊んでいると思う。

 これが重要な下地で、10年代半ば以降に激しく勃興してきた異世界ファンタジーは、これらのRPGの影響が著しいように見える。後述されますが、異世界転生などにおける異世界が、例えばレベルとか、ステータス、スキル、ジョブなどの部分において、明らかにRPGから輸入された要素を含んでいるのではないか、と思う。

 ユニークなのは、僕の世代や周りでは全く無視されていましたが、TRPGというものがあって、これはテレビゲームのRPGを実際の世界、テレビの中ではなく目の前で再現する遊びのようで、僕も詳しく知りませんが、極端に難解な人生ゲームではないか、と思う。似た感じでは、「桃太郎電鉄」は「モノポリー」を極端に大きくしたように見える、みたいな具合です。

 このTRPGという遊びがどこで起こったかはさておいて、現代の三十代前半以降の人は、そのTRPG的な遊びをより身近に、テレビゲームという形で摂取して、「異世界」を歩き回ったり、戦ったりすることが、まったく自然になった。

 このRPGと小説における異世界ファンタジーは、共有されている価値観や印象が多岐に渡るがために、2020年時点における異世界ファンタジーが逆に、RPGの要素を内包していても、不自然さがまるでない事態になった。おそらくですが、本来的には異世界ファンタジー(というより「ファンタジー」)が先にあって、そこからTRPG、さらにそこからテレビゲームのRPGという発展のはずなのですが、逆転現象が起きたようです。

 ここに至って、むしろRPGの要素を小説において逆用することで個性を出すことができる上に、読者も抵抗なくその個性を受け入れられることになったように見えます。

 川原礫さんの偉大な業績の中でも、「ソードアート・オンライン」が僕の価値観では最も偉大、と、あくまで僕の目には見えます。この作品において、ゲーム世界の生死が、現実世界の生死と直結されたことが、ゲーム世界に意識が完全に没入して第二の現実になる、という設定、夢物語の中のゲームという設定よりも重要ではないか、と今になってみると思えるのです。

 SFにおける意識や精神をゲーム世界に落とし込む試みは、アーネスト・クラインが「ゲーム・ウォーズ」でもやや現実に即した形で使用して、おそらくある種の人種には想像や連想が可能だったと思われるし、はるかに時を遡って2004年あたりですが、「.hack」が世に出た時にも、ゲームと現実が極端に密接な距離になるという世界観は存在しました。この作品でも、ゲーム世界から離脱できなかったし、ゲーム世界での死が現実世界にも影響を及ぼす、という発想が見受けられます。

 僕が注目するべきだと思うのは、ゲーム世界という異世界で生きる、それも死を伴う本当の生を生きる、と設計した時に生じた「異世界転生」の原型が、そこには確かにあるのではないか、ということです。

 ゼロ年代にも、異世界に現代人が取り込まれる現象はありましたがまだ、それはまさしく「異世界」、もう一つの現実で、「ゲーム的異世界」ではなかったように、感じます。



(続く)

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