第8話 谷川流の登場と「涼宮ハルヒの憂鬱」が持ち込んだもの(後編)
この「涼宮ハルヒ」が示したいくつかの要素において、やや不自然にスルーされてしまったのは、SFである、ということだと思います。
ゼロ年代前半という時代に僕の中でのSFといえば、映画における「スターウォーズ」だったり、ライトノベルでは角川スニーカー文庫から出ていた「でたまか」、本当のSFではハヤカワ文庫から出ていた「戦闘妖精雪風」、「デスタイガーライジング」という具合で、つまり当時のSFという分野には特別な盛り上がりはなかった。SFが僕の中で見直されたのは伊藤計劃さんの登場や、フィリップ・K・ディックのハヤカワ文庫からの新装版の登場なのですが、この「涼宮ハルヒ」におけるSFに、比較的近い位置にある作品はおそらく「シュタインズ・ゲート」だと思う。
僕はこの「シュタインズ・ゲート」という作品をテレビアニメで知って、ノベライズをすぐに読んだのですが、それが2010年辺りです。タイムスリップ、タイムリープという時間SFは、「シュタインズ・ゲート」ではかなり明確に描かれるにもかかわらず、2005年あたりの「涼宮ハルヒ」におけるSF要素はなぜかそれほど話題にならなかった。これが、「涼宮ハルヒ」におけるSFの要素は当然、最初から設定されているし、設計もされていると思いますが、「涼宮ハルヒ」はキャラクター小説の要素が強すぎるがために、初期では明らかにSFのシステムが見逃された、と感じます。少なくとも僕は見逃したし、たまたまテレビアニメを部分的に見たときに、そういう構造か! と膝を打った、という記憶がある。
SF小説が再認識されるのは2010年前後ということになるので、「涼宮ハルヒ」はだいぶ時代を先取りしていて、当時、あれだけキャラクター小説という雰囲気で売れたのは自然だったのでしょうが、もっと別の可能性としても売れる要素があった、と僕は思います。
この時期、「涼宮ハルヒ」に僕が見ていた要素として、当時の感覚でですが、ハーレム要素があるな、ということがある。みくる、長門、そしてハルヒ、この3人がキョンを取り巻くのが、なぜかハーレムに見えた。今になってみると三対一など生ぬるくて、「IS」なんかを見て比較すれば本当に生ぬるいのですが、この要素は明らかにギャルゲーが理由でしょう。このギャルゲーとライトノベルの融合は、両者が共にテキストを使って表現するという共通点もありますが、それと同時にギャルゲーのアニメ化が大きな意味を持ったと思います。「君が望む永遠」とか「ダ・カーポ」、「Kanon」、「Air」、「CLANNAD」なんかがアニメ化された時、おおよそ男子一人を中心に複数の女子が関わる、という構図が一般化したのは間違いない。明らかにゲーム畑ではない人にも、そういう要素が伝播して、それがそっくりそのままライトノベルにも輸入されたのでは、と思います。実際的にはその要素の原型はライトノベルには元からあって、それが顕在化した、活性化された、となるのでしょうけど、ゼロ年代前半のライトノベルにおいて極端な性別の偏りは多くないのではないか。90年代になると、きっとほとんどない。
このハーレムに関する考察では、男性より女性の方が先に気づいた気がする。これはゼロ年代後半ですが、ドラマで「イケメンパラダイス 〜花ざかりの君たちへ〜」を見た時、堀北真希さんの周りをイケメンが囲んだり、それより少し前だったか「花より男子」がドラマになった時も、やっぱり女子一人がイケメンに囲まれていた。これは両方とも、漫画が原作でしてあります。もっと踏み込むと「美少女戦士セーラームーン」でさえ、逆ハーレムみたいな要素があるかもしれない。
そうなると、どこかでハーレムというシチュエーションが一部の趣味人の中での市民権を獲得し、それがライトノベルへ波及する場面があったのでは、と思いますけど、ハーレム、ただそれだけで読者を押し切ることになるのが、ゼロ年代のライトノベルの一つの主張になるように感じます。
(続く)
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