第7話 谷川流の登場と「涼宮ハルヒの憂鬱」が持ち込んだもの(前編)

 現代のライトノベル読者の誰もが知っているのは、「涼宮ハルヒの憂鬱」でしょう。

 僕はこの作品はリアルタイムで接しましたが、長編は二巻まで、短編を数本しか読んでいません。詳しい理由は書きづらいですが、一巻と二巻と何本か読んだ短編でおおよそ筋が似ているというのがありました。ハルヒが問題を起こし、キョンが解決する、という形が繰り返される、というのが僕の中では苦痛かな、とスルーするようになり、それ以降も、読む機会はありません。

 では、この作品にどのような偉大な業績があるか、といえば、ゼロ年代前半におけるキャラクター小説の起爆剤だった、というのが一つ目に挙げられます。SOS団の顔ぶれは、明らかに極端に誇張したキャラクター性で押してくるわけで、こういう突飛で振り切れた設定が大衆に受け入れられる、という要素がこの後にライトノベルや創作において大きな意味を持ちます。

 ただ、この設定の突飛さが、谷川流さんの新発見か、と考え始めると、実はそれ以前から脈々と受け継がれた要素ではある、とも思えます。「新世紀エヴァンゲリオン」におけるレイとアスカの対比もありますし、元々はゲームを前提にしてアニメ化されたコンテンツ「ギャラクシーエンジェル」は、メインの5人は極端な人格設定になっている。この辺りがすぐに浮かびます。エヴァは90年代、GAは2001年くらいですね。それより前からあるGAと同じブロッコリーの企画の「デ・ジ・キャラット」にも人格設定の妙があると言えます。

 つまりこうして僕という狭い範囲しか知らない人間から見ても、キャラクター性を重視した設定、世界観というのは、別の分野ではより明確に存在したし、もっと考えれば「スレイヤーズ!」にすらこの要素はあるとも言える。

 ここで問題になるのは、キャラクターを立てる、と呼ばれる手法が、文章という形でどれだけ成立したのか、成立させる技術的なものがいつ成熟したのか、ということになります。

 小説には基本的に絵がないし、声もない。だからどこかで文章だけで、映像のフォローをして、声のフォローをしないと成立しない。これはもっと根深い問題で、キャラクターを立てるということを意図した手法が、セリフを変質させる、という手法や要素に偏ることで、手法の単純化が行き着くところまで行き着いてしまう、という現実に結びつくでしょう。

 ちょうど「デ・ジ・キャラット」のことに触れたので、それを絡めますが、この作品のメイン3人に声色や映像なしの純粋な文字だけで会話をさせると、語尾が「にょ」か「にゅ」かそれ以外、ということで、でじこ、ぷちこ、うさだ、の三人の誰が喋っているのかを読者に理解させることができる。つまり地の文を挟まないで、誰の台詞かを理解させる荒技さえもできる。

 これがライトノベルの面白いところですが、キャラクター小説というものを極端な手法を用いて出現させても許される、という土壌がなぜかライトノベルにはあったらしい。

 それがイラストがあることからくる、アニメとの親和性であり、アニメとの親和性は、どうやら多くのハードルを無視できる要素らしい。

 ライトノベル世界は現実とは違う、全くのファンタジー世界で、そこにはそこのお約束がある、という前提は、ゼロ年代の段階で確立されていた、と思うしかありません。おそらく一般文芸には存在しなかった、ある種の超越が許容されるという前提です。



(続く)

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