報復
◆
私はカナイさんが手配したリムジンの後部座席で、その彼女と並んで緊張していた。
リムジンはすでに防衛省の所有する研究所の敷地に入っている。門衛が身分を確認し、カナイさんの身分で通過した。私は付き添いだけど、やはり身分証は提示した。
カナイさんはいつものパンツスーツ、私も同じような格好である。
聞こえている?
と、頭の中で声がする。ヒルタさんの声だ。彼もすぐそばにいるはずだが、敷地の外だし、きっといつものように適当な変装でもしているだろう。
聞こえています、と私は頭の中で答えた。ヒルタさんが勝手にそれを読む。
状況開始だね、とヒルタさんが言った時には、リムジンは建物の一つの玄関の前に止まる。
降りると、ここにもいる警備員がじっと視線を注いできた。
建物に入る。まるで待ち構えていたような背広の男が、近づいてくるのが見えた。動きからして訓練されており、どことなくSPをイメージさせる。視線の配り方などもそうだ。私たちを前にしながら、決して人間二人だけを見ない。周囲を把握するような動き。
ボディチェックを受けた。私もカナイさんも、何も持っていない。拳銃などは置いてきたし、カナイさんはどうかは知らないけど、私に格闘技の素養はないからナイフなども持っていても無駄だ。
私が下げていたカバンは、その玄関を入ってすぐのフロアにあった、X線で透視する装置で中を確認された。X線でダメになる資料はない。
カバンが返却されて、こちらへ、と背広の一人が案内し始めた。
「落ち着いているわね、シドミさん」
カナイさんにそうからかわれたけど、私はどうとも答えることができなかった。
緊張しないわけがない。
エレベータは何かを警戒したのか、使わなかった。背広の一人が先導し階段を上がる。彼の後ろにカナイさん、次に私、そして最後がまた背広の男だった。
五階まで上がり、廊下を進み、部屋の一つのドアを背広がノックした。
ドアが開き、そこには秘書らしい女性がいる。背広と何かのやり取りの後、その秘書がまさしく営業用の笑みを見せて、こちらへ、と私とカナイさんを中へ導いた。背広の二人はここで待つようだ。
ドアを抜けると、広い部屋で、大きなデスクが目を引く。その手前に応接用のソファが四つ、その真ん中にテーブル。床は絨毯。壁には何かの書が飾られている。
お待ちください、と女性に言われたので、私とカナイさんは立っていることになる。
ほんの数分で、ドアが開き、恰幅のいい男性がやってきた。高級そうな背広を着ている。少し汗ばんでいて、額や頬が明かりを照り返していた。
その男がカナイさんに「先日は酷いことがあったようで」と言いながら、身振りでソファを示した。まずカナイさんが座り、私も腰掛けた。
男性も腰を下ろし、その体重でソファが派手に軋んだ。
「どこから情報が漏れたか、調べているのですが、面白い事実が浮かび上がりました」
挨拶も何もなしに、カナイさんがそう切り出した。
男性は困ったような顔で、微笑んでいる。いかにも作り物めいた、形だけの笑みだ。
「中国人が動いたらしい、とは我々も掴んでいるのですが、どういう理由だったのかな。それに、誰が情報を漏らしたのです?」
「どうやら複雑な交換だったらしいですね」
カナイさんがそういうと、私の方に手を向ける。カバンを開け、私は書類の束を彼女に手渡した。
それがほとんど投げ出されるように、ローテーブルの上に移動した。
「中国人は自分たちがやったということと引き換えに、とある場所から便宜を受けている。実際の襲撃犯はアメリカ人で、こちらもやはり、とある場所から便宜を受けている。全ての黒幕は、その組織です。名前をお知りになりたいでしょう?」
一息にカナイさんがそう言うと、男性は笑みを引っ込め、無感情な顔でカナイさんを見た。
「どこの組織かを私が知ることに、何か意味があるのかな」
「まあ、意味はあるでしょう。誰が国賊か、ということがわかります」
国賊、という言葉に私はちらりとカナイさんを横目で見た。
彼女は落ち着いているどころか、笑みさえ浮かべていた。
この場の支配者は、間違いなく彼女だった。
目の前にいる男性の方は、どこか血の気が引いているようだ。
構わずに、カナイさんが言葉を発する。
「防衛省の非公式組織、情報分室、と呼ばれる部署です。実際に存在する情報部とは違う、秘密の部署なんですね」
「非公式の、秘密の部署?」
「私たちと同じような。つまりそういう、内部での派閥争い、縄張り争いで、私たちは焼け出されたことになる」
男性の頭の中で何が起こっているか、私にはよくわかった。
なぜなら、ヒルタさんの能力を思考転写能力によって一時的に借り受け、目の前の男性の思考を読んでいるからだ。
複数の人間の顔が浮かび、組織の名称も浮かび上がる。
どこで手ぬかりがあったのか。カナイさんがどこまで把握しているのか。誰がその情報を漏らしたのか。内部に裏切り者がいるのか。それともアメリカ人から通報のあった彼らの拠点への襲撃と関係があるのか。
政治家に何と説明するべきか。マスコミはどうとでもなるが……。
目の前にいる二人を、どうやって帰すべきか。
「申し訳ないのですが」
男性がやっと言葉にした。
「私も情報分室のことは知っていても、実際の運用に関しては、それほど知らない。もっともそれはあなた方の組織に関して、私が知らなかったり、あなた方の上部組織が全てを把握しきれないのと同じレベルの、つまり、職掌の問題なんだが」
「アメリカ人を利用するのは、アメリカ政府か、国務省か、その辺りとの兼ね合いですか?」
カナイは容赦なかった。
答えをひねり出そうとしながら、男性がポケットからハンカチを取り出し、しきりに額の汗を拭った。
彼が返答に窮しているのを、私ははっきりと感じ取っている。
「カナイくん」
やっと男が決意を固めた。
「私たちは何も、組織のためだけに動いているわけでもない。私たちが本当に考えるべきは、国だ。国家だよ。政府ですらなく、国家、国民の利益になることなら、何だってする。それが本筋だろう?」
「つまり、私たちの拠点を制圧することが、国益になると?」
「君たちはやりすぎたのだろう。あまりにも、その、過激だった」
カナイさんが口元を手で覆った。
それから、彼女は笑っていた。
男性が胡乱げな視線で、その彼女を見る。
かっとカナイさんの目が開いた気がした。
瞬間、目の前にいる男性の体が硬直する。その頭の中では激しい混乱がある。
体が動かないのだから、当然だ。
カナイさんの語調が、厳しくなる。
「私たちが守るべきものは、確かに国家でしょう。国家のために働くし、国家を守ることもする。しかしそれは、くだらない遊びに参加することではない」
男性の顔が真っ青になった。
ブルブルと手が震えながら、先ほどまでは動かなかったのに、今度は勝手に自分の首筋に向かっていく。
ついに首には両手が触れ、指が皮膚に埋まって陥没していく。
自分で自分の首を絞める、異様な光景だった。その中でただ、カナイさんだけが言葉を発するのも、また異様だった。
「中国人を利用する、アメリカ人を利用する、それはいいでしょう。誰もが何かを利用して、それでアドバンテージを取っていく、よくあるゲームだ。しかしそのために自分が切り捨てられる気分は、どうだ?」
鬼気迫るカナイさんの口調に、今にも男性は失禁しそうだったが、それよりも先に首がへし折れるかもしれない。
「私たちとしてはね、防衛省の平凡な諜報組織などと争っている暇はない。今は全く別の能力、全く別の手法で、世界的に諜報組織が動いている。それは今のところ、私たちにしか対処できない。だから邪魔をしないで」
すでに顔がどす黒くなって、目が飛び出しそうな男性は、頷こうとしたようだ。
その体が弛緩した時、何か、空気そのものが弛緩したような気がした。
自分の首から手を離した男性が喘いで、改めて首筋を押さえながら激しく咳き込み始める。
「ば、化け物め!」
その怨嗟そのものの声にも、カナイさんは動じなかった。
「私たちはなるほど、あなた方から見れば化け物でしょう。しかし今、その化け物が跋扈し始めているのが、諜報という戦場の一局面ですよ。あなたに化け物が倒せますか」
いきなり男性が悲鳴をあげて自分の手を押さえた。
見れば人差し指が逆方向へ曲がっていく。もちろん、何も見えないし、何もその指に触れていない。触れているのは男性自身の手で、自分の指を自分の指で押さえる、奇妙な光景だった。
「よろしいですね? 二度と余計なことはしないで。私たちがあなたをいつでも、どのようにでもできることを、頭に叩き込んでおきなさい。その資料のコピーは私たちが持っていますから、お納め下さいね。そしてしっかりと吟味して、身の振り方を考えるのです」
軽い音がして、次に男が大きく悲鳴をあげた。指が折れたのだ。
すっとカナイさんが立ち上がり、私も席を立った。挨拶をするでも、一礼するでもなく、二人で部屋を出た。秘書が不審そうに見送り、背広の二人は悲鳴が聞こえたのか、明らかに緊張していた。
「医者を呼んであげなさい。見送りは不要です」
あっさりと言葉を投げつけ、カナイさんは元来た通路を戻り始めた。私は慌ててそれについていく。背広の二人は慌てて執務室の方へ消えた。
「こういう残酷なことをするから」階段を下りながら、カナイさんが冗談まじりの口調で言う。「私たちはいつまで経っても化け物と呼ばれるのでしょうね」
私はどう答えることもできず、あとに続くしかなかった。
玄関を出ると、どういう仕組みか、乗ってきたリムジンがすぐにやってきた。
乗り込み、そのまま通りへ。首都高に乗ると、霞ヶ関が見えた。四谷まではすぐだ。
車の中でカナイさんは、さっきの男性が頭の中で何を考えていたか、それが読み取れたかを確認してきた。
「はっきり見えましたが、完璧ではありません。ヒルタさんが読み取って、詳細を克明に記録したはずです」
「あなたの手応えは?」
「警視庁、もしくは総務省か外務省が横やりを入れるのは確実です」
私が慎重にそう答えると、不愉快なことね、とカナイさんはため息を吐いた。
「もっと協力できればいいのだけど、どうしてもお互いに譲れないものが出てきてしまう。だから私たちの舵取りも不自然で、困難なものになる」
何かのぼやきのようなので、私は何も言わずにただ頷いた。
四谷にある上智大学の敷地から地下へ入り、ヒルタさんが正確に私が感じ取ったことを記録していることがわかったので、ホッとした。まだヒルタさんは別の道筋で戻ってくる途中のようだ。
それでも報告書を書く必要があるで、仕事部屋で端末を前に二時間ほど格闘した。
おおよその形にして、休憩しに行くとワタライさんと出くわした。私が聞いていないのに、ワタライさんの方ではアメリカ人の工作員をあぶり出している最中だと教えてくれた。
なかなか休まる暇もないな、と言う彼も確かに疲れを覗かせている。
彼が嘆くところでは、どうも日本の諜報組織はアメリカ人に対して、日本の力をはっきりさせたいらしい。
確固たる情報網があり、打撃力もあることを示さなければ、確かに現状では、日本の諜報組織は無力だと認識されかねない。
大勢の国民が知らないところで、こういった駆け引きが、ありとあらゆる分野で存在するのだろう。
報告書をカナイさんの端末に送信し、私はカナエちゃんを訪ねることにした。例の襲撃の後、彼女はほとんど毎日、仕事に打ち込んでいる。
私にはすぐには理解できない、遥か彼方の光景を鮮明に、かつ詳細に見ることができる彼女は、人間の形をした偵察衛星といえる。しかも積んでいるカメラは自在に物体を透視できる。
情報収集という面においては抜きん出た能力だけど、私は彼女の気持ちのことを考えることが多い。
まるで道具みたいに使われて、それでつらくはないのだろうか。
もう高校三年生で、普通の高校三年生は、受験戦争の真っ只中だ。焦燥感とか、不安とか、やせ我慢とか、そういうものがあるはずの日々に、カナエちゃんがやっているのはベッドに横たわって、ひたすら遠くを見ているということになる。
私が高校三年生の時は、すでに組織と関係があったけど、ほとんどアルバイトのようなものだった。それは私の能力が未開発で、単体では意味がないことから来たのかもしれないけれど、今のカナエちゃんよりは自由だったのは事実だ。
そしてそんな日々は、何より平凡だった。
あの頃の私は当たり前の日々の中に、まだ立っていられた。
カナエちゃんの人生はカナエちゃんのものだけど、もっと別の生き方があるのではないか。
廊下を進み、カナエちゃんの部屋のドアをノックする。返事はない。暗証番号を教えてもらっているので、それを入力してドアを開いた。
中に入ると、シンとしている。明かりは最小限で、全てがぼんやりと見えた。
ベッドに横になっているカナエちゃんが見えた。
目が開いているので、起きているのかと思ったけど、動かない。
まさか、死んでいるのかと思って駆け寄り、口元に手をやった。
呼吸している。死んではいない。
ただ、深く深く、能力に没頭しているだけだ。
私は薄暗い部屋で、どうにか椅子を引っ張り寄せ、そこに座った。
少しすると、いきなりカナエちゃんが瞬きをして、上体を起こした。何度も瞬きを繰り返す目が痛そうだ。
「レイカさん?」
彼女はそう言いながら、ベッド脇のテーブルを探っている。目薬だろうと、私は彼女に目薬の容器を手渡した。
礼を言って慣れた様子で目薬をさした彼女は、部屋の明かりを元に戻すと、私と話をする前に何かをメモに走り書きした。
「大丈夫? 疲れていない?」
そう声をかけると、大丈夫です、と小さな声で返事があった。
カナエちゃんの心理は読みづらいけど、今の発音ははっきりしていて、それほどの疲労はないようだ。
「一緒に食事でもどう? 外で」
「外出するのですか?」
「上の大学の学食にね」
ちらっとカナエちゃんは時計を見た。まだ夕方と言っていい。大学生も残っているだろう。
今までに私一人で、何度か上智大学の学食は利用していた。量はあるし、安いし、味も悪くない。
それに大学生に囲まれていると、どこか自分の気持ちに新しい空気が吹き込まれるような感じがする。
羽根を伸ばす、というのは、こういうことかもしれないと思ったものだ。
カナエちゃんは少し考えて、やめておきます、と答えた。
「どうして? すぐそこだよ」
「今はあまり、外出しない方がいいと思います。危険は、回避するべきです」
何をそんな大げさに、と思ったけど、私自身、昼間には外務省の幹部の男性とカナイさんがぶつかり合うのを見ていた。
どこの誰が敵なのか、どこに敵がいるのか、わからないのは事実だった。
「じゃあ、ここの食堂へ行きましょう。学食はまた、機会があったら」
わかりました、とカナエちゃんが今度は頷き、わずかに口角が持ち上がる。
私たちはいつまで、こんな生活をするんだろう?
それは考えても仕方がないことだった。
私たちはもう、日常とは違う領域に踏み込んでいるのだから。
私たちはその日、地下施設の食堂で食事をした。
どこか味気ない食事も、二人で食べれば、少しはマシだと私は考えていた。
カナエちゃんがどう思っているかは、わからないけれど。
(続く)
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