寝台の上から見る世界

     ◆


 私の体は上智大学の敷地の地下にある施設で、ベッドに横になっている。

 しかし視線は遠くに向けられている。

 アメリカ大使館。動きはない。平常の業務と、平常の体制。駐日米軍基地も全て、把握している。どこを見ても臨戦態勢ではない。

 仮にアメリカ人が私たちを攻撃したとすれば、これは少し、落ち着きすぎではないか。しかし私には知識がないので、確としたことは言えない。

 新宿御苑の拠点はほどほどに破壊されて、しかし今は完全に封鎖されている。新宿御苑自体はもう普段通りに開放され、しかし拠点のあった周囲だけが立ち入り禁止。

 あの襲撃は予知能力者であるカリン捜査官の機転で切り抜けることができた。どうやら何度も何度も夢を見たようで、カリン捜査官はだいぶ疲弊しているように見えた。

 こちらが不安になる場面もあった。

 事態に際して私がしたことといえば、レイカさんと連携して、カオリさんのフォローをしただけだ。

 もし私があの時に拠点の中にいれば、困ったことになったはずだから、足手まといにならずに済んだのにはホッとする。もし私を逃すとしたら、それはかなり難しかっただろう。

 私たちの体制が整うと、即座に反撃のための調査が始まった。

 組織が関係を持っている公の組織や秘密機関は元より、市井の情報屋からの情報収集も行われていた。それと同時に、拠点の情報がどこから漏れたのか、どこへ漏れたのかが、厳密に洗われていっている。

 私もその一環で、こうしてアメリカ人の動向を探っているけれど、しかしどうしても不自然さが見当たらない。

 拠点襲撃の実行犯のうちの幾人かは、カオリさんの部下の実働部隊が倒したはずだが、現場を再掌握した警視庁の機動隊は、その遺体を回収できていない。どうやら襲撃者は撤収する時に、自分たちの仲間の死体をそのままにしなかったようだ。

 手掛かりらしい手がかりはないが、ここが日本だということが、少しはアドバンテージにはなりそうだということも聞いた。そう言ったのはワタライさんで、しかし表情は苦々しげだった。

 とにかく全員が忙しく動いていた。

 アメリカ人の監視はそれから五日で打ち切られることになり、私は次に中国人を見張り始めた。中国大使館。こちらはやや動いている。

 私が属する組織には、警備局の公安課、外事課、国際テロリズム対策課、さらには外務省、防衛省からも情報が入るようになり、日に日に私としては仕事がやりやすい環境になっていった。

 全てが見えるとはいえ、見張る場所がわかっているのは、都合がいい。

 中国人の組織、特に国家安全部の人員は防御を固めているように見える。大使館員に偽装しているものはもちろん、社会に溶け込んでいる工作員、それ未満の学生などに偽装した関係者も、息を潜めている。

 彼らもまさか、立場が露見し、見張られているとは思わないだろう。

 人民解放軍の方は、やや見えづらいが、同様のようだ。

 あまりにも中国陣営は全体的に動きがないので、相当な上位のものから全体に対して何らかの指示があったのだろうとも推測できる。しかし推測は推測、結論でも事実でもない。ましてや真実でもない。

 そうして監視を続けて、さらに五日が過ぎた頃、ちょっとした動きがあった。

 中国の組織に所属しているか、それに近い立場にいるとされていた能力者を一人、引き抜いたのだ。

 正確には、襲撃を受けたところをワタライさんとヒルタさん、カオリさん、さらにレイカさんと、カナイさんまで参加して、救出していた。私も当然、離れた場所から参加した。

 後で情報のすり合わせがあり、どうやら外務省の一部が、私たちの拠点を襲撃したのが中国人である、とアメリカ人に伝えた結果、中国人はアメリカとの無駄な混乱を避けるために手持ちの女性の能力者を切って捨てたらしい。

 そんな都合よくいかないはずが、実際にアメリカ人は中国人に関係するその女性を襲撃した。

 この後、そもそもアメリカ人がなぜ中国人を襲撃したのかが議論の対象になったのだけど、私が知ることはないのだった。

 そうして新宿御苑襲撃事件から一ヶ月と経たずに、全体の中では一部とはいえ、絵図面が見えてきた。

 中国人はこの件には関わっていない。実際にはアメリカ人が行い、それを依頼したのは日本の外務省の一部の高官たちだった。

 つまりはこの一件は日本人同士の、遠回りな内部抗争だったのだ。

 ワタライさんは舌打ちをして、ヒルタさんはため息を吐いた。その場にいた他のメンバーも、それぞれに怒りか嘆きを表していた。

 私達を襲ったのはアメリカ人が手配した武装集団で、アメリカ人と外務省の間に何らかの取引があったのは間違いない。

 中国人が実行犯とされるのを受け入れたのも、中国人と外務省で密約があったのだという。

 入り組んでいて、私には誰が味方で誰が敵なのか、把握が難しい。

「静かな内戦という感じね」

 会議の場で、カナイさんがそう言った。ワタライさんが即座に挙手する。

「で、外務省を叩くのですか? それとも泣き寝入りですか?」

「まあ、嫌がらせくらいはしましょうか。私としても、くだらない作戦の立案者には痛い目を見てもらいたいわ」

 この時から、私たちの組織は実に巧妙に、外務省を切り崩しにかかった。

 私たちの組織が本気になればどうなるか、それを教える必要があった。

 警視庁との連携が密になり、私たちが属している外事課に限らず、捜査二課さえも動いた。あっという間に、外務省幹部が様々な理由、汚職などなどで検挙され始めた。

 同時にアメリカ人の工作員さえもが確保された。これには一時的にマスコミが「アメリカから銃器の密輸が公然と行われていた」とか「アメリカの工作員の潜入を政府機関が黙認している」とか報道し始めるに至って、いよいよ現代日本は混沌とし始めた。

 私たちだけが、ただ淡々と日々を送り、反撃という形でありながら、ほとんど自分たちで自分たちの国を乱しているような形になった。

 私は情報収集を日夜続け、外出も最低限になった。高校は卒業間近だったけれど、休むしかない。

 その日も私はベッドに横になり、じっと外務省の事務次官の執務室を見ていた。

 どこかに電話している。口の動きはある程度は読める。この組織に入って読唇術は身につける必要があったために、今も時間があれば訓練をしている。

 唇の動きは日本語のそれ。電話番号を入力するところも見ていたので、それは後で照会すればいい。

 会話は、私たちの組織が何をしているのか、改めて打撃を与えることは可能か、という趣旨だった。だいぶ激しい調子で喋っているようだが、表情からすると相手の返答には不満らしい。

 電話が終わり、私は一度、現実へ戻った。

 目が痛む。最初にそう思った。霞む視界で、ここが地下施設であることを思い出し、ベッドのすぐ横に寄せてあるテーブルから目薬を取り、素早く両目にさした。

 ここのところ、本当に集中すると目を見開いたまま、遠くを見てしまう。意識がほとんど体から抜け出ていて、いつかの段階で無意識に瞼を開いてしまうらしい。

 潤った目を瞬き、それからメモに先ほどの電話番号を走り書きでメモして、あとはタブレットを手にとって会話のやり取りをそこに入力した。

 ドアがノックされたのは三十分ほど経ったところで、返事をするとレイカさんがやってきた。

「大丈夫? 疲れていない?」

 彼女は例の一件の後、正式に捜査官に昇格していた。大学を卒業して、本業としてこの仕事を始めたのだ。

 私が無言で頷いて見せると、レイカさんは下げていた袋を掲げて「夜食、買ってきたよ」と微笑んだ。

 タブレットの中の文書を今の作戦を指揮しているカナイさんに送信し、それから私はレイカさんと一緒にカップラーメンを食べた。

 私が秘密裏の研究施設にいた時は、カップラーメンなど全く縁がなかった。

 あの研究施設を出てから初めて食べた時には、変に感動した記憶がある。

 レイカさんは私に大学に進むつもりか聞いた。

 その予定だけど、自分が普通に大学生をやっていいのか、という疑問を私は口にしていた。

 私が仮に能力を悪用すれば、いくつかの、いや、いくつものズルができてしまう。

 もちろん、能力を使わずに学ぶつもりだけれど、私を自分自身が他の人間とは違うことを受け入れられても、私が他の人に理解されることがないという現実は心を重くした。

「私はそんなこともなかったけどねぇ」

 ズルズルと麺をすすりながら、レイカさんが言う。

 私が自分の不安を吐露しそうになった時、部屋の電話が鳴り始めた。

 受話器を取ると、相手はカリンさんだった。

「今からおおよそ三時間後、アメリカ人の秘密部隊が動くと思う」

 また未来を見ているのだ。しかしカリンさんの声には高揚はなく、淡々した響きしかない。

「拠点のいくつかが整理されるはずで、そこから資料だけを奪取したい。あなたの力でこちらの奇襲チームをフォローしてもらえる? 正確な場所と時間は……」

 私は言われた座標と時間をメモに書いて、受話器を元に戻した。

 レイカさんが苦笑いしている。

「落ち着く暇もないね」

「すみません」

「カナエちゃんが謝ることじゃないよ」

 急いでカップラーメンを食べ、ゴミはレイカさんが持ち帰っていった。

 私は時間になる前にトイレを済ませ、そこで手を洗いながら自分の顔を見た。

 実験動物だった時とは違う。

 長い髪は艶があり、血色の良い肌は滑らかで、頬もこけてはいない。今、水に洗われている指も、今にも折れそうなあの時とは違う。

 服だって、それなりのものを着ている。

 いつの間にか私は、社会に戻ることができた。

 誰のおかげだろう?

 組織? それとも別の何か?

 どうして社会に戻ることが許されたのかは、考えなくてもわかる。

 能力があるからだ。

 ハンカチで手を拭いながら部屋に戻り、ヘッドセットのイヤホンを耳にさし、マイクの位置を微調整して、ベッドに横になった。

 意識を集中する。

 瞼を閉じているときに見える、濃淡のある闇が徐々に光を持ち、そして私は六本木にあるその建物を俯瞰し始めた。

「聞こえますか」

 私がそう声にすると、イヤホンから「感度良好です」と返事がある。

 それから私は透視している施設の状況と、資料の入った金庫の位置、アメリカ人の様子を伝えた。

 決められた時間までの二時間はすぐに過ぎた。

 遠い場所で、カオリさんの率いる奇襲チームが忍び寄り、アメリカ人の援護部隊は信号機などで足止めを食らっている。

 アメリカ人の拠点の雑居ビルのワンフロアでは、その場に詰めていた構成員が先に資料を破却し始めようとした。援護部隊は破壊不可能なものを運び出す役目だろう。

 破棄される資料が、私たちの目当てではないが、カオリさんがチームを動かした。密やかに、都会のど真ん中で静かにその拠点は制圧された。通行人や近隣にいた人も、全く気付いていない。

 資料が次々と回収される。アメリカ人の援護部隊が回り道をしているが、しかし意図的な事故などでやはり先へ進めない。ついに自動車の中のアメリカ人の一人が拠点に連絡を取り始める。

 その電話に出るべき相手は、すでに無力化されて転がされていると彼らが知ることはない。

 呼び出しても相手が出ないことで、不測の事態をアメリカ人が連想した時には、カオリさんの奇襲チームはたんまりと情報を手に入れて、現場を離脱していた。

 アメリカ人の援護部隊が現場に到着したのは、私たちの撤収の十五分後で、彼らは愕然として現場を見ているのが、私には明確に見えた。

「計画は完遂です。お疲れさまでした」

 私の耳元で、指示をやり取りしてくれた奇襲チームの一人がそう言った。

 ありがとうございました、と私も応じて目を開けようとしたけれど、やっぱり瞼は開いていた。

 痛む目を瞬きながら、目薬に手を伸ばす。

 液体が目をリフレッシュさせたところで、やっと深々と息を吐くことができた。

 これで私は自分が持っている能力の価値、自分という存在の価値を、一つ、証明できた。

 ベッドから起き上がって、部屋にあるケトルに水を注ぎ、沸騰するのを待ちながらとりとめもないことを考えていた。

 普通の高校生は、自分が存在していていいかどうかなんて、きっと考えないだろう。

 考えたとしても、一時的なこと、瞬間だけのことだ。

 普通の人は、生きていること、そこにいることを、自分の価値を示すことなしに保障されている。

 もしかしたら私もそうなのだろうか。

 でもいったい誰が、私のことを知っているのか。

 私という人間は何か、能力と引き換えに、重要なものを失ったのだと思うしかない。

 その何かは、私という人間そのものに関するもので、同時に社会の一員になるために必須なものでもある。

 権利のようなもの。

 誰にだって可能性がある、という言葉をどこかで聞いた。

 あれは高校でだっただろうか。どこかの大人の、自由な発言だった。

 私たちの組織では、可能性なんて言葉はほとんど使われない。

 みんながみんな、今この時に発揮できる限りの全力を尽くすのが当たり前だ。

 何年か後にはできるはずだから、なんて甘い言い訳は通用しない。

 今できないなら、用はない。

 そういう非情さがあった。

 私はお湯が沸いたので紅茶を淹れて、一口飲んだ。香ばしいような、苦いような、不思議な味だった。安い茶葉と、何も考えていない淹れ方のせいだ。

 誰も茶葉のことや、美味しい淹れ方を私に教えなかった。

 それは可能性を切って捨てているのか。

 それとも可能性をそもそも与えられなかったのか。

 紅茶を飲み終わる頃、また受話器が鳴った。思わず時計を見る。二十三時を回っている。

 受けると、相手はカナイさんだった。

「お疲れ様。明日は十二時まで寝てていいわよ」

 たまにカナイさんはこういう言葉をかけてくれる。

 その度に私は両親のことを思い出す。生きているけれど、会いにいけない相手。それと同時に、私が自分の能力でどうしても確認できない相手。

 長い時間が過ぎてしまった。

 もう私とは他人みたいなもの。

 他人になりきれない他人。

「ありがとうございます。そうします」

 私の言葉はいつも通り平板だったけど、カナイさんは何かを感じ取ってくれたようだ。

「まだ忙しい日が続くけど、無理はしないでね」

 私の能力が必要だからですか?

 本当に必要なのは私ですか?

 それとも能力ですか?

 もしカナイさんが目の前にいて、例えばヒルタさんのような精神感応能力を彼女が持っていれば、私の心の中の疑念は一瞬で暴かれていただろう。

 私は自分の頭の中にある言葉を押し込め、答えようとした。

 でもそれより先に、カナイさんが続けた。

「あなたが元気でいることが一番だからね、キリヤさん」

 胸が大きく脈を打ち、それでも無感情に「はい」と平坦で短い言葉で答えていた。

 私の動揺に、気づかなかっただろうか。気づかれなかっただろうか。

 結局、私の疑問に触れるわけもなく、カナイさんは「おやすみなさい」と言って電話を切った。

 私は受話器を元に戻し、無意識に胸に触れていた。

 カナイさんには精神感応能力はない。だからきっと、あの優しい言葉は偶然か、どこかで私が弱く甘いせいだろう。

 そう思おう。

 それにしても心の内を読まれるのは、怖いことだ。

 黒い感情、悪い感情が紛れもなく私の中にはあるから。

 誰にも見せたくないものが。

 もう一度、時計を見て、シャワーを浴びることにした。この地下施設にもシャワールームがある。新宿御苑の拠点より、水がお湯に変わるのに時間がかかる。

 タオルと着替えを手に通路に出る。

 人の姿はなくても、気配はある。

 私たちは今、戦いの真っ最中だ。

 実に奇妙な戦いだけど。

 いったい、誰と戦っているんだろう?

 私は誰と、何と戦っている?

 歩きながら考えたことは、私が私自身と戦い、何かを打ち立てないと、この先、一人の人間として生きていけないのではないか、ということだった。

 でもやっぱり、私は私自身の何と向き合えばいいか、わからなかった。

 ただ一つだけ、弱いことはわかる。

 私はまだ、弱い。



(続く)

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