スカウト

     ◆


 私は板橋駅から徒歩で二十分ほどの住宅地にある、小さな雑貨屋を訪ねていた。ここへ来ると都市化に置いて行かれた場所があり、人がいると実感する。

 薄暗い店内は天井が低く、棚に並べられている商品はビニールで包まれているわけでもないので、分厚い埃をかぶってた。薬缶、鍋、陶器の器、その横がロープの束がいくつか、さらに向かいの棚にはジョウロと植木鉢。商品には全く脈絡がない。

 鼻がムズムズする空気に顔をしかめながら奥に進むと、カウンターがあり、さらにその奥に普段生活するだろうスペースに通じる引き戸があった。

 声をかける前に、その引き戸が音を立てて開いた。

 出てきたのは八十歳ほどの老婆で、背筋は曲がり、足元も少し覚束ないように見える。

 私はじっと彼女を見つめ、彼女は「いらっしゃい」などとガラガラの声で言いながら、カウンターの向こうの椅子に腰掛けた。

「新宿御苑のことだろう」

 機先を制するようにいきなり老婆がそう言ったので、私は口にしようとしていた事を変更する必要があった。

 新宿御苑は三日前から入場禁止になっている。それも全面的にだ。

 三日前の夜、園内で火事があり、その関係での入場禁止だと公には伝えられている。誰にもそれ以上の事を知ろうとさせないように、テレビでも新聞でも、雑誌ですら詳しくは取り上げられていない。

「報道管制は事実ですか?」

 私の質問に老婆が小さく頷く。

「警視庁などというレベルじゃないな。首相官邸も噛んでいる」

「首相官邸?」

「国家として日本が動いているってことさ」

 私はカウンターに寄りかかり、老婆のほうをじっと見た。

 情報屋として、多くのパイプ、それも太いパイプを多方面へ伸ばしていると聞いている。利用するのは今回が三回目で、前の二度は正確すぎるほど正確な情報を買ったのだ。

 新宿御苑の一件の直後、私は中国の諜報員たちから厳戒態勢を取るように、最大限の警戒をするように、という指示を受けていた。それが逆説的に、新宿御苑の事件と諜報員や工作員が関係していることを示していた。

 直接か、間接かは、まだ知らない。

「何があったか、わかる?」

 その問いかけに、老婆は「高くつくよ」と低い声で言った。構わない、という意思表示として頷いて見せると、老婆がわずかに顔を上に向けた。そこには何もないだろう。

「新宿御苑の地下に、秘密基地のようなものを作る計画があると、だいぶ前に聞いたことがある」

「秘密基地って?」

「地下施設だよ。予算は二度目の東京オリンピックに向けた再開発のための資金から、秘密裏に調達された。実際の工事は、新宿御苑の改修と公表された。工事期間中は部分的に立ち入り禁止にしたようだね」

 かなり大規模な動きだろう。よく露見しなかったものだ。そこもやはり、マスコミや好奇心旺盛なものを権力で抑えたのだろうか。

「実際に施設がどうなったかは、長らく不明だったが、つい数ヶ月前、その情報を私に求めてきたものがいる」

「それは誰?」

「顧客の情報は流せない。それに、私に求められた情報はなかった」

 なるほど、と思わず声にしていた。

「だから今回の件には、最初から視線を注いでいて、よく見えた?」

「まさしく、その通りね」

 教えてちょうだい、と睨みつけると、老婆がため息を吐く。

「武装した集団が、地下へなだれ込み、どんぱちだ。怪我人どころか死人も出ている。基地にいたものの大半は行方不明。襲撃した方も、やはり不明。残されたのは放棄された秘密基地」

 その秘密基地とやらは実際に稼働していて、どこかの組織の拠点だったのだろう。

 それも日本が国家として運営する秘密組織のはずだ。

「お代は?」

 私から確認すると老婆が金額を口にする。私は背負っていたデイパックの中から、十分な札束を取り出し、カウンターに積み上げた。この雑貨屋の商品を全部買ってもおつりがくるような額だった。

「羽振りがいいね。どこで儲けている?」

「言えない仕事。ありがとう」

 店を出て、軽くなった背中のカバンを考えないようにして、駅の方へ歩いた。自然と尾行や監視を確認するが、平日の昼間、住宅街で人気は殆どない。どこかの主婦が犬を二匹、散歩させているのが一ブロック先にちらりと見えた。

 いったいどこが日本に喧嘩を売ったのか。

 中国人だろうか。それともロシア人か。韓国人という線もあるが、そこまで含めると、考えたくないが、アメリカということもある。

 平和な世界の、平和ではない裏側の世界。

 同盟だの、友好だの、そういう言葉はこの世界にはない。

 あるとしても形の上だけの、ちょっとしたデコレーションだ。

 誰もが誰もを出し抜こうとする。相手の秘密を知り、相手の弱点を知り、いつでも息の根を止められるように準備している。

 例えば握手した次に、そのまま引きずり倒し、組み伏せるのを意識するように。

 まともじゃない。

 駅へ出て、カフェの一つに入った。窓際の席で、コーヒーカップを前にして往来を見た。

 私に助言した中国人は明らかに慌てていた。それは秘密基地の襲撃に失敗したからか。

 それとも誰かに利用され、中国人が疑われるように仕向けられ、その対処をする必要があるのか。

 しかし、いったい誰が、この日本で銃撃戦などしたのか。

 失礼します、と後ろから声がして、視線を送ると、そこに不安そうなカフェの店員がいた。

「あ、あちらから」

 店員が身振りで示す先には、三十歳くらいの男がいて、ニコニコと笑っている。

 そして店員の手には、店の商品のフルーツタルトが一ピース、皿に乗せられてそこにある。

 ありがとう、と礼を言って、私は皿を受け取り、軟派な男性に頭を下げた。

 さっさとこの店は出たほうがいい。

 直感はこういう時、外れないものだ。

 しかしフルーツタルトを捨てていくのも、目立つ。

「動かないで」

 いきなりの声に、私は悲鳴をあげそうになった。

 その声が頭の中で響いたからだ。

 精神感応による直接交信。しかし、どこの誰が?

 他の客、それともさっきの店員? もしくはフルーツタルトをよこした男?

 視線をさりげなく配っても、誰も不審な動きをしない。例の男は私の視線に、頬を赤らめていた。

「あなたは中国人と関わりがあるようですけど、非常にまずい立場になっている」

 頭の中で声が響く。相手の意図を探ろうにも、私が一人で急に喋り出せば、不審だろう。

「中国人はあなたを使って我々を探ろうとしていた。しかしそれは失敗し、あなたの存在は彼らにとって、不安定な、宙に浮く形になっていた。それが今回の件で、彼らにはあなたの利用価値が出来た」

 どういうことか、じっと次の言葉を待った。

「中国人はあなたを切り捨て、あなたが中国人の手に入れていた情報をアメリカ人に売っていた、という形で、自分たちの落ち度を清算したことにしたがっている」

 なんだって?

 ありえないことではないが、中国人が何もしていないのなら、私なんて放っておけばいいのではないか。それに、相手の謎の人物は、中国人、と表現している。人民解放軍でもなく、国家安全部でもなく、他の組織でもなく。

 しかし、中国のどこかしらが、新宿御苑襲撃に関与している証拠が、日本の組織に察知されたのだろうか。だからこうして私を揺さぶり、取り込み、その上で反撃を企図している?

 あるいは、別のどこかに、自分たちの無実を主張するために、中国に揺さぶりをかけた結果、私が切り捨てられたのか。

 ではなんで誰かしらは私を放っておかない?

 頭の中で声が続ける。

「絵図面については、こちらで調べていますが、あなたはたった今、アメリカ人に包囲されつつある」

 もう一度、店内をそれとなく見た。サラリーマン、主婦らしい三人組、大学生みたいな二人組が二つ。どこも不自然ではない。

「あなたを保護することもできる。どうするか、今、決めてください。受けるのなら、テーブルを指で二度、叩いてください。もし受けないなら、一度」

 私は深呼吸して、フルーツタルトをフォークで切り崩した。

「余裕はそれほどありません。あと、二分で、あなたは終わりです」

 二分か。フルーツタルトを味わう余地はない。

 テーブルに手を置いて、指で叩く。

 一度。

 二度。

「立って、外へ」

 私はため息を吐いて声に従い、フルーツタルトを思い切って手で掴み、もう一方の手では足元に置いていたバックパックを掴んだ。会計は済んでいる。先払いだ。

 自動ドアへ向かおうとした時、客の全員が一斉に立ち上がったので、私は愕然とした。

 全員の顔の作りが、さっきまでとまるで違う。

 くそ! どうなっているんだ?

「全員が味方だ。気にするな」

 発火能力で切り抜けるか、と思った時にそばに寄ってきたのは、例のフルーツタルトをくれたサラリーマン風の男で、さっきまではにこやかで無害そうで、初心ですらあったのが、今は険しい表情に変わっている。眉間には深い皺があった。瞳はまるで狩人だ。

「どこへ行くわけ? そちらはどちらの組織の人間?」

「今、一番ホットな組織だよ」

 男の他に二人、女性が私のすぐ横についた。どちらも上背はないが、細身で、動きがしなやかだ。格闘技の経験が見える。銃器を所持しているかはわからない。

 四人で固まって店を出ると、すぐ前にほとんど突っ込むように車が滑り込んできた。真っ黒い乗用車。ドアが自動で開く。

 瞬間、甲高い音ともに目の前のドアのガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入った。

 狙撃。かなり正確だった。

 私が車に飛び込むと、背広の男がそれに続き、女性二人は遮蔽をとって狙撃手の位置を探している。二人ともが耳にイヤホンをさし、マイクに何か喋っているようだ。

 最後まで見ていられないのは、車がドアが閉まる前に弾かれたように走り出したからで、そのまま法定速度を無視して突っ走り、大通りに出ても先行車を強引に抜き去っていく。

 交差点で信号が青に変わるのを待つ列が見えると、今度は歩道に入り、盛大にクラクションを鳴らしながら走り抜けていく。歩行者が慌てて、転がるように生垣や建物の壁際へ逃げる。

 ほとんど交通事故だ。誰かが撮影してもおかしくない。

「こういう違法行為は咎められないわけ?」

 思わず大きな声が出た。

「まあ」

 私のすぐ横で、背広の男は青い顔で答えた。私の横でシートベルトをつけようとして、失敗している。車が右へ左へ激しく揺れるせいだ。

「まあ、何?」

「一応、超法規的に俺たちは守られているから、法律で裁かれることはない」

「安心したわ。でも巻き込まれた方は、大問題ね」

「まったくだ」

 二人ともがシートベルトを着けた時には、車は車道へ復帰し、一般道をしかしスピードを緩めずに走り続けた。よくある警察の監視装置、Nシステムは誤魔化しているということか。

 が、がくんと衝撃が走った途端、急に車の挙動がおかしくなる。車体後部を振りながら、蛇行し始める。周囲でクラクションとブレーキ音が多重奏を奏でる。

「タイヤをやられましたね」運転席の男が淡々と言う。「正確な狙撃です」

「ボンドカーみたいにはいかないのか?」

 背広の男の冗談に、運転席の男が「あれは映画の中の話です」と冷静に応じていた。

 今、どこを走っているのだろう。南下しているようだが、あまりに早く走っているので、目印をすぐに見つけられない。

 いきなり破砕音とともにリアウインドウが割れた。私も背広の男も身を屈める。

「地下駐車場に逃げ込め! 結局は予定通りだ!」

 予定通り?

 質問する余地がない。

 ほとんどドリフトするように車が滑り、通りの一つを折れると、本当に予定されていたように何かの高層ビルの、地下へ通じる出入り口がある。駐車券を発行するタイプのようだが、私たちが乗る車はバーをぶち破ってそのまま奥に突っ込んだ。

 まさかしっかり駐車するわけもなく、適当なところで車を乗り捨て、運転していた男はそのままどこかへ駈け去った。私は背広の男と二人で、駐車されていた軽自動車の一つに乗り込む。一般的な軽乗用車だが、しかし特別仕様だろう。

「どうしてここに駐車場があるとわかったの? それに車も用意されている。そもそも、私があそこのカフェにいることも知っていた。どうして?」

 助手席で質問すると、男はボタンを押し込んでエンジンを始動しながら、肩をすくめた。

「俺たちは未来を知っている。俺たちは、という表現はあまり正しくはないが。的確な言葉を選べば、俺たちは未来を変えるのが仕事だ。あんたみたいな工作員ごっこは、余技みたいなものだよ。さあ、行くぞ」

 車が動き出し、先ほど破壊されたバーを横目に、しかしきっちりと機械に駐車券を差し込み、料金も支払い、車は外へ出た。

 今度は法定速度内で、のんびりと往来の車の列に混ざった。もう襲われない、とも思えないが、隣の男は平然としている。

「私たちを襲った連中は? もう襲撃はないの?」

「そのはずだ。しかしあとはアドリブだから、わからないよ」

「アドリブって?」

「俺が聞かされた話だと、あんたはあのカフェでアメリカ人に確保されていた。別の話だと、俺たちが助け出しても、さっきの車に乗っている間に対戦車ロケット弾でちょっとした花火に早変わりしていた。でも今はそうなっていない」

 予知できていない状態になった、ということを、この男は言いたいらしい。

 それが目に入ったのは、偶然だった。

 交差点の角。一人の男が何かの筒を担いでいる。

 対戦車ロケット弾。

 背広の男がそれに気づいた時には、もうロケット弾は発射されている。炎が膨れ上がる。

 考える余地はない。

 私の意識が研ぎ澄まされ、火炎が宙を走る。

 突然の爆発と同時に、破片が撒き散らされる。通行人がなぎ倒されるように倒れ、自動車のガラスにひびが無数に入った。炎の後に煙が広がり、視界はゼロ。何かが車に当たる音の重なりは、爆音と比べるとささやかなものだ。

 いきなりの爆発に通りの車列は不規則に停止しているが、私の乗る車の運転手はしかし、全く動じていない。煙の中をスルスルと進んで列の間を抜け、現場を離れようとする。

 途中、何度か側面をこすったが、煙を抜け、大勢が車を止めて爆炎の方を眺めている、その目の前を堂々と走り抜けた。

 私は背後を見ないようにした。

 一般人が巻き込まれている。負傷者が出ているのは間違いない。

 許されることではない。

「助かったよ」

 しばらく走ってから背広の男が低い声で言ったが、私は答えなかった。ただ、フロントガラスのヒビを睨んでいた。

 車はそのまま新宿駅を横に見て、東へ。四谷方面。

 びっくりすることに自動車は上智大学の敷地に入った。狭い駐車場に車を止め、私たちは外へ出た。背広の男はためらう様子でもなく、大学の名前があるビルに入っていく。

 しかしそこから先は、普通ではない。

 どこに通じているかわからない扉を何かのカードで開き、中に進む。私は無言で導かれ、無言で従った。

 ドアの向こうは狭い空間で、また扉。今度はエレベータらしい。

 そのエレベータを待っていると、自分たちが入ってきたドアが背後で開いたので、私は反射的に振り返り、いつでも火炎を生み出せるように身構えた。

 入ってきたのは若い四十代か、疲れた三十代、という感じの女性でパンツスーツ姿だった。

 その女性は私を見て、にっこりと微笑んだ。

「あなたに先を越されちゃったわね」

 落ち着いた声に、背広の男が「無事に済みましたか?」と確認している。女性が「際どくね」と答えた。それからもう一度、私に笑みを向けた。

「ロケット弾の爆発の影響は、市民には出ていないから、安心しなさい。私が防ぎました」

「私が?」

 いずれわかるわ、と女性が言った時、エレベータの扉が開いた。

 三人で地下へ。通路に人気はないが、地下にはある程度の人の気配があるように思えた。

 部屋の一つに入ると、女性が二人いて、どちらも若い。二十かそこらだろう。

 一人は変に無感情な表情をしていて、もう一人は不安げだった。

 その二人ともが、パンツスーツの女性を前にして立ち上がり、姿勢を整えた。

「おおよそ、予定通りです。お疲れ様、二人とも」

 その言葉で、この二人が何らかの能力を持っているのはわかった。地下にいても、何かが出来る能力だろうか。それとも現場にいて、先に戻ったか。

 それならパンツスーツの女性が言った「私が」という言葉は、「私が能力で」ということなんだろう。

 背広の男が状況を説明し始め、その話の中で、「彼女は我々に協力する意志です」と言った。彼女、というのは私だ。

 全員の視線が集中する。

「自己紹介もしていないけど、悪いわね、あまり余裕もないの」

 パンツスーツの女性がやはり冷静沈着な声でそう言い、穏やかな視線を向けてくる。

「私はカナイ・アヤメ。あなたの名前は?」

 私は顔をしかめて見せてやってから、

「ササキ・ハルカ、という名前ですね。一応」

 と、応じた。

 よろしくね、ササキさん。その言葉とともに手を差し出されたので、渋々、私はそれを握った。

「私たちの闘争へ、ようこそ」

 ジョークなのだろうが、笑えないジョークだった。

 しかし私はどうやら、いつの間にか袋小路にいて、そこを無事に抜け出すには、彼らとの協力が是非とも必要なようだった。



(続く)

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