暗殺者
◆
高田馬場の駅から少し離れたところにある、何の変哲も無いコンビニ。
私は少し離れた場所で、スマートフォンを弄るふりをして、じっと意識を集中した。
まだ感覚に引っかかってくるものはなかった。距離がありすぎるかも。
スマートフォンをポケットに戻し、ゆっくりと歩きながら、しかし精神は張り詰め、何かが胸の内側で励起されていく。
コンビニに入った。「いらっしゃませー」と明るい声。
それを聞いた瞬間、何かが確かに私の心に入り込んできたのがわかる。
何もなかったかのように、雑誌の棚の前へ移動。さりげなく深呼吸。落ち着こう。冷静に、冷静に。
事前の情報の通りだけど、さて、どうしたらいいだろう……。
本当に情報の通りなら、対象はこの店でアルバイトをしていて、今の時間はレジにいるという。
それならさっきの声の持ち主が、対象なんだろうか。
ヒルタさんなら一発なのに。
計画段階でもそう意見してみたけれど、私が一番、怪しまれないという結論が出た。
そんなことないと思うけどなぁ……。
私は適当な雑誌を一冊抜き取り、それを手にレジに行った。老婆が一人、会計の最中で、店員はその相手をしている一人だけ。
年齢は、二十くらいに見える。かなりの美人で、それもあって実年齢を測り難い。化粧も上手だし、背が高くすらりとしているのが、平凡なコンビニの制服を着ていてもよくわかる。
雰囲気としてだけど、どこか役者に近い印象が強い。
老婆が去っていき、私の番になった。「お待たせしましたー」という女性の声はどこか甘ったるく、そういう声を作っているんだろう。地声はもっと低そうだ。
八百八十円でーす、という声に、財布の中から小銭を取り出す。
手が触れるのが好ましいので、五百円玉一枚と百円玉四枚。
渡す時は上手く手が触れない。店員の女性は小銭をレジに入れ、すぐにレシートと一緒に十円玉二枚を差し出してくる。
こちらも笑みを見せながら、受け取る時、わずかに手が動いたふりをして、彼女の手と自分の手を触れ合わせた。
背筋がぞわっとする。
次に目から火花が散るような感覚があり、危うく悲鳴をあげそうになった。
「どうかされましたか?」
店員が不思議そうに言うのに、私は「いいえ、すみません」となんとか笑って、十円玉を財布に入れ、雑誌の入ったビニール袋を受け取った。
店から出て、最初はゆっくりと、徐々に早く歩道を歩き、角を三つ折れたところで待っていた自動車に乗り込んだ。
「どうだった?」
運転席でスマートフォンをいじっていたヒルタさんが助手席のこちらを見たようだけど、暗いのでよく見えない。
でも私はそれを声で感じるだけで、目を閉じていた。
「大丈夫?」
「目から何かが出そう」
不安そうな声に、私も同様の不安で答える。
「それで目を閉じているの?」
「開けていいですか?」
いいんじゃない? と言われたので、私は目を開いた。
いきなりだった。
人気のないその脇道の路上を、一直線に火炎が走り、地面に焦げ跡を残してそれは刹那で消えた。
ヒュー、っとヒルタさんがおどけて口笛を吹く。
「本当の発火能力者、ってわけだ」
最初の情報は、中国の諜報組織が使っている能力者の存在で、私たちの組織がその、諜報畑の人間専門の用心棒の存在を知ったのは、ほとんど偶然だった。
偶然と言っても、偶然、予知夢の中に現れたのだ。
そもそも、その予知夢の場面が出現するのは、日本とアメリカの諜報員が接触するのを監視し、情報収集する活動の中でのことになる。日本人は防衛省の人間で、アメリカ人は国家安全保障局。国家間の秘密の打ち合わせである。
私たちの組織は予知夢という材料もあり、中国人によるアメリカ人への干渉はうまく切り抜けることができた。逆に中国人の諜報組織には警告を与えた形だ。
その中で私たちの組織は、用心棒の存在に興味を惹かれた。
自動車が爆発していた。それも事故現場や車の残骸を検証しても、爆発した理由がわからない。
特別に爆薬を使っているようではなく、ただ、いきなり燃料が誘爆したようで、そんな事故が起こることは構造上、ありえない。
つまり、何かしらの能力者と見るよりない。そうなった。
無駄な混乱を避けるために、私たちが属する業界では、意図的な衝突は回避する傾向にある、と私は聞いている。業界というのは、諜報畑のことだ。
たとえ見えていても見えていないふりをして、たとえ聞こえていても聞こえないふりをする。
そうして情報を集め、必要な時に切れる手札を用意しておく。
それでも組織としては、謎の能力者を追跡することになり、こうして私とヒルタさんが動員されていた。
ヒルタさんの精神感応で何かわかりそうなものだけど、それよりは私が今は思考転写能力と呼ばれている力で、対象の能力を写し取ればいい、とヒルタさん自身が主張した。先輩の言うことだし、と従った結果、うまくいくか不安だったけど、少なくとも最低限の確認は取れたのだった。
「コピー忍者はいつまで発火能力を使えるわけ?」
ニヤニヤと笑うヒルタさんに、もう使えませんよ、と私はそっけなく答えて、まだ抱えていた雑誌の入ったビニール袋を雑に後部座席に投げておいた。特に興味のない雑誌だし、経費で落ちる。
「一度か二度ってものです。それより、あの女性をスカウトするのですか?」
「追加情報が届いているよ。はい」
差し出された書類には部外秘のスタンプが押してある。こんなところで、部外秘も何もない。
レポートをめくると、どうやら対象の女性が二日後、襲撃されるらしい。
それを私たちの組織でうまくフォローして、貸しを作る計画。
「こんな回りくどいことしないで、仲間になりませんか、って聞けばいいんじゃないですか?」
「頭をライフル弾で打ち抜かれる前に? それとも後に?」
思わずため息が漏れてしまう私だった。
ヒルタさんがあくびをして車のエンジンを始動し、ゆっくりと発進させた。
二日はあっという間に過ぎ去り、私は何の変哲もない夕方から夜に変わろうとする高田馬場の駅前で、高層ビルの一室にいた。
すぐ横にいるのは、真っ黒い衣装で統一した女性で、名前はカオリと呼ばれている。
アジア系っぽい顔立ちだけど、日本人とは少し違う。髪の毛は灰色で、地毛なのか染めているかは聞いてないけど、それが混血をより強く意識させる。
上背はかなり高く、モデルにもなれるだろう。ヒルタさんよりもワタライさんよりも背が高い。
目元は涼しげで、ほとんど感情らしいものはないけど、ふとした時に穏やかさを見せる。
今は窓際に事務机を寄せ、その上に寝そべるカオリさんは狙撃銃を構えていた。
対象が来ると予知されている時刻まで、五分を切った。
私のスマートフォンに短いメッセージが届く。始めます、とだけある。
一度、深呼吸して、「始めます」と声にすると、カオリさんが「よろしく」と応じた。硬質な、どこかガラスを思わせる声だった。
私の能力、思考転写が始まる。
訓練通り、今、私とカオリさんがいるビルの屋上にいるカナエちゃんの透視能力を、私が読み取り、それをカオリさんに流し込む。
私自身には何の能力もない。
ただ他人の能力を他人に受け流す、中継機にはなれる。
私の目はカナエちゃんの目になっていて、それは透視というより、俯瞰視とでも呼ぶべきものになっていた。
高田馬場の駅前がすべて把握できる。距離も、遮蔽も無視して、全てが把握される。
時刻は、予定時刻、十八時三十五分になろうとしている。
視界がフォーカスされ、通りを人波の中に入る形で、例のコンビニ店員の女性が進んでくる。こちらにはまるで気づいていない。
気づくわけがない。
視界がめまぐるしく変化し、私たちがいるビルとは五百メートルは離れているビルの一室を私は覗き見ていた。
そこには目立たない服の男が、不釣り合いなライフル銃を構えている。人を殺すのに十分な武器。
狙っているのはあの女性だ。
現実世界で、カオリさんが即座に姿勢を取り直し、自分の狙撃銃の銃口を対象の狙撃手に向け直す。
ギリギリだ、と私は思った。
カナエちゃんの視覚情報をすべて加味して、カオリさんが銃口の位置を微調整。
「レイカ、相手に私が見ているものを流し込める?」
私は答えなかった。
集中は極端なほど高まっている。
私の思考転写能力により、カナエちゃんの見ている映像が、所属不明の狙撃手へ走る。
同時に私の判断で、あのコンビニ店員にも向ける。
二人ともがギクリと動きを止める。
狙撃手は自分が狙われている光景、女性は誰かが狙撃手を狙っている光景を、一瞬、脳裏に展開されただろう。
その一瞬の停滞は、一人の命を救った。
私のすぐそばで、空気の抜ける音。
カナエちゃんの視野で、銃弾がまっすぐに飛んでいくのが明確に見えた。
ガラスが割れ、弾丸が室内に飛び込み、狙撃手の右肩を撃ちぬき、貫通する。男が倒れこみ、ライフルを取り落とす。
私のすぐ横では、カオリさんが次弾を装填。
私はまだカナエちゃんの視野をカオリさんに送り込んでいた。
正確な情報。正確な技術。
二発目で、狙撃手は腹を打ち抜かれた。
即死ではないけれど動くのは困難になった。今、組織の意図で警視庁の外事情報部の警官が現場に急行している。
私はほっと息を吐き、カナエちゃんが視線を例の女性に向け続けているのを確認した。女性がなりふり構わずに駆け出し、駅の建物に飛び込むのを、私たちは最後まで見送った。
能力を切る。私の感覚が本来の私のものになった途端、汗が吹き出した。
「さすがですね、カオリさん」
額を拭いながらこちらからそう声をかけると、すでに銃をケースにしまおうとしているカオリさんが、わずかに口元に笑みを浮かべた。
「あんなに正確な観測があれば、誰だって当てられる」
「でも、五百メートルはありましたよ」
「実際は六百メートルくらいかな。まあ、本当の狙撃兵なら、一キロメートルくらいは当てる。もちろん、こんな七・六二ミリなんていう弾丸じゃないけどね」
言いながらカオリさんが床から空薬莢を回収した。他の後始末は組織がやってくれる。
二人で地上へ降りると、一足先にカナエちゃんが待っていた。無表情でぼんやりとどこかを見ている。
私はもう、思考転写に神経を使いすぎて、ヘトヘトだった。
「何か食べて帰りましょう」
カオリさんがそう言うと、カナエちゃんがやっと視線を私たちへ向け、私をまっすぐに見た。
私の意見を求める眼差し。
「そうしましょうよ」
私がカオリさんの意見を支持すると、やっとカナエちゃんは頷いた。表情に変化はないけど、目の光り方で嬉しそうだと察することができる。
歩きながら、カオリさんはヒルタさんのことを気にしているようだった。
カオリさんもヒルタさんも、精神感応能力者だけど、実力的にはヒルタさんの方が優れた能力を持っている。カオリさん自身は自分のことを、ちょっと他人の心が読めるだけ、と表現していた。
ただ、実戦となるとヒルタさんがカオリさんに勝てる場面がないのもまた事実だ。
カオリさんは元は自衛隊員という経歴で、銃器の扱いはさっきの通りだし、格闘術は素手でもナイフでも、とにかく凄いということだった。
それは正しい情報だと私ももう確信している。
ワタライさんが元は警官で、柔道の有段者らしいけど、カオリさんとはやりたくない、と真剣な顔で漏らしていたこともある。
普段のカオリさんはもの静かだけど、暴力に関しては私たちの班の中ではピカイチだ。
しかし書類仕事などは好きではないようで、拠点の仕事部屋には机さえない。我らがボスは、カオリさんに別の仕事を任せている節がある。
食事は駅ビルの上の階にあるレストラン街で、適当な中華料理屋に入った。
私が払いを持つから、とカオリさんは言ってくれたけど、私もカナエちゃんも遠慮して、ほどほどにしか注文しなかった。
料理が来るまで、カオリさんは私とカナエちゃんに勉強について質問して、私はできるだけ具体的に、カナエちゃんはいつも通りに簡単に、説明をした。
「こんな因果な商売なんて、いつ辞めてもいいのよ、二人とも」
何か含みのある様子でそう言われて、私は笑ったけど、カナエちゃんは無言でじっとカオリさんを見ている。
「若者はもっと自由に、夢を描きなさい。カナエちゃんだって、まだ先は長いんだから」
「はい」
珍しく、カナエちゃんがはっきりと返事をした。
満足そうにカオリさんがこちらに視線を向けたので、私も慌てて「考えます」と答えた。
その日は食事の後、一度、拠点に戻った。千駄ヶ谷門から新宿御苑へ入る、と言っても、時間帯によって管理者が使う通用門を使う。逆に不自然な気がするけれど、木を隠すなら森の中、ということだろうか。
地下施設で我らがボスに報告し、私はそれから挨拶をしようと、カリンさんの部屋を訪ねた。
彼女はベッドに入る前だったらしく、寝巻き姿で私を出迎えた。しかし嬉しそうだ。
「ちゃんと言いつけ通りにやったわよね?」
この女の子はいつもこんな調子で、大仰な言葉を選ぶ。言いつけ、というのも、ただの事前の計画のことだ。
きっと私をからかったり、混乱させて、面白いんだろう。
でもそういう必死なところが、この女の子の切実な、そして悲痛な境遇を意識させる。
「カリン捜査官の通報の通り、事態は推移しました。次の動きはもう、予知されていますか?」
「わからないわね。これから、数日か、数週間が山だと思うけど」
「そうですか」
他に何も言うことがない。本当に、ただ会いたかっただけなのだ。それが私のエゴ、傲慢な自己満足だとしても。
私が短い言葉を残して部屋を出ようとすると、寸前に、お茶でも飲む? と誘われた。
「こんな時間では、眠れなくなるのではないですか?」
「眠れなくなることはないのよ。予知夢を見るには都合がいいことに」
断るのも悪い気がして、私は部屋に入って、椅子の一つに腰を下ろした。すぐにカリンさんが紅茶を用意した。ミルクかレモンか聞かれたので、ミルクと答えると、小さなポットでミルクもちゃんと出てきた。
しばらく二人でお茶を黙って飲んでいた。
「いつか」
カップをテーブルに置いたカリンさんがこちらに笑みを向ける。
「私にも、カナエちゃんが見ている世界を見せてね、レイカ」
急に何か、胸が締めつけられるような気持ちになった。
目の前の女の子は、ずっと地下にいる。私が知る限り、地上へ出たことはほとんどないだろう。それも数年の間に一度もだ。
予知夢の中で、この女の子は様々な場所の、様々な人間の未来を見ることができるのに、実際の世界、現在の世界には、少しも接することができない。
その齟齬は、もしかして、すごく大きいんじゃないか。
予知された未来から脱線した世界を、彼女はほとんど知らない。
知らないまま、結果もわからないまま、次々と世界を書き換えている。
私は黙っているわけにもいかず、「許可を取ってみます」と言ってみたが、カリンさんは「きっと無理でしょうね」と笑って聞き流していた。
さみしさを巧妙に押し隠しているように、私には見えた。そんな気がしたのは、考えすぎだろうか。
お茶が終わって私はカリンさんの部屋を出たけど、その時にはカリンさんの様子を誰かに話したい気持ちになっていた。
ちょうど近かったヒルタさんの仕事部屋を覗くと、椅子にもたれかかって眠っている。ドアの鍵は開けっ放しだった。
風邪、ひきますよ、と言おうとした瞬間、ヒルタさんが急に目を開いた。
「風邪をひかないように空調を加減してある」
笑ってみせる彼が言う通り、部屋はやや暑いほどだった。
まったく、心を読むなんてデリカシーがない。それに眠ったふりとは。
「男にデリカシーを求める方が悪い」
また心を読まれた。
「そういうのがデリカシーがないっていうんです」
さっきまでの不安な気持ちはすっかり消えている。帰ることにしよう。ヒルタさんに心を読まれ損だ。
「例のお人形さんは、どうだった?」
挨拶もなしに背中を向けようとした私に、ヒルタさんが声をかけてくる。彼は椅子に座ったまま、こちらに向き直っている。
「そのお人形さん、っていう表現、よくないですよ」
「まあ、そういう風に見えるっていう程度の意味だよ。他意はないし、悪意もない」
「そういう言い逃れ、通用すると思います?」
「シンウチ・カリン捜査官はご健勝だったかな?」
まったく、この人ってば。
「お元気そうでした」
そうかい、としかヒルタさんは答えなかった。
私は結局、挨拶をして部屋を出た。地上はいつもの夜の中にある。新宿御苑は閉園時間を大きく過ぎていて、人気はない。千駄ヶ谷門まで、ゆっくりと歩きながら、何気無く頭上を見た。
広い公園を取り囲むビル群の明かりの中でも、星は見える。
ささやかでも、星は星だ。
こんな光景すら、彼女は見ることがない。
反射的にため息をついていた。
却下されるにしても、一度、カリンさんを連れて外出できるかどうか、申請してみよう。
昼間の街中なんかじゃ無くてもいい。
この公園の中でも、夜の短い時間だけでもいい。
ほんの一筋、風が吹くまででもいいから、彼女に世界を実感させたい。
予知夢ではない、本物の世界を。
私はしばらく、いつの間にか歩き慣れている道を、頭上を見上げたまま、歩いた。
(続く)
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