権力
◆
我らの、新宿御苑の地下にある施設は、秘密が上に秘密なので部外者が入ることは滅多にない。
それがたとえ、犯罪者でもだ。
「腹をぶち抜かれて、よく回復したもんだね」
ドラマでもニュースでも、テレビの中で数え切れないほど登場する警視庁のビルにある一室で、俺は隣にいるカオリに囁いた。
彼女は憮然としているように見えるが、元からあまり俺には感情を見せない。
「ちゃんと狙ったから」
ボソッと彼女が答える。
俺と彼女がいる部屋には他に捜査一課や公安から様子を見にきている男が二人いて、どちらも背広を着ている。ついでに俺たちと同じ外事情報部の者もいる。全員の背広がワタライさんのような安物ではなく、本物の、そうとわかるものにはわかる高級品だった。
俺もいつかは着てみたいものだ、と、目の前のガラスにうっすらと反射して映る連中を眺め、そのガラスの向こうで変化があったので、視線の焦点をそこに合わせた。
「この取り調べは記録されているんだろうな」
その日本語には不思議な訛りがある。
ガラスはおきまりの通り、マジックミラーで、向こうからは鏡にしか見えない。
そのマジックミラーの奥の部屋は取り調べ室で、窓があるが格子がはめられ、狭い室内はテーブルと椅子でほぼいっぱいだ。テーブルの向こうには男が座る椅子、こちらに背を向けて刑事が座っている。もう二人の刑事がいて、一人は記録係、もう一人は通訳だが、必要なさそうだ。
容疑者の男の言動には何か、既定路線のようなものを感じる。
今時、警視庁だろうとどこだろうと、記録を取らないわけがない。むしろ被疑者の方からすすんで映像と音声を記録する。いざという時には裁判その他で有利に働くという発想である。
「あなたは銃器を所持していたことで、ここにいるのです、えっと、馬健計さん」
バ・ケンケイ。その名前は警視庁のデータベースどころか、うちの組織のデータベースで調べても出てこなかった。偽名で、しかもフレッシュな偽名だ。
男はむっつりとした顔で、「弁護士は」と言ったが、刑事がすぐにやり返す。
「あなた自身がご存知のように、あなたは非常に特殊な立場です。どうやって銃器を持ち込んだか、銃器を手にあのビルで何をしていたのか、そういうことを教えていただけませんか」
「弁護士と会うまで、言うことはない」
「来るとでも?」
刑事が朗らかと言ってもいい声音でそう恫喝すると、男が顔を一層、しかめる。
「今の発言、記録されているんだろう? いいのか、脅迫などして」
「いいのかどうか、試しますか」
また沈黙。
うんざりした俺がため息をつきそうになっているところに、俺の横に立つ背広の男が小さな声で耳打ちしてきた。外事情報部の一員。
「そちらの手法で、事実確認していただきたいのですが」
俺より二十は年上だろう男が、こんなへりくだった態度をとるのは逆に落ち着かない。優越感とか、満足とか、そんなものは少しも発生しなかった。
今度こそ俺は溜息を吐き、「やりましょう」と答えた。
部屋を出て、取り調べ室へ入る。背広の刑事が揃って目を丸くしている。当の偽名の男だけが無言で、無反応だった。
誰も何も言わないまま、俺は取り調べ役の刑事と交代し、偽名の男の向かいに座った。
俺は机の上を見て、呼吸を整えた。
目を閉じる。
「おい」
偽名の男が口を開き、何かを言いかけたところで、彼は動きを停止する。
精神感応の中でも、極端なレベルで俺の精神が男の精神と一つになっていく。
自分の名前、トーマス・ワン。年齢、三十一。アメリカ国籍。民間警備会社、セキュリティ・ソー所属。
依頼主。中国。国家安全部。詳細情報は曖昧。報酬の上乗せで、情報を受け取らないのを受け入れた。
武器の密輸屋。輸入商から在日米軍基地へ。数万円のチップで米軍兵士から受け取る。
ターゲット。所属不明。名前も不明。写真と行動範囲のみ。
依頼。暗殺。
退路。現地の国家安全部の工作員のフォロー。事前の打ち合わせで顔は知っている。日本人。
精神の融合が始まる兆候があり、俺は素早く自分の精神と男、トーマスの精神を引き剥がした。
どっと疲れが押し寄せ、汗が噴き出す。
重い音を立てて倒れこんだトーマス氏は、受け身も取らずに机に額を衝突させていた。そのまま動こうとしない。
死んだように見えるが、生きている。
俺は息を吐いて、慣れないワイシャツの首元のボタンを外し、ネクタイを緩めた。部屋にいた刑事が、慌てて昏倒したトーマス氏を介抱し始めている。
隣の部屋で見ていた連中がやってきて、トーマス氏に手錠をかけ直させ、担ぎ出すようにして部屋から連れ出していった。
いやに大慌てじゃないか。
最後にやってきて俺の前に立った背広の男は、何度か顔を合わせた、外事情報部の部長補佐の刑事だ。彼が何か言うより先に、俺は手のひらを向けてそれを押しとどめた。
「疲れたんで、後で報告書を提出します」
「つまり、我々にできることはないと? ヒルタさん」
我々が誰だか知らん、と言い返したかったが、その気力もなかった。
疲れ切ったとはまさに今の俺のことだ。
背広の男は「失礼する」と口にして頭も下げずに出て行った。報告書はなる早で、ということか。
これから報告書作りなど、できるもんか。
さっさと眠りたいという希望は、さて、通るかな……。
やっとカオリが入ってきた。
「よくあの一瞬で狙えたもんだ」
トーマスの精神に没入した時、カオリが狙撃した場面がよく見えた。
あれはレイカとカナエとの三人の合わせ技で、不幸なトーマス氏は自分の視覚に、他人の映像を見せられていた。
それもよりによって、自分を狙うカオリの見ている世界をだ。
まず肩をやられ、次に腹をやられた。
俺には痛みも、弾丸が腹を突き抜けるのも、はっきり感じ取れた。二度と感じたくないが。
「慣れているから」
カオリが得意そうでも謙遜するようでもなく、淡々と応じる。
俺はこの女のことをそれほど信用していない。
汚れ仕事、濡れ仕事が、俺はあまり好きではない。そもそも必要とも思っていない。
ただ、そうも言っていられないのが現実らしかった。
「どこかで飯を食って帰ろう」
不愉快な相手でも、コミュニケーションは大事だ。俺はゆっくりと席を立とうとして、疲労のせいでわずかに体がぐらついた。
素早く、腕を掴んでカオリが支える。
触れ合った瞬間、お互いの精神感応が共鳴し、俺は手に引き金の感触がある気がした。
スコープの中の光景。
男を狙っているわけではない。男より少し上。
同時に周囲の光景も思考に入っている。
風の流れさえ見えた気がした。
指が動く。消音器による些細な銃声。
弾丸が飛翔する先を、リアルに思い描いている自分がいる。
ゆるい弧を描いて、弾丸がビルの間を抜け、ガラスを破り、わずかにぶれる。
それさえもが計算のうち。
トーマス氏の肩に吸い込まれるように着弾。
「大丈夫?」
カオリの声に、俺はやっと気を取り直した。
ああやって無感情に引き金を引いて、この女は何人の命を奪ったんだろう?
「疲れたよ。他人の精神を写し取るのは、俺には酷だ」
「あなたにできないなら、私にもできない」
カオリが精神感応を使うのは知っているが、テストの結果でも、検査の結果でも、俺より二段も三段も劣る能力しかない。
とにかくうちの組織は人材不足が深刻だ。
もともと、設立されて間もないこともあるけれど、それでも実戦的な能力や、実際的な能力はまだこれから増強が必要になる。
今はお人形さんが見た夢を、みんなで必死になって変えているが、そのうち、手が回らなくなるだろう。どうやらあの地下に隠されているお人形が見る夢のうち、俺たちが対処しているのは八つに一つとか、十に一つという具合らしい。
入館証を返して警視庁の建物を出る。並んで歩きながらあの不幸な暗殺者、トーマス氏に関する雑感を交換した。
傭兵で、つまり事情は何も知らない。しかし腕前は一流だった。
ターゲットにされた女は、どこかしらの組織か国家に消えて欲しいと思われている。
その女には先にレイカが接触していて、能力者だということはわかっている。珍しい発火能力者で、どうやらどこかの秘密組織の一員だったか、それに限りなく近い立場にいた。
となると、俺たちの組織の庭で、よその組織が殺人ゲームか、権力ゲームをしているのだろうか。
「狙撃銃を使うのが、悪質だわ」
不意にボソッとカオリがそんなことを言う。乗ってやろう。
「射殺された死体は目立つし、大事になるだろうな。しかしそれは子どもでもわかる」
「挑発かも」
「挑発って、俺たちを現場に引っ張り出すためのか? お人形さんが裏をかかれたと?」
時間帯が昼間なので、官庁街にはそれほど人通りは多くない。
急に立ち止まったカオリは、それでもだいぶ目立っただろう。俺も足を止めた。
「そういう言い方、良くないよ」
低い声に、本当の殺気がある気がして、俺は思わず口元を歪めていた。こういう正義をかざすところも、好きになれないところだ。
「ちょっとしたジョークだよ。それで、裏をかかれたと思うか?」
議論を先へ進めようとしても、カオリはじっとこちらを睨んでいる。俺も睨み返した。
しかし、不毛だ。
バンザイして見せてやる。
「悪かったよ。気をつける。すまん」
謝罪に無反応なままカオリが再び歩き出し、俺は足を速めてそれに並んだ。
「裏をかかれたかは知らないけど、誰かしらが、こちらが未来を読むことを把握しようとしたのかも」
「じゃあ、あの発火能力者の姉ちゃんは餌だったのか」
「事前にレイカちゃんが様子を見たと話していたから、こちらが興味を持っていると見られた可能性はある」
だいぶ、キナ臭い展開だった。
そちらでも所感を報告書にして出してくれ、という一言で、俺は話を打ち切った。
二人で千駄ヶ谷駅のそばの小さな居酒屋で食事にしたが、カオリは酒は飲まないし、食事も質素だ。そして口数が少ない。つまり一緒に食事をして、楽しいとはお世辞にも言えない。
別に接待しろとは言わないが、もっと楽しい食事にしてくれれば、俺の中の印象を好転するはずだ。
しかし、彼女は俺と食事などしたくないのかもしれない。
結局、一時間ほどでおひらきになり、彼女はどこかへ消えていった。瞬間移動のように、綺麗に人波の中に消えていく。
俺は少し考えをまとめるために、何度か利用した古くからある喫茶店に入った。静かな店内の奥の席でノートにメモを書き連ねていく。
精神感応で見た光景や感覚、情報には波がある。
ある時には見えたものがある時には見えず、ある時には見えなかったものがある時には見える、ということがままあるのだ。
喫茶店には結局、三時間も居座った。コーヒー三杯とケーキ二つ。こちらの方がよほど食事らしい満腹感だ。
すでに暗くなった道を歩き、千駄ヶ谷門から新宿御苑に入り、回り道をして地下施設に入る。
サービス残業という柄でもないが、例の刑事の様子を見ると早い仕事が好ましいだろう。ただ、仕事部屋に向かおうとしたのが、気が変わった。
すでに夜も深く、施設には誰もいないだろうと思ったが、ちょうどシドミ・レイカが彼女の部屋から出てきたのだ。
少し遅れて彼女もこちらに気づき、「お疲れ様です」と笑みが向けられる。
こういう可愛げが、カオリにはないんだよなぁ。
「取り調べはどうでしたか?」
そう質問されてまず考えたことは、居酒屋で飲みすぎなくてよかった、ということだ。組織が若いせいで規則が厳密ではないが、職務中の飲酒は禁止だ。今の俺は、時間外のサービスで仕事をするためにここにいるとはいえ、グレーゾーン。
それに、うら若き乙女の印象を壊したくはない。コーヒーを飲んだのは良かった、アルコール臭が誤魔化せるはずだ。
「俺が能力で容疑者の頭の中に入った」
まっすぐに立ってレイカは真剣に聞いている。自然と、おおよその感触を彼女に伝えることになった。
「じゃあ、狙われたのはあの女性じゃなくて、私たちですか?」
「そういう可能性もある、ということだな。カオリが言うにはね。どこかは知らんが、中国、ロシア、あるいはアメリカ、ヨーロッパのどこか、そんなところか」
「全世界じゃないですか。私たちを意識する意味って、何かあるんですか?」
悪くない質問だが、答えが出る問題でもない。
「どこの国にせよ組織にせよ、懸念はあるかもね」
そう言い返しながら、俺は無意識に緩めたままのネクタイに触れていた。
「俺たちは未来を変えている。それはこうして内部にいると当たり前に見えるし、事実なんだけど、外部から見れば眉唾だ。そうなれば、まずは本当に未来を変えているのか、そもそも未来を読めるのか、それを検討する」
「外堀を埋めるように?」
「そういうこと。だから今回の件は、俺たちが動くか動かないか、際どいラインの未来で、結果としては俺たちが動いた。だから相手からすれば、こちらがスポットライトの中に飛び込んだように見えたかもしれない」
それってまずいんじゃないですか? とレイカが深刻そうに言うが、俺には「そうかもね」としか言えない。
ただの一回で、未来予知の可能性や実在を確信されるとは思えない。
気になるのは、あのお人形さん、シンウチ・カリンがなぜ、あの作戦を立案し、実行させたのかだ。
標的は名前もわからない女で、今、調査班が追いかけているからすぐに情報は来るだろうが、お人形さんの興味を引いたのは、発火能力の使い手だから、というだけなのか。
こちらに抱き込む計画、か?
「どうしたんですか、ヒルタさん。顔、怖いですよ」
その言葉に、俺はハッとして口元を撫でていた。こちらを見るレイカに、紛らわせようと笑みを見せておく。
うまく笑えたかは判然としないが、怖くはないはずだ。
「いつかのように、あの能力者を総出で保護する必要があるかもね」
「私の時みたいにですか?」
レイカが困り顔になったので、俺は冗談で「あれは肝が冷えた」と答えておいた。
あの時、俺が運転するパトカーに向かってトレーラーが突っ込んできたのだ。
どこぞの工作員が運転するトレーラーで、事故を起こした後にドライバーは確保されたが、トレーラーを盗んだことは認めたものの暴走は信号の見落としで、トレーラーの挙動は安全な場所へ逃すため、という供述だった。
その後、その工作員は様々な取り調べを受け、最後には日本のうちとは違う組織、王道といってもいい諜報組織が身柄を引き受けたと聞いている。
日本も物騒になったものだ。それにうちの組織も。交通事故を装うよりも、銃器が出てきているとは、現代日本とは思えない。
とにかく敵が多い。存在を秘密にしているはずが、同様の秘密組織からすれば、よく見えるのだろう。
いや、待てよ……。
予知能力者が敵にいない可能性は、どれだけある。
それに、レイカのような能力もある。
他人の能力を自在に使う能力。
これはどうやら、それほどシンプルでもないらしい。
実力が計りづらいのは、敵も味方も、互角の状態だと思いたい。
少なくとも、組織力に関しては勝ち目がないのははっきりしている。こちらはあまりに少数だ。ノウハウも蓄積されていない。
「やってられんな」
思わずつぶやくと、レイカが小首を傾げた。俺は手を振って返し、彼女の前を離れた。報告書を書かないと。
日付が変わって一時間ほどで仕事を切り上げた。警視庁でのどうしようもない疲労も、すでに消えつつある。
今から帰ろうにも、電車は終電を過ぎている。そうか、レイカは終電に合わせて帰ったのか。そんなことにも今、気付いた。やっぱりまだ疲れているかもしれない。
俺は部屋を出て、仮眠室へ行った。狭いがシャワーもついていて、仲間たちはそれぞれのロッカーに着替えやら何やらを入れている。俺もその例に漏れない。
汗を流して、ラフな服装でベッドに横になった。
小さな明かりがついている天井を見ながら、頭の中でトーマス氏の思考を再検証した。報告書を書く前も、書く間も考え続けていたが、検証しすぎて困ることはない。
彼と接触した男。マスクをして、サングラス、帽子、声はこもっている。名前を名乗ることはない。発音は自然な日本語。日本人か?
日本人が相手になると、俺たちもやりづらい。
警視庁、警察庁どころではなく、自衛隊、防衛省が関わってくる気配もする。ついでに内閣官房や、外務省にも及ぶだろうか。
その辺りは我らがボスの上のボスに任せるしかない。そもそもからして、あの人がこの組織を構想したわけだし、こういう事態も想定しているだろう。
ただ、最近はなかなか会えていない。
どこにいるのやら。
一度、深く息を吸い、吐いた。
じわじわと眠りがやってくる。コーヒーを飲みすぎた後悔もあったが、疲労の勝ちだ。
目を閉じて、肩の力を抜いた。
脳裏で、トーマス氏が恐怖に震える。
俺は今、狙撃される。
俺が今、狙撃される。
目を見開くと、そこは仮眠室の天井だった。
まったく、不愉快な仕事だ。
しかし、俺にしかできない仕事だ。
やるしかあるまい。
(続く)
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