使命と義務
◆
頭上を見上げると、何かがそこを横切っていく。
他の人は誰も気づかない。
鳥ではないし、蝶でもない。雲でもない。
でも確かにそれはそこにいる。
私はそんな彼らを見ないふりをして、でも時折、じっと見つめるのだった。
忘れていない。そう伝えるように。
私が唐突に人生を奪われたのは、九歳のときだった。
何がどう作用したのかは、私は専門家ではないからわからないけど、血液検査とか脳波測定とか、MRIとか、そういうあれこれを経た結果、特別な素質がある、となったのだ。
あとは悲惨だった。
どことも知らない施設に連れ込まれ、両親と会うことは二度となく、検査に次ぐ検査、実験に次ぐ実験、投薬と外科的手術。
終わることのない痛みと苦しみ。
よくわからない装置の前に寝かされ、そうすると体の感覚がなくなり、匂いがしなくなり、耳が聞こえなくなる。
その代わりに、視界が不自然なほど広がり、全てを俯瞰している私が、そこにはいる。
自分が森に囲まれた人里離れた場所にある施設、地下施設にいるのがわかった。
何人が働いていて、今、どこで何をしているかもわかる。
私の身体、精神を破壊しようとしているとしか思えない科学者が、寝台に横たわって動かない私の体のすぐそばで、端末に何かを入力しているのが見え、その入力内容も見える。
科学者の一人が私の腕に注射を打つ。
ブラックアウト。
途端に何も見えなくなる。自分が締め付けられ、体に押し込まれる。
眠っていると、さっきまで見ていたことは夢だったのか、こんな酷いことをされるのも夢なのか、そう思う。
しかし目を開いてしまえば、そこは地下施設の自分の部屋だった。
施設に連れ込まれてすぐは、涙が止まらなかったこともある。
両親に会いたかった。学校にも行きたかった。
外に出たかった。
そんな全部は九歳の時から十六歳になるまでの七年間、一度も許されなかった。
十六歳になる少し前、私は幻の女の子を見た。
灰色の髪をした女の子で、私が実験を受けている施設を覗き込んでいたのだ。
私には彼女がはっきり見えた。
日本人ではない。ロシア人。
彼女が目を見開く。その彼女は、ロシアの、私には地名も何もわからない場所で、寝台に横になり、こちらを見ていた。その女の子のすぐ横に、若い背の高い男性がいて、端末を見守っている。
そこまでしか見えなかったのは、私の感覚が乱されたからで、地下施設の防御装置の一つが起動したからだ。
あの一件の後、私への実験は極端に減った。
もう薬を注射されることはない。針を刺されるのには慣れても、全身の血管を鋭いものでなぞられるような激痛に慣れることはついぞなかった。でも、もうそれに怯える必要はないようだった。
五感を極端に、そして強制的に遮断されることもなくなった。
代わりに、施設の中にある運動施設は存在は知っていても私には縁のない場所だったのが、そこへ行って身体能力を取り戻せと言われた。
九歳の時は運動が好きだったのに、これまでの七年間、運動らしい運動をしなかった私は、昔ながらのウォーキングマシンで十分も歩けば息が上がって、全身が痛んだ。
それからトレーナーを名乗る男性がやってきて、私は半日ほど、頻繁に休憩を挟んで運動を続けることになった。
投薬と運動不足で痩せ衰え、骨と皮でできているようだった体は、少しずつまともになっていった。
食事も急に量が増え、私は最初、食べるのが苦痛だった。食後に嘔吐したこともあった。
それまでも投薬中に気分が悪くなることがあったけれど、食べ過ぎて具合が悪くなる、というのは忘れていた感覚の一つだった。具合が悪くても、無理をして食べた。
研究者たちは私を使って新しい実験をしているのかもしれない、と思うこともあった。
運動させ、体を作らせて、また何かするのかもしれない。
そう思っている私のところへ来たのは、実験の責任者であるトウギ博士だった。
すでに老境のこの科学者は、個室で私と一対一になると、「君の能力は実証された」と静かな口調で言った。
静かだけど、確信に満ちた力強い声。
私はどう答えることもできず、ただ彼を見た。
「そんな顔をするな。嬉しそうな顔をしろ」
当のトウギ博士が無表情だったが、そう言葉を向けられて、やっと私は自分が表情をぴくりとも動かしていないことを理解した。
少しでも笑みを見せよう、口角を上げようと思ったけれど、うまくいかない。
笑うことさえ、この七年間で失われていたのだ。
そんな私をトウギ博士はじっと見つめ、すまないことをしたと思う、と低い声で言う。
「私たちには、選べる手段がない。きみのような素質を持つものを前にして、シンプルに、何の苦痛もなく才能を開花させる術は、まだ実現していない。必要なことだったとはとても言えない。いわばきみは、不幸を強制されたのだよ」
誰が、と声が出た。自分の声なのに嗄れていて、老婆のようだった。
「誰が強制したのですか」
「私たちだ」
博士は即答した。私のその瞳をじっと見た。
内心が読めるわけではないのに、なぜか瞳を見てしまう。
そこに感情や精神が見え隠れするという幻想を、なぜかみんな持っている。私も含めて。
「憎むべきですか?」
単刀直入な私の言葉にも、トウギ博士は動じなかった。
「それはきみの自由だ、キリヤ・カナエ」
「私は、これからどうなるのですか」
わずかに自由になる、とトウギ博士は言った。
自由。
それがどういうものか、もう忘れていた。そして、自分が自由になるとは、信じられなかった。
「これからきみには運動のトレーナーのように、勉強を教える教師がつく。忙しくなるが、実験よりは楽だろう。皮肉なことだが」
冗句のようだったけど、私はどう答えることも、表情を変えることも、何もできなかった。呼吸さえ乱れなかったし、動悸さえも変化しなかった。
トウギ博士はそれから一ヶ月に一度、私と話をしたけれど、最初の一回より饒舌になることはなかった。それは私も同じだった。
運動は少しずつ長く、強度の強いものがこなせるようになった。
勉強も、家庭教師とマンツーマンなので、すぐに確認ができるし、徐々に知識が身につくのは、運動ができるようになるのと同様、どこか開放感があった。
「キリヤさん、何か怖いことがある?」
私に勉強を教え始めて、三ヶ月ほどが経った時、その家庭教師が質問を向けてきた。
時間は休憩時間で、研究者の一人がお茶とお菓子を持ってきていた。私は少しずつ紅茶を飲み、バウムクーヘンをかじっていた。
私が彼女、家庭教師の方を見ると、その三十代だろう女性は柔らかく微笑んでいる。無害そうで、親しげな笑み。
カウンセラー。そんな言葉が頭に浮かんだ。
「怖いことは、あります」
「どんなこと?」
「自分です」
微笑んだ口元のまま、家庭教師が目を細めて、まるで糸のようになった。
「自分の力を持て余しているってこと?」
「そうじゃなくて……」
私の身に宿る強制的に開発された力は、はるか果てまで見通して、見えないはずの場所を見ることができる。
それを持て余すこどはない。むしろ完璧に使いこなす自信があった。
私が怖いのは、私という人間が、社会に、他人に受け入れられないのではないか、ということだ。
私という存在はもう、どこにも居場所がないのではないか。
常に価値を測られ、価値がないとわかれば捨てられる、実験動物。それが私の本質なのではないか。
「あまり深く考えることはないわ」
家庭教師が私の肩にそっと触れた。やはり優しい動作だけど、本当の優しさかは、わからなかった。
ゆっくり考えましょう、という言葉を耳にしながら、頭の中には両親の姿が浮かんでいた。
能力を使えば、見えそうなものなのに、今は距離がありすぎるし、どこにいるかも知らない。何の情報も与えられてない。
会いたいと言えば、会わせてもらえるのだろうか。
でも、私はどういう立場になっているんだろう。死んだことにされているのか、行方不明にでもなっているのか。
私がいないことで、両親は悩んだだろうし、苦しんだだろう。
今、私が二人の前に現れれば、二人は喜ぶのか。
私は嬉しいのか。
よくわからない。
あまりにも時間が過ぎ、それは大きな隔たりになっている。
私が別人になったように、両親も別人になっているのではないか。
思案と逡巡に答えが出ない日々だった。
勉強と運動と、最低限の検査の日々。
半年があっという間に過ぎた。
ここを出て行きなさい、とトウギ博士が言った時、私の目は厚い地盤を通して、地上の木々で桃色の花がほころんでいるのを見ていた。
春だった。
長い冬は、終わろうとしている。
トウギ博士は、私にその組織の話をした。
秘密組織。諜報の世界に属する組織。
警察に新設の部署だが、まだ公式ではなく、試験運用だという。
私の能力はその組織のために開発され、私はその組織のために能力を使う予定だった。
トウギ博士は淡々と何の感情もなく、断ることもできる、と言った。
断る?
断ってどうなる?
「参加してみます」
私がそう答えた時、初めてトウギ博士は眉をひそめた。これまで見せたことのない、感情的と言っても良い表情の変化だった。
「これが最後のチャンスだぞ、キリヤ・カナエ。一度入ってしまえば、二度と出ることはない」
私はかすかに顎を引いた。
「今までもそうでした」
皮肉や嫌味を言うつもりはなかったけど、形の上ではそうなった。
ただ、紛れもない事実だ。
私は二度と戻れない道を、もう何年も、長い時間、進み続けてしまった。
今から戻ることは許されない。
誰かに強制された、という言い訳は、きっと通用しないんだろう。
みんながみんな、何かを強制されている。
それはきっとトウギ博士もだろうと、自然と考えている私だった。
この時は私の部屋で、私と博士は向かい合って座っていたけれど、トウギ博士が急に立ち上がり私の前で急に膝を折ったのでびっくりした。
彼かまさかを立つなら、怒りに駆られた時だろうと思っていたから。
そのまま彼は両手で私の手を包み込むようにして、「すまなかった」と言った。
声は明らかに震え、明瞭さを欠いていた。次に嗚咽が漏れ、博士はそれをどうにか押し込めようとして、失敗していた。
目尻から涙が溢れ、頬を伝っていく。
博士はしばらく泣き続け、私は無感情にそれを眺めながら、父、という表現を検証していた。
私に痛みを与え続けた人。
心を、肉体を、権利を、人格を、人生を、勝手に傷つけ、切り裂き、貼り付け、また切り裂きしていた人たちの一番上にいた人が、今、私の前で涙をこぼし、そこに私は父の幻想を見ている。
本当の父親が、娘を壊すことはないはずだ。
娘だって、自分を壊す父親を、本当の父親とは見ないだろう。
そのはずなのに、私はこの何の血縁もない、奇妙な男を父親だといつの間にか思っていたようだった。
それから数日で、私は地上へ出た。
古びた建物が建っている敷地で、その建物の玄関先にある噴水が、わずかに水を噴き上げている。
風は涼しく、空気は新鮮だった。
日の光は瑞々しく、何か、体がその光を目一杯に取り込もうとしているような気がした。
その場面があの場所へ実際にいた最後の時間になった。
最初は所属のわからない若い女性が二人、私の面倒を見てくれた。
東京の都心にあるマンションの一室での三人の共同生活。そのうちに二人の女性は一人が警察官で、一人がおそらく官僚だとわかってきた。
警察官の方は制服を着るような階級ではないし、官僚の方も当然、国家公務員試験を合格したと思わせる知性を時折、覗かせる。それぞれの仕事に誇りを持ち、自負がある二人だった。
その二人との生活は、私には穏やかな日常を思い出させた。上書いたと言っても良いだろう。
学力はこの時にはまだ足りず、家庭教師が勉強を教えてくれた。その家庭教師は地下施設へ来てくれた女性ではない。あの女性とも、やはり会うことはないままだ。
新しい家庭教師も女性だったけど、ぐっと若い。大学生くらいだろう。
私たちはよく四人で食事をして、色々な話をした。私は聞き役しかできなくて、世間というものをここで勉強することになった。
自分の能力のことは言わなかった。でも三人ともが知っているのは確実だった。
私が宙に浮かぶ不思議なものを見たのは、マンションからジムへ向かう途中で、まだ通りの名前も覚えていない路上で、周囲には大勢の人が歩いていたけど、何も気づいてはいない。
ただ私だけが立ち止まり、頭上を見上げていた。
見えているぞ。
そう伝えるように。
靄のようなものが、スゥッと宙を横切る。
「歩いて」
急に背後から来た人に腕を掴まれた。細い指と小さな手、細い手首、女性だ。
顔を見ると、目鼻立ちのはっきりした美人で、服装は高校の制服だった。時刻は昼で、こんな時間にこんな場所にいていいのか、と思ったけど、それを言ったら私も学生なら学校へ行っている時間に路上にいるのだから、同じようなものか。
引っ張られたけど、自然と歩調を合わせて、二人で通りを歩いた。
「お腹空いていない?」
さっきまでの真剣さは消えている。軽やかな口調でそう確認され、私は首を横に振った。女の人は困ったように笑い、私は空いているの、付き合って、と通りから一本入ったところにあるハンバーガーショップに入った。最初からそこに店があると知っているような感じだった。
私は何が起こるのか警戒しながら、席について、向かいに座る女の人をじっと見た。
高校の制服。持ち物に、生徒手帳がある。
名前は、シドミ・レイカ。
何を食べるか聞かれたので、オレンジジュースと答えた。レイカはハンバーガーとポテト、コーヒーだった。
食べ物が来る前に、レイカの方から「シドミ・レイカと言います」と名乗ったので、私は「キリヤ・カナエです」と答えた。レイカが表情を緩める。
「こんな時間に高校生がここにいるのもおかしいと思うかも知れないけど、なんていうか、仕事で。仕事っていうのは、アルバイトじゃなくて、形の上では高校三年生で、うーん、うまく説明できない」
「私に、何の用ですか?」
そう質問したところで、先にポテトとコーヒー、私の前にはオレンジジュースが来た。ポテトを本当に食べないのか聞かれたけれど、私は無言で首を横に振った。
「あなたに用というのは、うーん、スカウトっていうか、元々から、あなたはスカウトされているんだけど」
「組織ですか」
確認すると、困った様な顔のまま、レイカがそれでも笑みを作ろうとした。
私はただ、何の感情もなくそちらを見ているだけだ。
「秘密組織なんてカッコ悪いけど、形としてはその通りなのよね。私はそこの捜査官補、の候補生。来年には正式に捜査官補になる」
「私はどうしたらいいですか?」
え? と、きょとんとした顔をする女子高生に、私は言葉を付け加えた。
「私はどこで、何をすればいいのですか?」
ああ、そういうこと、と今度こそ、レイカはちゃんと笑った。
「今はまだ、普通の生活をしてていいのよ。さっきはちょっと、あなたが危ないという予知があって、私が適任だからあなたを助けただけなの」
「危ない……?」
「世の中にはあなたや私みたいな変な人が大勢いるってこと」
ハンバーガーがやってきて、レイカは嬉しそうにそれにかじりついた。私はオレンジジュースをゆっくりと吸う。酸味と甘みが、鮮度の良さを感じさせる。
「別に」紙ナプキンで口元を拭いながら、レイカが言う。「やりたくないなら、それでもいいのだけど。今ならまだ辞めてもいいってことらしいし」
それはありません、と私は答えた。
「どうして?」
私の頭の中で、涙を流す初老の男の姿がよく見えた。
忘れることのできない過去の一場面。
私はあの時、何かを、決して切り捨てられない何かを、見つけたのだ。
使命、と言ってもいい。
復讐、と言ってもいい。
「きっと、この先、その……」
レイカが真面目な顔でこちらを見るけど、口元に少し、ケチャップが付いているのは冗談ではなく天然らしい。
「辛いこともあるだろうけど」
どこか滑稽なのに、笑えない自分が、少し寂しい。
長い月日で、失われて、二度と戻ってこないものがある。
これから失って、もう二度と手にできないものもあるはずだ。
それでも、前へ進むこと、自分で選ぶこと、それは絶対になくしてはいけない。
あの私の手を包んだシワだらけの手と、一瞬だけ光った涙が、それを教えてくれたんだろう。
奪ったものを、少しだけ、返すように。
「どうしたらいいですか?」
こちらからそう促すと、レイカはちょっとだけ影のある笑みを見せた。
でもその影はすぐに、綺麗に拭われた。
「まずは美味しいものをちゃんと食べようか」
言いながら差し出されたメニューを、私は自然と受け取っていた。
(続く)
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