第2話 我見るも、我信ぜず
数学なんて嫌いだ。
数渡はこの数分間で同じ言葉を心の中で何度も繰り返していた。数学なんて嫌いだ。数学なんてなくなってしまえばいいのに。彼は机の上に置かれたプリントに目を通した。
問題
数列 2,3,5,7・・・の第350項を求めよ。
数渡にはどうしても理解できなかった。どうしてこんな事をしなければならないのか。
一体第350項が何の役に立つというのだろうか。どうしようもなくため息をつき、ぼんやりと窓から空を眺めた。初夏の夕暮れ。空は美しいオレンジ色に染まっている。開け放たれた窓から涼しい風が入って、ライムグリーンのカーテンを揺らしている。耳を澄ますとグラウンドから野球部員のバッティングの音が聞こえてきたり、音楽室の方から合唱部の透き通るような声が聞こえてきたりする。数渡はちらりと壁にかかった時計を見た。もうすぐ六時になろうとしている。さっきからまるで手が動いていない。いやむしろ頭が動いていないといってもいい。数渡は髪をぐしゃぐしゃとかき乱し、また深いため息をついた。
「数学」それは彼が世の中で最も嫌悪するものであった。彼の数学嫌いは今に始まったことではない。今までだってずっとそうだ。高校受験の時もかなり足を引っ張られたのを覚えている。高校に入ってからもそれは変わらないどころか、むしろひどくなる一方だった。数学は常に全く意味のない苦行を自分に押し付け続けてきた。数列の問題は数字を並べて何が楽しいのかわからなかったし、ベクトルや関数の問題も表やグラフを用いたところで何も分かりやしなかった。サイン、コサインの三角関数に至っては言及することすらバカらしい。彼にとって数学とは不幸の象徴以外の何物でもない。数学なんて嫌いだ、なくなってしまえばいい、と数渡は常に願っていた。
逆に言えば、数学さえなければ彼の人生は何の問題もなかっただろう。勉強に関していえば完璧に近いと言っても過言ではなかった。現代文や世界史の成績は学年トップレベルだったし、英語や化学だってそんなに悪くなかった。しかし数学だけはどうしてもだめだった。テストを受けるといつも下から数えた方が早い位置にいた。だからこそ彼は数学を嫌悪していたし、今こうして一人教室で補習を受けているのだ。
数渡は掛けていた眼鏡を外し、スマートフォンをポケットから取り出した。校内でのスマホの使用は禁止されていたが、数渡は気にしなかった。どうせ誰も見ていない。誰も咎めたりしない。数渡は連絡先の中から母親の標記を探し出し、簡単にメールを打った。
友達と遊んでくるから、帰り遅くなる。
味気ないメールだった。もちろん数渡は母親に補習だからと伝えるつもりは毛頭なかった。そんなことを言って、母親に勉強の心配をさせて、とやかく言われたくなかったからだ。きっとすぐに追いつけるだろう、そんな気持ちが数渡にはあった。そうだ、きっとすぐにほかの教科と同じように良い成績を修められるようになる。そう思っていた。だから数渡は一生懸命数学を勉強しようとはしなかった。授業は適当に受け、課題もある程度やって済ましていた。そしてそれで充分だと彼は思っていた。
この短いメールの中にはもう一つの嘘も含まれていた。数渡には放課後に一緒に遊ぶほど仲の良い友達はいなかった。友達がいないというと語弊があるが、別にクラスで特別浮いていたとか、いじめを受けていたとかそういうわけではない。クラスの人と少し話したり、学校行事で何かしたりという事は特に苦にならなかった。ただ特定の人と常に一緒にいるというのが数渡は苦手だったのだ。だから彼はどうしてもイツメンと呼ばれるようなコミュニティーを作る気にはなれなかった。
窓の外から聞こえてくる合唱部の声はいつの間にか止んでいた。その代わりに聞こえてくるのはピアノのメロディーだった。ドビュッシーの曲だ、と数渡は思った。題名は何と言っただろうか。数渡は音楽にそこまで興味があるわけではないが、彼の母親がクラシック音楽を好きなこともあって、たいていの有名どころの曲は聴いたことがあった。だから窓から流れてくるドビュッシーの曲も聞いたことがあった。その曲はとても短かった。多分三分にも満たないが、とても美しい。曲が最後まで終わると、再び初めから同じ曲が、全く同じように弾かれた。数渡は心底聞き惚れていた。先ほどまで数渡の耳に入ってきていた音は一切消え、今はただ初夏の夕暮れに染み入る優美なメロディーのみが聞こえた。奥行きのあるその曲は、人間が自分の思いを表現しようとしてたどり着いた極地のように数渡には思われた。彼にとってそれは、目前にある、ただ決められた答えを冷徹に導いていく作業とは雲泥の差だった。曲は何度も何度も繰り返された。まるで数渡に聴かせるためだけに演奏されているみたいに。
演奏が終わった後も数渡はその余韻に浸っていた。すると不意に廊下側から流れてくる風に香水の匂いが交じっていることに気づいた。甘く、胸をうずかせる香りだ。数渡は眼鏡を掛け直して、教室の入り口の方を見た。そして、そこに目が釘付けとなった。そこに立っていたのは美しい、亜麻色の髪を持つ少女だった。その顔つきは驚くほど端正であるのに、どこか無感情な印象があった。澄み切った黒い瞳を数渡の方にまっすぐ向けている。少女は白いブラウスに紺のスカートというごく一般的な女子高生の格好をしていたが、その制服は数渡の通う学校のものではなかった。数渡は何も言わずにただ視線を返していた。すると少女は、数渡の方にゆっくりと歩み寄ってきた。まるで決められたリズムを踏むかのように、ゆっくりと。その間も数渡は彼女から視線を離すことができなかった。魔法か、もしくは金縛りにでもかかってしまったみたいに。窓から風が入ってきて、少女の亜麻色の、長くまっすぐな髪をほのかに揺らした。少女は数渡の隣まで歩み寄ると、視線を机の上へと移した。机に置かれたプリント。その隣に置かれた白紙のルーズリーフ・・・。
「数学、嫌いなの?」
「え?」
彼女があまりに唐突な質問をするので、数渡は初め何を尋ねられたのかさえ分からなかった。それに少女の話し方は、どこか異質だった。普段の会話で何気なく用いている自然な抑揚が失われてしまっているかのようだ。少女が言葉を発した途端、静かだった空間が突然ゆがんだような気がした。数渡は頭を混乱させた。数学が嫌いか?どうしてそんなことを尋ねるんだ?
「私が、いいものをあげる。」
彼女はそういうと数渡の手を取った。
その瞬間、空間は目に見えるほど大きくゆがみ、夕暮れ時の教室は一瞬にして姿を消した。数渡はただ一人、真っ黒な空間に放り出された。足をつけていた地面は消え、どこまでも続く暗闇を延々と落ちていく。一瞬にして数渡を恐怖が襲った。どこを見ても暗闇だったが、今のまま地面に突撃したら間違いなく命を落とすだろう。しばらくすると遠くの方の視界から小さな星屑のようなものが白い輝きを放ちながら、数渡に猛スピードで接近してくるのが見えた。自分が落ちているからなのか、星屑が自分に向かってきているのかは分からない。だが確かなのは、それはまもなく自分とぶつかるだろうという事だ。避けようにも体の自由が利かない。ほどなくして数渡は何十もの星屑とぶつかった。信じられないことに、それは光り輝く数式だった。微分や積分、数列の極限を求める式、数渡が知っているものから知らないものまで、数渡の体にぶつかると白い光となって消えていった。数渡は何一つ理解できなった。上も下も、自分がどこにいるのかも。ただ星屑とぶつかるたび、白い閃光と共に痛みと熱さと、そして自分と一体となる数式を感じていた。次第に数渡はぶつかるたびに膨れ上がっていく痛みと熱さに耐えられなくなっていった。数渡は絶叫した。それでも何十という数の数式は数渡にぶつかり続けた。視界が真っ白になり、あまりの痛みと熱さに命の危機すら感じ始める。白い輝きはまぶしさを増し、数渡は目を開けていられなくなった。それでもなお数式の放つ輝きは勢いを増し、そして・・・。
数渡は机の上で目を覚ました。自分がどこにいるのか理解するのに少しの時間がかかった。教室だ。外はもうすでに薄暗くなっていた。時計を見るとちょうど長い針が五〇の位置を指していた。教室はしんと静まりかえり、秒針の音だけがやたらに響く。数渡は今しがた起こったことを考えていた。いきなり現れた美しい少女。彼女の視線。それから右手をとられて黒い空間に・・・。そこで星屑みたいな数式に何度もぶつかった。不思議なことに体はどこも痛くなかった。数渡は自分の右手をまじまじと見た。妙な胸の高ぶりを感じた。彼の頭は混乱しているはずだった。黒い空間も、輝く白い数式も、今までの数渡の常識を逸したものであるはずだった。しかし彼の頭には、亜麻色の髪を持った少女の視線と、彼女に握られた手の感触がより強く刻み込まれていた。
廊下からツカツカという革靴で歩く音が聞こえ、彼の思考は中断された。
「九田君、遅くなってごめんね。課題終わった?」
入ってきたのは中野安子だった。数学科の担任教師で年は四十代後半という噂だ。背が低く、丸めの眼鏡を掛けている。特に膨大な課題を出すわけでもなく、見当違いな授業をするわけでもないので、生徒からは好印象を持たれていたが、数学をできない生徒を妙に哀れむところがあり、そこが数渡は気に入らなかった。もちろん良い言い方をすれば指導熱心なのかもしれない。しかし、彼女は数学ができないからという理由だけで一生の不幸者であるかのような同情の目を自分に向ける。そんなものは数渡にとって有難迷惑でしかなかった。数学なんかなくても自分には芸術を理解する心や社会を見極める知性があるのだ。そんな風に数渡は中野に対しどこか反抗的な思いを心のうちに秘めていた。だが今回は別だった。反抗よりも先に焦りが沸いた。放課後、与えられた課題を自分が戻ってくる前にやっておけと中野に言われていたが、そんなものはやった覚えがない。もちろんだ。途中で眠ってしまってずっと変な夢を見ていたのだから。
「じゃあ、確認するから見せなさい。」
中野が近づいてきて、香水の匂いが強くなる。ただしさっきのような甘い、胸をうずかせるような匂いではない。どちらかといえば胸をむかむかさせる匂いだ。数渡は慌てて白紙のルーズリーフを隠そうとした。しかし、ルーズリーフが見当たらない。机の中に手を入れたがそこにも無い。
「先生、課題はやったんですけど紙が・・・」
数渡の即座に出た意味のない嘘を遮るように、中野は数渡の机の前にしゃがみ込み、白い紙きれを拾った。数渡は無表情にそれを見ていたが内心絶望的だった。中野は何というだろう。きっととがめはしない。ただ数学をやろうとしない自分により深い同情の念を持つだろう。明日も残らされて、ひどければ一対一の勉強会に付き合わされるだろう。
「ちゃんと出来てるわね。じゃあ帰っていいわよ。」
中野の一言が数渡の思考をぷつりと切った。呆然とする数渡に中野は赤ペンで大きく丸を打ったルーズリーフを返した。数渡はそれをまじまじと見た。安堵感と不信感が同時に沸き起こる。確かにルーズリーフには完璧な数式が並んでいた。しかし自分が解いたものではないことは一目瞭然だった。美しすぎる筆記文字。完璧すぎるグラフ。見ていると息の詰まる思いがした。
家に帰った後も数渡は今日起こったことについて考えていた。特に母親と目立った会話をすることはなく、夕食をとり、風呂に入り、勉強机についた。その間ずっと亜麻色の髪を持つ少女のことや黒い空間や輝く数式について考えていた。あれは夢だったのだろうか?夢にしてはいくらか鮮明だった。少女に手を取られた時の感触も黒い空間で白く輝く数式にぶつかった時の痛みや熱さも、実際のものであるとなぜだかはっきりと言う事ができる。何よりカバンの中にあるルーズリーフが不安感をより確実なものにしていた。数渡は中野からルーズリーフを返されてから、あえてそれに目を通すことはしていなかった。今はカバンの中に二つ折りにしてしまってある。彼はもやもやした気分で数学Ⅱの教科書とノートを開いた。一連の今日の出来事の後で数学とはしばらく関わりたくはなかったが、いや本当は一生関わることはしたくないのだが、明日の小テストのためにいやいやながら練習問題に目を通した。その時数渡はふと気づいた。妙に今日は頭が冴えている。なぜか今まで理解できなかった、しようともしなかった問題が簡単に解けるような気がする。
練習32
2つの円 x²+ y – 4 = 0, x²+ y²− 4x + 2y – 6 =0 の二つの交点を通る点(1,2)を通る円の中心と半径を求めよ。
まず二つの円を式に従って書いてみた。悪くない。それから数渡は自分でも信じられないくらい集中してペンを動かした。なぜだか次々と回答への道筋が浮かぶ。
まるで子供向けの迷路で遊んでいるかのようだ。回答にたどり着いたとき、今までこんなものに苦しんでいた自分が幼稚に思えた。
数渡は本棚から分厚い数学の問題集を取り出した。欲しくもなかったが学校に買わされたものである。いつもは手に取るとずっしりと重く、開くことすらためらわれたが、今日はやけに軽く感じた。数渡は新品同様の本を適当に開き、ぱらぱらとページをめくって難しそうな問題を探した。
159
関数∱(x)= x³− 1/2(a+1)x² + b²x がx=1で極地を取る時、次の問いに答えよ。
(1) 定数a,b の満たす関係式を求めよ。
(2) x >=0 で常に∱(x)>=0となるとき、定数bのとりうる範囲を求めよ。
この問題にしよう。
数渡は迷うことなく数式を並べていった。まるで何者かが答えへと導いてくれているようだった。
数渡は答えを確認することもせず次から次へと難しそうな問題を解いていった。自分が間違っていないという自信があった。とにかく問題を解くという行為を途切れさせたくなかった。数学の問題を解くことに、数渡は酔いしれていた。
ほとぼりから覚めると、時計は5時を回っていた。カーテンの後ろから青白い光が漏れている。ここにきてようやく数渡は眠気を感じてあくびをした。
そういえば明日も、いや、今日も学校だ。準備すらまだしていない。のっそりと椅子から腰を上げると疲れがどっとこみ上げてきた。ぞんざいに明日必要な教科書やノートをカバンに突っ込むと、数渡はベッドに潜り込み、深い眠りについた。
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