第3話
私は馬車に揺られ、国最大の港街までやって来た。ここはエドガー様の出身地なのである。まだ海は見えない。
あてもなく街をうろうろする。聖女宮とその背後にある小さな森だけが私の世界の全てだった。
祭事の時は外に出る事ができるが。それ以外は片手で数えるほどしか機会がなかった。エドガー様が無理やり企画してくださった教会への慰問と、その前後の一瞬の自由時間。
それだけが私の人生。
……なんのために生まれてきたのだろう。
……聖女になるためだ。いや違う。私だって、少しぐらい楽しんだっていいはずだ。そんなことを考えながら街を歩きまわる。
この街は勾配が急だ。汗がふき出してくる。喉が渇いた。
お金は……多少はある。エドガー様が「賄賂に使いなさい。ついでに効果があった職員は私に報告するように」と渡してくれたもの。結局使う機会がなかったのでそのままだ。
あの人がくれたものはできる限り手放したくないと思っている。そんな事を考えつつも、小さなお店で飲み物を買ってしまう。日陰で水分補給をしていると一つの看板が目に入った。
質屋……というのは、物を売ってお金に変えるところだ。本でしか読んだことがないけれど。
ドアを開けてそっと中を覗くと思いのほか若い女性が腰掛けていた。知らない人のはずなのにどことなく見覚えのある風貌なのは、エドガー様と同じ黒い髪だからそう感じるのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
「あの……売りたいものがあるんですけども」
「はいはい、どうぞ」
革製のトレイを差し出される。ここに品物を載せるらしい。これなのですが、といちばん細い金のネックレスを差し出す。
女性がルーペを取り出し検品する仕草を見て、既視感の正体に気がつく。エドガー様を女性にしたらこの様な雰囲気になるかもしれない。
ここはあの人の故郷。もしかしたら妹だったりするかもしれない。じっと見つめていると、不意に女性が顔を上げた。
「お嬢さん、王都からやってきたの?」
「え、あ、はい……」
どうしてそんなことを聞くのだろうと、モジモジしてしまう。
「だめだよ、こういうのは。足がついちゃうからね」
そう言われて、心臓がびくりと跳ねる。盗んだものだと思われているのだ。
「それは……私の持ち物、です」
やっとそれだけ口にすると、女性は静かに目を閉じた。
「疑うわけではないけど、刻印が入っているから。やんごとなきお家の、ね」
しゃら、とネックレスは女性の指の間を滑り、トレイの上に落ちた。まるでぐったりとした蛇のように見える。
「……」
なんと言い訳をすれば良いのかわからずに、ただただ女性の顔をじっと見つめてしまう。やっぱり面差しはエドガー様によく似ていた。
奇妙な沈黙があり、ふっとため息の後に、女性は立ち上がり小袋にジャラジャラと硬貨を入れ始めた。
「まあ、売り飛ばしたいと思う気持ちはわからなくもない」
「え、あの、いいんですか?」
「溶かしちゃえばわからないしね」
手持ちがないんじゃないの? と女性は笑い、観光なら港に行くといいと提案してきた。
「何があるのですか?」
「うーん。港は港、特に意味はないけれど。傷心の女ってそういうもんでしょ?」
店を出て坂を道なりに下ると教えられ、歩いていく。履いているミュールがつっかかりそうになる。カーブを曲がった瞬間に視界に入った碧にはっとする。
「……海だ!」
急いで駆け下りる。
王宮に飾られていた絵画そのままの風景がそこにはあった。たくさんの船が並び、白い鳥が飛んでいて。これが潮の香りか、と深く息を吸い込んでみる。
なんとも表現しがたい。少なくとも聖女宮で炊いてもらっていた『海の香りのお香』とは全く似ていないことがわかった……。
大きな船がいくつも停泊しており、もうすぐ出港の時間らしい。
試しに先程のお金で切符を買ってみる。チケットに記載された行き先は、名前だけは知っている。どんなところなのかは全く知らないけれど。
もう時間があまりないので乗船を急いでください、と売り場で伝えられる。
──聖女は、結界を保つために存在する。
この国を離れると聖女の力は使えなくなり、私はただの私になることができる。聖女がいなくなれば、世界が勝手に補充する。そういう風に、できているはずだ。
──仕事はしっかりやれよ。
先程のダリル王子の言葉が蘇る。……しっかりやる。なんのために? だんだんわからなくなってきた。
──本当に、本当に、本当に、聖女をやめてしまおうか。
ふらふらと近寄り、乗客たちの列に並ぶ。橋に足をかけた瞬間、船の影からどす黒い青緑の海水が目に入った。
足元がふわふわして恐ろしく、私はそれ以上進むことができなくて、船に乗れなかった。船員は訝しげな顔で私を頭のてっぺんから爪先までじろじろと見る。
「す、すみません。ちょっと忘れ物を思い出して」
慌てて逃げ出し、港のしっかりとした地面を確認し、座り込む。さすがに、自分にそこまでの度胸はなかったようだ。
「お嬢さん、大丈夫? 腹減ってんのか?」
声をかけてきたのは、なんだかいい匂いの手押し車を引いたお兄さんだった。
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