願う事

増田朋美

願う事

願う事

その日、普通の春とは思えないほどの暖かさで、初夏の陽気と言えるほどの暖かさだった。まだ春なのに、もうエアコンが必要なほどで、今年は変な年だねという言葉があちらこちらに聞こえてくる。話題になっている東京オリンピック何て、もうとうの昔に中止になっても良いという意見が蔓延っていたが、政府は一向に耳を傾けないようだ。それよりも、もっと大事なことが、あるのではないかと思うのであるが。

周りの家が、テレビゲームやったり、音楽聞いたりして浮かれている間、須藤家では。

「おい、姉ちゃんさ、もうこんなことはしないで、一緒に生きることを考えようぜ。」

と、ブッチャーが、姉の有希の腕を消毒していた。最近は、皮膚の傷から変な伝染病が入るかもしれないから、念入りに消毒しなければならなかった。

「一体どうしたんだよ。何が起こったか話してくれないで、いきなり死んでやるなんて、そんなこと言うから、俺、びっくりしちゃったよ。」

確かに、ブッチャーが学生時代柔道をやっていなかったら、有希をとめることはできなかっただろう。ブッチャーがコンビニで用事を終えて帰ってきたら、有希が台所で包丁を首に刺そうとしていたからであった。

「そんなに絶望するようなことだったのか?まあ、姉ちゃんが、怒りをうまく対処できないのは、知ってるけどさ。」

と、ブッチャーが言っても、有希は黙って泣くばかりだった。こういう時に、誰のおかげで食べさせてやっているんだとか、そういうセリフはいってはいけないことを知っている。でも、ブッチャーは、こういうときだけは、それを言ってしまいたいと思うようになった。まあ、精神障害のある人は、気にしないとか、そういうことはできないと言ってしまった方が良いだろう。それよりも、そういうことからもどしてあげることに人手がいることをブッチャーは知っている。

「一体、何が在ったの!姉ちゃん、それを言ってくれないかな!」

「実は昨日、インターネットで、人にあう約束をしたの。それで、今日、会いに行く約束して、支度していた時、いきなりメールがあって。」

有希は泣きながら言った。

「それで、今日は急な出張が入るから、来られないっていうことになって、それで、ほかの日に変更してくれないかとか、そういうことを言うんだったらまだいいけど、そういう言葉も謝罪の言葉もなじく、何を言っても連絡が来なくなってしまったの。」

まあ、有希にしてみればよくあるパターンである。でも、いつものパターンという言い方もしてはいけない。

この場合、何をお願いされたのか、という内容はあまり重要ではない。其れよりも、有希の自殺をやめさせなければならない。

「まあ、そうなんだね。其れは、気にしなければいいんだよ。そんな無責任な人はいっぱいいるさ。それに姉ちゃんは、働こうと思う必要もないんだから、そんなこと気にしないで、生活してくれればそれでいいよ。」

ブッチャーはそういった。

「でも、何か仕事を持ちたかった。何かして、家の人を安心させてあげたかった。」

と、有希は言うのだった。其れは間違いではないけれど、出来ない人もいるということをブッチャーはわかってもらいたかった。

「でもさ、姉ちゃんができる仕事なんて、例えばだよ、精神科医の先生に相談してさ、人里離れた作業所に行って、簡単な作業をするくらいなもんだろう。其れだって、先生の許可がなければ、働かせてくれないよ。症状が、落ち着いてこなきゃ。先生は、そういうことをしていいとおっしゃってないんだから、そういうことは、言わないほうがいいのでは?」

「そうね。結局、あたしができることは、死ぬことしかないんだ。障害年金も受け取れないし、そういうところしか、私の事を必要としてないんだったら。」

有希は、又涙をこぼしていった。

「そういうことじゃないんだよ。姉ちゃん、ここにいるってことに、もうちょっと意味があるって思ってくれ。誰も、姉ちゃんのことを消えてほしいとかそういうことはいってないんだ。其れは、態度を見ればわかる事じゃないか。其れに、俺だって、あと何年かすれば、姉ちゃんの事とめることはできなくなっちゃうかもしれないんだよ。そうなると、姉ちゃんはここで暮らせなくなる。世間体だって悪くなるし。そういう事も、考えてくれよな。」

ブッチャーが言うと、

「じゃあ、私は、生きていても価値が無いってことかな。そういう、仕事を何かしたいと思っていただけなのに。其れよりも、あたしは、仕事をしないで、家に閉じこもったまま、世間の人たちの白い目におびえて生きるしかないってことかしら。其れなら、もう死なせてほしい。私、そんな辛い人生、もう耐えられない!」

有希が言っていることの中に、本音が混じっているのか、それとも症状から出まかせの言葉を言っているのか、それは不明だった。

「そういうことなら、姉ちゃん一人でくらしてみればいいじゃないか。」

ブッチャーも、そういってしまうが、そんなことを許したら、有希はすぐに自殺してしまうのだろうなと考え直した。それだけはいけない。それはある意味宗教的なことにも近くなるが、それをさせてしまうのは、ブッチャーはやっぱりやってはいけないと思うのだ。有希は、ひとつの石の事を、一つの石と思う事ができないのだ。もしかしたら、一つの石ではなくて、複数個の石が固まって見えているのかもしれないし、石ではなくて饅頭に見えているのかもしれなかった。

「わかったわ。じゃあ、もう死んだほうがいいわね!そうさせてもらうわね!」

有希が立ち上がろうとするのを、ブッチャーはそれを取り押さえた。一応柔道で、急所を押える技を教わったこともある。これがこんな形で役に立つとは思えなかった。まさか実の姉を一本背負いすることになるとは。

「姉ちゃん!本当に犯罪者になる前に戻ってきてくれよ!俺たちの世界に帰ってきてくれよ!」

ブッチャーがそういうと、姉はワーッと涙をこぼして泣きはらした。多分姉に悪気はないのだ。多分本当にやりたいというか、社会参加したくて、インターネットに応募したのだろう。それは、誰でもそう思うことだから。だけど、有希にはそういうことはできなかった。

「姉ちゃん、冷静になって考えてくれればわかる事じゃないか。インターネットでお願いするなんて、みんなたいして重要なことでもないんだよ。そんなこと、いちいち気にしていたら、何も出来なくなっちゃうじゃないかよ!」

答えと言えばそうなのだが、有希にはそういうことができないのだった。其れはもしかして、杉ちゃんが車いすに乗っているのと同じことだろうと思った。

「みんな私の気持ちなんかわかってくれやしないのよ。だからもう死んだほうがいいのよ。」

そういう有希に、ブッチャーは誰か第三者に割ってもらってはいることが、一番重要だと思ってしまった。なかなかそういう有能な人物はいないのではと思われるけど、必要なのであった。

ブッチャーは、急いで電話を手に取る。

「もしもし、影浦先生ですか。姉が死にたいと言っていて、もう手が付けられないんです。何とかしてもらえないでしょうか、、、。」

ブッチャーは民間救急車に電話した。こういう時、救急車というものは役に立たないから、精神障害に理解ある民間救急に電話する。民間救急はすぐ来てくれたからありがたかった。有希は自ら手錠をかけられ、民間救急に収監されていった。

そのあとは、なんだか家にいる気にもならなくて、ブッチャーは、家の外へ出た。コンビニで飲み物を買ったのであるが、その店員は何を思って働いているのかなあと思ってしまった。有希のように、必死で社会参加しようとしている人が、いるだろうか。もしかしたら、なんとなく生きて、なんとなく働いている人ばかりなのではないか。真剣に生きれば生きようとするほど、負けてしまうような気がする。

ブッチャーは店員からお釣りを受け取って、コンビニの外へ出て、ジュースをがぶ飲みした。それは、ジュースではなくて、炭酸水であって、極めてまずかった。こんなもの、ジュースどころではないなと思いながら、ブッチャーは、ペットボトルをコンビニのゴミ箱に捨てて、自宅にかえろうとした。

「おーい、ブッチャーやい。」

不意に後ろから声をかけられて、ブッチャーは後ろを振り向いた。

「須藤さん。どうしたんですか?」

と、ジョチさんが声をかける。

「ああ、いや、俺、姉が又、精神科に連れていかれましてね。俺は、家族としてどうしたらいいのか、もうわけが分からなくなってしまいましてね。」

思わずブッチャーがそういうと、

「ここじゃいけませんから、僕の店に行きましょうか。」

とジョチさんに言われて、そうすることにした。

「ああー、うまいですね。ほんと、焼肉はうまいですよ。すみませんね。俺にこんな高級焼肉食べさせてくださいまして。」

と、ブッチャーは、焼肉にかぶりつきながら、そういうことをいった。

「いや、良いんだよ。大変なのはわかっているから。お姉さんの事でずいぶん大変だったんだってね。」

チャガタイが野菜を追加しながら、そういう事を言った。

「まあねえ、お姉さんのことは、お姉さんがそれなりに理解していくと思うから、君はその時を待つようにすればいいのさ。もしお姉さんが、死にたいというなら、この世でやり残したことがいっぱいあるじゃないか!くらい言っても良いと思う。」

「チャガタイさんは優しいね。そういうことを言えるなんて。誰でも、みんな、見かけ的な励まししかしないのにね。」

杉ちゃんがそう付け加えた。

「まあ、うちの店で働いているのは訳ありの子ばっかりだからさ。そういう事もわかるんだよね。俺たちは、彼女たちを何とかしてあげる手伝いもしなければならないからね。」

チャガタイは、えへんと咳ばらいをした。

「まあ、敬一は子供さんがいっぱいいるお父さんみたいなものですね。」

ジョチさんがからかうと、

「いやあ、みんな、大人になっているんじゃないですか。其れは、いってはいけないのでは?」

とブッチャーが言うと、

「いえ、そんなことありませんよ。精神障害を持っている人は、どこかで時計が止まってます。心のどこかが子供のままで情緒不安定になっているのですから。でも、そんなことを言ってはなりません。彼女たちも、一生懸命やっているんですから。まあ、彼女たちの一番の願いごとは、幸せに暮らすことであるけれど。」

ジョチさんは、一寸ため息をついた。

「俺の姉ちゃんも、そうなっているんですかね。」

ブッチャーが言うと、

「そうですね。そうなっているんだと思います。でもお姉さんのせいにしてはいけません。何かお姉さんは、躓いたところがあって、それを乗り越えられないということでしょうね。」

と、ジョチさんが言った。

その時、店の入り口がガラガラっと開いた。誰だろうと思ったら、黒い上着に白いスカートをはいた女性で、年は中年といったところだが、ひどく厚化粧していて、美人といっても、なんだか人工的に作られたような、そんな感じのする美女であった。

「はい。いらっしゃいませ。」

チャガタイは、彼女をブッチャーたちの隣の席に座らせた。でもこの女性、どこかでブッチャーも見た覚えがある。確か、テレビとか、雑誌なんかでよく登場していなかっただろうか?

「お客様、ご注文は?」

と、チャガタイは、メニューを見せながら、そう聞いた。

「ええ、ええーとあの、チャプチェを一つください。」

と、彼女は言った。その声を聞いて、ブッチャーは彼女をある人物と同一人物ではないかと確信した。

「あの、失礼ですが、あなたソプラノ歌手の松井恵さんではありませんでしょうか?」

ブッチャーはそう聞いてみる。

「ええ、その通りですが、なぜ私の名前を知っているんですか?」

彼女がそう聞き返すと、

「はい、俺、あなたの大ファンなんです!テレビであなたがバッハを歌っているのを見て、偉く感動してしまいまして。それでお声をかけてしまいました!」

ブッチャーは正直に答えた。

「いいぞブッチャー。有名人に会ったんだから、序にサインをねだっちまえ。」

杉ちゃんにそうからかわれたが、ブッチャーは彼女がそれをお願いできそうな表情をしていないことに気が付いた。確かに目の前にいるのは、テレビで話題になっているソプラノ歌手の松井恵さんで間違いないのだが、何か違っているというか、落ち込んでいるような感じなのだ。一体どうしたのだろう?

「すみません。ボーイさん、ビールか何かありませんか?」

と、彼女はチャガタイに頼んだ。チャガタイがはいよと言って、彼女に500ミリリットルのビールを一瓶と、グラスを渡した。すると、彼女は、ビールをグラスに注いで、何か嫌なことでもあったのだろうか、一気に飲み干してしまった。

「もう一本、ビールありませんか?」

チャガタイが、もう一本渡すと、彼女は、ビールを又飲みほした。

「今日は、どうしてこの富士市にやってきたんですか?観光ですか?それとも仕事の打ち合わせか何かで?」

と、ジョチさんが、こんなに大酒を飲む彼女に、そう聞くと、

「ええ、表向きは観光ですが、新しく住むところを探しに来たんです。」

と、彼女は答えた。酒というのは、不思議なもので、変に本音を口にさせてしまうようなところがある。彼女も、ずっとしまい込んでいるものを、酒のおかげで話したような、そんな感じだった。

「住むところ?こんな不便なところによく住もうと思ったな。それにそんな大酒のみで、夫婦喧嘩でもしたのかい?」

と、杉ちゃんが聞くと、ブッチャーが、彼女はシングルママとしても有名であると杉ちゃんにいった。

「何か、ここに住まなければならない事情でもあるんですか?音楽家なら、東京都内に住むと思いますが?」

彼女の顔を見て、ジョチさんはそう聞いてみる。

「黙ってないで話しちまえよ。誰でも解決することはできないかもしれないけど、話しちまえば楽になることは、いくらでもあらあ。他人に話した方が、身内に話すよりもいい場合だってあるんだぜ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうですね。富士市に有名な通信制の支援学校があると聞きまして、娘をそこへ転入学させようと考えておりましてね。そのためには、富士市内に住んでいないと、学校にいけないので、富士市内にいい場所がないか、相談させてもらいたいと思っていたんですが、今日、急に不動産屋さんの都合が悪くなって、というか、すっぽかされてしまいまして。悪質な不動産屋だったんですね。登録料や、仲介手数料を取って、肝心の物件は全然見せてくれなかったという。」

彼女、松井恵さんはそういうことを言った。

「そうですか、確かに悪質な不動産屋も最近多いですからね。まあ、人は自分の責任だとか、そういう軽いことを平気で言いますし。あなたは、必死だったでしょうから、約束すっぽかされて、お酒を大量に飲むということも、あり得ますよね。」

ジョチさんは、彼女を眺めながらそう言った。

「ええ。一リットルくらいなんでもありません。私、こう見えても強いですから。」

と、彼女は言っているが、それは本当でないことは、彼女の顔を見ればわかる。だって、すでに真っ赤になって、頭が痛そうな顔をしているから。

「はあ、なるほど。娘さんは、前の学校で、何かいじめでもあったのか?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ、私が、しっかりしていると思い込んで、放置しすぎていたせいか、学校というところに、どうしてもなじめなかったようです。出来れば、音楽やらせたかったんですが、それも、もう無理かな。私が一生懸命教えても、反抗的な態度をとるばかりで、どうしようもないんですもの。」

恵さんはそう答えた。

「そうなんだね。そういう事するんだったら、早めにその支援学校に助けを求めた方が良いぞ。遅すぎると、手遅れになって、重大な精神疾患という事もあるからな。大事なことは、娘さんに、お母ちゃんも一緒に学ぼうとしている姿勢を見せること。それをしないと、お前さんとの間に、亀裂が走ってしまって、家庭も崩壊するという、悪循環になっちまうから。」

「富士市にある、有名な支援学校というと、松陰学園の事ですね。あそこの校長は、大変情け深い良い人だという話です。ぜひ、解決の糸口が見つかるように、頑張ってくださいね。」

杉ちゃんとジョチさんがそういうことを言っている間、ブッチャーは、こんな有名人であっても、自分と同じことで悩むことはあるんだということを知った。彼女も解決の糸口が見つからないで困っていることだろう。悩み何てないだろうと思われている人物が、自分と同じことで悩んでいるなんて。ブッチャーは複雑な気持ちになった。偉い人は、それだけで解決の糸口はすぐに見つかると思う。名前を使えば、世のなかを動かすことなんて簡単だから。自分にはそれを悩んでいても、どうせ話を聞いてくれる人を見つけることだけでも大変すぎるくらいだ。まったく、なんでこんなふうに落差がああるんだろう。世のなかって、平等だと言っておきながら、全然そんなことないじゃないか。ブッチャーはそう思ったが、

「すみません!もう一本ください!」

とろれつが回らない口調でそういっている、彼女を見て、自分が思っていることを話すのは、いけないなと思った。

「早く、解決の糸口が見つかるといいですね。実は俺の姉も、やっぱり社会となじめないで、いろいろ問題があって、それで俺は大変な思いをしています。お互い生きているのは大変だけど、恵さんも、支援学校の先生と話あって、おだやかな日々を取り戻してください。」

代わりにブッチャーはそういった。彼女の目に涙が光っている。もしかしたら、彼女はそういうセリフを言われたことがなかったのだろうか。

「もうそれでおしまいにしておいた方が良いですよ。明日、二日酔いで大変なことになります。」

ジョチさんがそういうと、彼女は、涙をこぼして泣き始めた。

「あと、一つよろしいでしょうか。俺、恵さんの歌で、頑張ろうと思ってました。そんな恵さんの大ファンだったんです。」

ブッチャーはファンの一人として、そういった。恵さんは、はいと一つ頷いた。それを待っていたかのようにチャガタイが、暖かいチャプチェの入った皿を、彼女の前に置いた。



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願う事 増田朋美 @masubuchi4996

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