第2448話
「ワウ……」
先頭の狼は、レイの姿を見るとそんな風に鳴き声を上げる。
そんな狼を見て、レイは何故セトが危険視していなかったのかを理解した。
この狼達は、今日レイがこのトレントの森で遭遇した狼達だったのだから。
それもただの狼ではなく、痩せ細っていつ餓死してもおかしくはなかった、そんな狼達。
最初は襲ってくるようなら倒そうかとも思ったレイだったが、その痩せ細った様子を見て哀れみを抱き、猪の肉を与えた狼達だ。
レイが渡した猪の肉はそれなりの量ではあったが、それでも飢えた狼の群れ全ての腹を膨らませることが出来るほどの量ではなかったのだが……それでも狼達はその肉を食ってひとまず飢えを鎮めると、レイ達の前から去っていった。
そんな狼が、何故こんな場所にいるのか。
一瞬そう思ったレイだったが、周囲に漂う香り……ニールセンがギルムで購入した荷物のうち、串焼きの入った袋から漂ってくる食欲を刺激する香りを嗅げば、すぐにその答えは分かった。
狼の嗅覚は非常に鋭い。
トレントの森の中でこのような食欲を刺激する香りが漂っていれば……そして空腹であれば、その匂いに引き寄せられてここまでやって来るというのは、そんなにおかしな話ではなかった
「ニールセン、どうする? この連中は、お前の買った串焼きの匂いに惹かれてやって来たみたいだぞ」
「え?」
レイの言葉に、ニールセンは驚き……そしてすぐに納得する。
今の状況を考えれば、レイの言葉が現状を正確に表現しているというのは明らかだった為だ。
それでもニールセン達にとって幸運だったのは、串焼きの匂いに引き寄せられてやってきた狼達が問答無用で襲い掛かってこなかったことか。
その幸運は、狼達がレイ達の存在を覚えていたからか……それとも、ニールセンのような妖精を目の前にしたからか。
その辺りの理由はレイにも分からなかったが、それでも狼達が問答無用で襲ってくるといったことがなかったのは、幸運だった。
幸運ではあったのだが……問題なのは、今のこの状況をどうするのかということだろう。
本来なら今すぐにでも襲い掛かってもおかしくない狼の群れと不思議な膠着状態に陥っているが、それがこの先も続くとは思えない。
だとすれば、現在の状況をどうにか動かす必要があった。
……とはいえ、今の状況をどうにかするという方法は多くない。
「ニールセン、その串焼きを狼達にやったらどうだ?」
「え? ちょっと、本気? この串焼きは私が買ったのよ?」
レイの提案にそう反論するニールセンだったが。実際には金を出したのはダスカーだったし、その金で串焼きを買ったのはレイだ。
そういう意味では、ニールセンの言葉は見当違いではあったが……今はそのようなことを言ってる場合ではない。
いや、狼の群れはモンスターでも何でもない普通の動物である以上、戦えばレイが勝つ。
それは分かっていたが、それでもやはり今の状況を考えると、レイとしては出来れば狼達を傷つけたくはなかった。
猪の肉を与えて餓死から救ったのに、ここでまた自分に向かって襲い掛かってくれば、その命を奪う必要がある。
勿論、今のこの状況を考えれば襲ってきた場合は対処するしかない。
それでも……と、そんな風に思ったのだ。
(いっそ、俺のミスティリングに入ってる串焼きでもやるか?)
当然の話だが、レイのミスティリングには大量の料理が入っている。
それこそ、串焼きは数百……いや、千本に届くくらいの数があってもおかしくはない。
それは別に今日買ったばかりの串焼きという訳ではなく、今まで少しずつ買い集めてきた串焼きだ。
実際には購入した串焼きはそれなりの勢いで消費されているので、今までに購入した本数なら数千本……いや、万単位になっていてもおかしくはないのだが。
「それで、どうするんだ? あの狼達も、この匂いを嗅いでやって来た以上、大人しく退くってことはないと思うぞ?」
「それは……」
レイの問いに、ニールセンは少し悩み……やがて渋々と、本当に渋々とだが口を開く。
「しょうがないわね。こうなったらこっちも覚悟を決めるしかない、か」
それは、レイにとっても驚きの言葉だ。
何故なら、狼の群れと戦うと、そう言ってるように思えたのだから。
実際に転移を自由に使え、悪戯という名の強力な攻撃を行うことが出来る妖精達だ。
その実力を考えれば、狼達と戦ってもどうにか対処出来るだろうというのはレイにも十分予想が出来る。
しかし、次の瞬間にニールセンの口から出た言葉はレイの予想とは違っていた。
「ラビナラ、お願い出来る? あの狼達を説得したいんだけど」
「えー……私がやるのー?」
狼の群れを前にしているにも関わらず、のんびりとした様子で呟くラビナラ。
とてもではないが、そんなラビナラを見ても今の状況をどうにか出来るような力を持っているようには思えなかった。
それでもこの状況でニールセンが頼る……それも全面的な信頼を任せている以上、今のこの状況をどうにかするだけの実力を持っているのは間違いないのだろう。
(取りあえず、お手並み拝見ってところか。……最悪、こっちで何とかしようと思えば出来るだろうし)
この狼の群れを率いているのは、かなり頭のいい狼だった。
だからこそ、当然のように今日猪の肉を与えてくれたレイのことは覚えているだろう。
そしてレイの側にはセトがおり、狼である以上はセトという存在がいるのなら、迂闊にレイに……そして妖精に向かって攻撃をするといったようなことはない筈だった。
「しょうがないわねー。……ほーら、こっちよこっち」
ラビナラはゆっくりと言葉を発しながら狼の方に近付いていく。
狼は、そんなラビナラの様子を不思議そうに眺め……それだけだ。
(あれ? 攻撃はともかく、唸ったりとか、そういうのはしないのか?)
ラビナラに対する狼の様子に疑問を抱くレイだったが、そんなレイの疑問など全く気にした様子もなくラビナラは狼に語りかける。
「ほーら、こっち。私の言葉が分かるわよねー?」
ラビナラの言葉に、狼は特に何か反応する様子もない。
攻撃する様子もないが、だからといってラビナラの言葉を大人しく聞く様子もない。
(どうなる? ……というか、何をしてるのんだ? テイマー能力を持ってるのか?)
テイマーであれば、狼を従えるといったことも出来ない訳ではない。
勿論、テイマーという能力は非常に希少であり、そんな簡単にどうにか出来るかと言われれば、レイにもそれは分からなかったが。
それだけに興味深く一連の動きを眺めていたのだが……
「あら?」
不意にラビナラが戸惑ったような声を出す。
その声が何を意味していたのかというのは、レイにも理解出来た。
何しろ、群れを率いている狼が不意に顔を動かしたのだから。
それも、ラビナラに従うといった様子でなく、口を開く。
「ガウ!」
その吠え声は、明らかに苛立ちに満ちたものだ。
とてもではないが、テイムに成功したようには思えなかった。
……もっとも、テイムというのがあくまでもレイがそう予想しただけであり、ラビナラが実際に何をしていたのかというのはレイにも分からないのだが。
「あれれー? うーん、この子……ちょっと珍しいですねー。かなり意思が強いですよ-」
「え!? ちょっ、ちょっとラビナラ! もしその狼達をどうにか出来なかったら、私の買ってきたこれはどうするのよ!」
「そんなことを私に言われても、困りますー」
その言葉からは、とてもではないが困っているようには思えない。
だが、それでもニールセンは何とかしようとして……ふと、自分の買ってきた荷物に視線を向ける。
そこから漂ってくるのは、焼きたての串焼きから漂ってくる、食欲を刺激する匂い。
しかし、そんな匂いに隠れるようにして、甘く香ばしい香りも漂っていた。
(これだ!)
その香りをから、ニールセンは現状を打破する手段を思い浮かべる。
「ラビナラ、その狼達をどうにかしたら甘くて美味しい食べ物をあげるわよ」
「え!?」
ニールセンの言葉……いや、正確には甘くて美味しい食べ物という言葉に反応したラビナラは、群れを率いる狼のすぐ近くを飛び回る。
一体何をしている? とそうレイを含めてラビナラの能力を知らない者達は疑問に思ったが……その効果はすぐに判明する。
最初は怒りを込めてラビナラを睨み付けていた狼だったが、十秒も経つとその怒りが消えたのだ。
そんな狼の様子に、ラビナラは嬉しそうな様子を見せながら口を開く。
「いい子だから、向こうに行ってねー」
「ワウ……」
ラビナラの言葉に促されるように、群れを率いている狼は他の狼達を連れてその場から立ち去る。
なお、他の狼達はラビナラが最初に何かした時にその術中に引っ掛かっていたのか、自分達のリーダーに逆らうような真似はせずに去っていった。
(テイマーじゃなくて……催眠術とか暗示的な感じで相手に命令をしてるのか? 何か顔の側で飛んでいたのを考えると、鱗粉とかそういうのを使ったのか?)
昆虫のものと同じような羽根を持つ妖精だけに、その羽根から鱗粉の類が出てもおかしくはない。
もっとも、それはあくまでもレイの予想であって、実際にそのようになるのかどうかは分からなかったが。
「これでいいー?」
「ええ、いいわ。じゃあ……えっと、ちょっと待ってね」
そう言い、ニールセンは地面に置かれていた荷物を漁る。
……何人かの妖精がそんな様子を興味深そうに見てはいたが、手を出す様子はない。
もしニールセンの荷物に手を出せばどうなるのか、理解しているのだろう。
長に交渉を任された妖精だけあって、妖精の中でニールセンは実力者という扱いだ。
人間と問題なく接触出来るという点も、長に評価された理由なのだろうが。
勿論、ニールセンも悪戯は好きだ。
それは妖精である以上、本能に刻まれていると言ってもいい。
それでも、状況を判断して悪戯をしないといった真似も出来る。
ダスカーと交渉していた時のように。
そんなニールセンは、荷物の中から焼き菓子……クッキーを取り出すと、そのうちの一枚をラビナラに渡す。
「これー? うーん、美味しそうな匂いがするかもー」
クッキーを一枚と聞くと、非常に少ないように思える。
だが、妖精の大きさは掌程度である以上、一枚のクッキーでもかなり巨大になる。
そんな自分の顔よりも巨大……どころか身体の半分くらいの大きさがあるクッキーを食べ始めるラビナラ。
サクサクという音が周囲に響き、それを食べるラビナラの顔は幸せそうに歪む。
「美味しいですねー」
「そう、満足したようで何よりだわ。……それで、一応聞きたいんだけど、あの狼はまたここに来ると思う?」
「どうでしょうねー。来るかもしれないし、来ないかもしれませんねー」
曖昧に告げるラビナラの言葉に、ニールセンは何と言おうか迷う。
とはいえ、今の状況でまた狼が来ても、妖精であればそれに対処する方法は十分にあった。
今日の時点でそれをやらなかったのは、ニールセンが買った荷物に戦いの被害を出したくなかったから、というのが大きい。
「……で、それはいいとしてだ。その荷物はニールセンが頑張って運ぶとして……」
「え? ちょっ」
レイの言葉にニールセンが何かを言いたそうにするが、レイはそれを聞き流して口を開く。
「次の交渉についてはどうするんだ? 次からはニールセンがギルムに直接向かうのか? ……それはそれで色々と不味いと思うけど」
もしニールセンが一人でギルムに行ったりすれば、その悪戯はギルムで多くの者に混乱をもたらす可能性が高かった。
そうなると、当然レイが迎えに来る必要がある。
幸か不幸か、レイがダスカーから頼まれた依頼は妖精を見つけることで、それは解決している。
つまり、今のレイは特に何か忙しくはない。
……実際には増築工事の手伝いで色々と仕事があるのも事実だし、グリムに頼んだドラゴニアスの死体をマジックアイテムに使えないかどうかを試す……といったような事をする必要もある。
それでも急の用事という意味で一番重要だった妖精の件が大方片付いたのは事実だ。
(あ、そう考えると何気に一日でダスカー様の依頼をやり遂げたのか。……交渉がまだ纏まっていない以上、やり遂げたとは言えないかもしれないけど)
何か微妙な思いをしつつ、レイの視線はニールセンに向けられており……
「うーん、そうね。取りあえず明日の昼前くらいに来てくれれば、その時どうするか決めるわ」
「昼すぎじゃなくて、昼前なのか……まぁ、何となく理由は分かるけど」
恐らく自分が食べている昼食をニールセンも食べたいのだろうと思い、そう告げるのだった。
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