第2278話
「なるほど。向こうの世界は随分と危険な世界のようだな。それとも、ドラゴニアスがいなければ、そこまで危険な世界ではないのか?」
レイの話を聞き終わったエレーナは、静かにそう告げる。
その視線は、居間から見える中庭でセトとイエロが遊んでいる光景に向けられていた。
言葉そのものは多少物騒な言葉ではあったが、セトとイエロが追いかけっこをしている光景を見て、多少は気分が和んだのか、表情は厳しくない。
……実際にドラゴニアスが危険だというのは分かっているのだろうが、それでもレイやヴィヘラの実力があれば十分に倒せると思っているし、実際にそれを倒しているのだから、その点については安心しているのだろう。
とはいえ、自分が置いてきぼりになったのが面白くないのは間違いないのだが。
「そうだな。危険な世界なのは間違いない。実際、俺やヴィヘラ、セトだからこそドラゴニアスを簡単に倒してるけど、その辺の冒険者だと……どうだろうな」
レイが見たところ、純粋に足を止めての戦いという点では、ギルムという辺境にいる冒険者――増築工事で増えた者達を除く――の平均的な実力とケンタウロスの平均的な実力では、ギルムの冒険者に軍配が上がると思う。
だが、実際にドラゴニアスと戦うとなれば、ギルムの冒険者よりもケンタウロスの方が向いてるだろうというのも、間違いのない事実だった。
何しろ、足を止めた実力はともかく、機動力という点ではギルムの冒険者よりもケンタウロスの方が間違いなく上なのだから。
そしてドラゴニアスと戦う場合は、その機動力を活かして戦うのが最善だった。
そういう意味では、ドラゴニアスに襲われたのがケンタウロスでまだよかったのだろう。
……もっとも、ケンタウロス達にしてみれば自分達が襲われたのを喜ぶような真似は、とてもではないが出来なかっただろうが。
「なるほど。そこまでの強さか。……この世界のランクにして、CからBといったところか?」
「だろうな。一匹ずつがランクCの上位かBの下位といったところか。それが群れで襲ってくるんだから、厄介極まりない。ましてや、持っている鱗の色によっては魔法に対する強い耐性を持ってるし」
「レイの魔法でも殺すどころか、傷を付けることが出来ないというのは……レイから直接聞いた話でも、あまり信じられないな」
エレーナは、レイの魔法がどれだけの威力を持っているのか知っている。
それだけに、レイ本人の口からその話を聞いても、素直に信じるような真似は出来なかった。
だからといって、レイが嘘を言ってるとは思わなかったのだが。
それでも素直に信じることが出来ないというのは、間違いのない事実だ。
そして、レイもまたそんなエレーナの態度を素直に受け止める。
エレーナは、今まで何度となくレイの戦いをその目で見ている。
それだけに、レイが自分の魔法を生き延びた相手がいたと言っても、信じるのは難しかったのだろう。
(実際、俺も魔法を使った時に生き残ったのを見た時は驚いたしな)
とはいえ、それだけでどうにか出来る程に、レイとセトの攻撃は甘くはない。
炎の魔法を生き残った赤い鱗のドラゴニアス達も、すぐに直接攻撃をしたレイとセトによって、……そしてケンタウロス達も協力してだが、全滅したのだ。
そして一度純粋な炎の魔法が効かないと分かれば、次に行ったのは火災旋風。
火災旋風の中には壊れた刃物の類を混ぜ、更には火災旋風に巻き込まれたドラゴニアスの身体そのものが武器となる。
幾らレイの魔法に耐えられるだけの抵抗力を持っていても、それはあくまでも炎に対してだけであって、それ以外……物理的な衝撃に対しては、そうでもない。
いや、実際には鱗そのものが下手な防具よりも高い防御力を持っているし、実際にレイはケンタウロスの攻撃をその鱗で弾いている光景を見てもいる。
だが……それはあくまでもケンタウロスの攻撃であって、同じドラゴニアスの身体が火災旋風に巻き込まれたことによって、高速でぶつかってくれば、それに対処するのは難しい。
「まぁ、どうしても見たいのなら……実際に向こうの世界に行くしかないんだけど、それもまた難しいんだよな」
レイの言葉に、エレーナは不満そうにしながらも頷く。
ヴィヘラは元皇女だが、あくまでも元であって、現在は一応ただの冒険者という扱いになっている。
だからこそ、今回のような無茶も出来たのだが……その無茶の代償として、ダスカーは胃に小さくないダメージを負ってしまった。
ヴィヘラですらそんな状態なのだから、姫将軍の異名を持ち、貴族派の象徴とも言うべきエレーナがギルムからいなくなってしまえば、ダスカーの胃に致命的な被害が及ぶだろう。
ましてや、グリムが穴を固定しているから大丈夫ではあるが、それはあくまでも現時点での話だ。
何らかの理由によって、その穴が消滅してしまう可能性は……レイとしてはその可能性はまずないと思っているが、それでも絶対ではない。
もしそうなった場合、レイやエレーナ、ヴィヘラ、セト……そんな面々が、向こうの世界に取り残されてしまう可能性がある。
ダスカーにしてみれば、もしそうなってしまえば破滅以外のなにものでもないだろう。
……エレーナやヴィヘラを抜きにして、レイだけが向こうの世界に残されても、ダスカーにとっては非常に致命的な出来事なのは間違いない。
「その異世界に繋がっている穴が、絶対になくならないとなればいいのだが……そうは出来ないのだろう?」
「そうだな。グリムの存在を公に出来ない以上、俺が持っていたマジックアイテムによって穴を固定しているということになっているし。それが余計にダスカー様にとって穴を信頼出来ない理由になってるんだろうな」
レイのその言葉に、エレーナも頷く。
グリムの存在を知らせることが出来ない以上、そのような理由付けをするしかない。
ないのだが、それはそれで色々と問題となるのだ。
「ダスカー殿を説得する必要があるな」
「あー……うん、そうだな。けど、出来れば止めておいて欲しいと思うけど」
「ヴィヘラだけがいいのか?」
「立場を考えると、どうしてもな。……それに、エレーナの場合は、会いにやって来る連中もいるんだろ? さっきもいたみたいだし」
「それは……」
レイの言葉に、エレーナは言葉に詰まる。
そもそも、エレーナがギルムにいるというのは、理由があってのことだ。
現在ギルムで行われている増築工事にて、以前から何度か行われていた妨害。
それを貴族派が行っていたとして、派遣されてきたのがエレーナだ。
元々貴族派と中立派は、最近――具体的にはレイとエレーナの接触から――友好関係にあった。
当然のように、貴族派としてはそんな中立派を率いるダスカーの治めるギルムが増築工事を行い、街から都市の規模になるのは歓迎すべきことだ。
だが……貴族派の中には、無意味に高いプライドを持つ者がいる。
そのような者達にとって、中立派という存在は邪魔でしかなかった。
だからこそ、ダスカーが行っているギルムの増築工事を邪魔するべく暗躍し……それが知られ、それを防ぐ為にエレーナが派遣されてきたのだ。
貴族派の象徴たるエレーナがいる場所で、妨害行為をすればどうなるか。
これが中立派が見つけたのであれば、言い掛かりだと惚けることも可能だろう。
だが、エレーナが見つけたのであれば、言い逃れをすることは出来ない。
結果として、最近は貴族派の妨害は少なくなっていた。……決してなくなった訳ではなかったが。
そのような嫌がらせであっても、表だって行うのではなく、判明しても注意されるだけですむような、そのような嫌がらせが大半だ。
エレーナがギルムにいるからこそ、その程度ですんでいる嫌がらせや妨害だったが、もしエレーナの姿がギルムになくなった場合、一体どうなるのかというのは、それこそ考えるまでもなく明らかだった。
「ぬぅ」
エレーナもレイが何を言いたいのかはすぐに分かった為か、不承不承諦めるように唸り声を上げる。
そんなエレーナの様子に、レイは笑みを浮かべ……
「レイ」
エレーナの口から出た一言で、その笑みを即座に消す。
別に今の笑みはエレーナを笑ったものではなかったのだが、それはあくまでもレイだからこそ分かることだ。
エレーナがどう思ったのかというのは、それこそ本人でなければ分からないだろう。
「そうだな。えっと……もしかしたらマリーナ辺りは向こうの世界に行きたがるかもしれないな」
誤魔化すようにそう告げるレイだったが、それはまさに藪蛇でしかない。
エレーナはどうしても向こうの世界に行けないが、マリーナの場合は行こうと思えばいつでも向こうの世界に行けるのだから。
もっとも、診療所でのマリーナの役割を考えれば、そう簡単に仕事を休む訳にはいかなかったが。
マリーナが使う、水の精霊を使った回復魔法は診療所で非常に大きな力となっている。
それだけに、マリーナとしてはそう簡単に診療所を休むといった真似は出来ない。
何だかんだと、面倒見のいいマリーナの性格を考えれば当然だろう。
あるいは、自分がいなければレイが死ぬといったような危険があれば、何があっても向こうの世界に行くかもしれないが。
「失礼します。エレーナ様、レイ殿、お茶菓子を持ってきたのですが、どうですか?」
微妙な雰囲気が部屋に漂う中、アーラがそう言って入ってくる。
そんなアーラに、助かったと感謝の視線を向けるレイ。
アーラはレイに笑みを見せると、テーブルの上に焼き菓子や新鮮な果実、干した果実といった甘味を置く。
「アーラ……」
「ほら、エレーナ様が好きな焼き菓子もありますよ。特にこちらの焼き菓子は、とある貴族が雇っている料理人が作ったもので、美味しいと有名なんですよ」
料理人? と一瞬だけ疑問を抱くレイだったが、この世界においてはパティシエという明確な職業はない。
焼き菓子の類を作るのも、基本的には料理人だ。
あるいは、素人が趣味で作ったりといったようなことはあるが。
「ほう」
エレーナはそんなアーラの言葉に興味深そうに焼き菓子に視線を向ける。
姫将軍と言われ、言葉遣いも軍人風のエレーナだったが、女だけあって甘味を好む。
それだけに、美味いと評判の焼き菓子があると言われれば、それに興味を抱かない訳がなかった。
レイに向けていた視線も忘れ、焼き菓子に手を伸ばす。
そして焼き菓子を口に運ぶと……
「っ!?」
一瞬驚きの表情を浮かべ、それからゆっくりと味わっていく。
その様子を見れば、エレーナが焼き菓子を気に入ったというのは間違いない。
公爵家令嬢として、好んでではなかったが色々なパーティに出たことがあるエレーナだったが、そんなエレーナであってもこれだけの焼き菓子を食べたことはそう多くはない。
エレーナの様子を見ていたレイもまた、その焼き菓子に興味を持ったのか焼き菓子を手に取り、口に運ぶ。
「へぇ……これは美味いな」
一口食べただけで、レイもまた焼き菓子の味に感嘆する。
焼き菓子……言ってみれば、クッキーでしかない。
だが、そのクッキーはレイが知っているクッキーと比べても非常に美味い。
レイが知ってるクッキー……それは、それこそ日本にいた時に食べた各種クッキーだ。
日本のお菓子のレベルは世界的に見ても非常に高く、それこそ外国人が食べれば、何故これだけのお菓子がこの値段で!? と驚くことも珍しくはない。
勿論、本職の……それも一流のパティシエが作ったりするようなクッキーに比べれば、味では負ける。
だが、百円かそこらで買えるクッキーがそれだけの味なのだ。
ある意味では世界最高峰と言ってもいいクッキーを小さい頃から食べてきたレイにして、テーブルの上にあるクッキーは間違いなく美味いと断言出来る味だった。
不思議なのは、手に持っている時はしっかりとしたクッキーなのに、口の中にいれると溶けるように崩れていくところだろう。
同じような食感のクッキーは食べたことがあるが、持った時の感触は大きく違う。
「エレーナ様もレイ殿も、満足して貰えたようですね」
「ああ、これは美味い」
自慢げなアーラの言葉に、レイはそう返す。
そしてエレーナもレイの言葉に同意するように頷いていた。
そんな二人の態度は、アーラを満足させるには十分なものだ。
「この焼き菓子はもう少しありますから、持ってきますか?」
そう尋ねるアーラに、エレーナとレイは揃って頷く。
これだけ美味いのなら、出来ればもう少し食べたいと、そう思うのは当然のことだった。
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